[[ファイル:MIHPM(MG).png|top]]\n
[[スコピエ|スコピエ]]
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[[ビトラ|ビトラ]]
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'''[[アルバニア|ア
ル
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\n|-\n|}\n{| class=\"wikitable\"\n|-\n|colspan=\"5\" style=\"text-align: center;\"| '''北マケドニアの主な都市と自治体'''\n|-\n| style=\"text-align: center;\" |都市|| style=\"text-align: center;\" | 都市
人口 || style=\"text-align: center;\" | 市章 || style=\"text-align: center;\" | 自治体
人口\n|-\n|[[スコピエ]] || style=\"text-align: right;\"| 444,000 || style=\"text-align: center;\" | [[ファイル:Coat_of_arms_of_Skopje.svg|25px]] || style=\"text-align: right;\"|506,926\n|-\n|[[ビトラ]] || style=\"text-align: right;\"| 80,000 || style=\"text-align: center;\" | [[ファイル:Coat of arms of Bitola Municipality.svg|25px]]|| style=\"text-align: right;\"| 95,385\n|-\n| [[クマノヴォ]] || style=\"text-align: right;\"| 71,000 || style=\"text-align: center;\" | [[ファイル:Coat of arms of Kumanovo Municipality.svg|20px]]|| style=\"text-align: right;\"| 105,484\n|-\n| [[プリレプ]] || style=\"text-align: right;\"| 68,000 || style=\"text-align: center;\" | [[File:Coat of arms of Prilep Municipality.svg|20px]] || style=\"text-align: right;\"| 76,768\n|-\n| [[テトヴォ]] || style=\"text-align: right;\"| 60,000 || style=\"text-align: center;\" | [[ファイル:Coat_of_arms_of_Tetovo_Municipality.png|25px]] || style=\"text-align: right;\"| 86,580\n|-\n| [[オフリド]] || style=\"text-align: right;\"| 51,000 || style=\"text-align: center;\" | [[File:Coat of arms of Ohrid Municipality.svg|20px]] || style=\"text-align: right;\"| 55,749\n|-\n| [[ヴェレス]] || style=\"text-align: right;\"| 48,000 || style=\"text-align: center;\" | [[ファイル:Grb Veles.png|20px]]|| style=\"text-align: right;\"| 55,108\n|-\n| [[ゴスティヴァル]] || style=\"text-align: right;\"| 46,000 ||style=\"text-align: center;\" | || style=\"text-align: right;\"| 81,042\n|-\n| [[シュティプ]] || style=\"text-align: right;\"| 42,000 ||style=\"text-align: center;\" | [[ファイル:Coat of arms of Štip Municipality.svg|25px]] || style=\"text-align: right;\"| 47,796\n|-\n| [[ストルミツァ]] || style=\"text-align: right;\"| 40,000 ||style=\"text-align: center;\" |[[File:Coat of arms of Strumica Municipality.svg|20px]] || style=\"text-align: right;\"| 54,676\n|-\n| [[コチャニ]] || style=\"text-align: right;\"| 27,000 ||style=\"text-align: center;\" | [[ファイル:Coat of arms of Kočani Municipality.svg|25px]] || style=\"text-align: right;\"| 38,092\n|-\n| {{仮リンク|ラドヴィシュ|en|Radoviš}} || style=\"text-align: right;\"| 16,223 ||style=\"text-align: center;\" | [[ファイル:Coat of arms of Radoviš Municipality.svg|25px]] || style=\"text-align: right;\"| 28,244\n|}\n\n== 経済 ==\n{{main|{{仮リンク|北マケドニアの経済|en|Economy Republic of Macedonia}}}}\n[[File:Skopje X129.JPG|thumb|left|首都[[スコピエ]]]]\n北マケドニアは、ユーゴスラビア時代は低開発地域として、連邦から受け取る開発資金の恩恵を受けていた。ユーゴスラビアが解体されると、連邦からの援助が得られなくなったことに加えて、ユーゴスラビアという市場を失ったことや体制の転換をめぐる混乱によって、経済は大きく落ち込んだ。北に隣接するセルビアは紛争当事国となって国際的な制裁下に置かれた。西の隣国アルバニアは[[冷戦]]期に独自の鎖国政策を採ったことからヨーロッパの最貧国となっており、また独立時は[[社会主義]]・[[冷戦]]体制崩壊によって東のブルガリアも経済的な混乱の最中にあった。海を持たないマケドニアの南の隣国であるギリシャは、呼称問題を理由にマケドニアに対して経済制裁を行い、国内経済は壊滅的な影響を受けた。マケドニアの[[国内総生産]](GDP)は1996年までマイナス成長となった。[[2003年]]頃からは周辺諸国の経済混乱も一段落し、また一連のユーゴスラビア紛争が終結、ギリシャとの関係改善の努力も進められた結果、マケドニア経済は毎年平均して4%程度の成長を続けた。しかし、政治的不安によって2017年の成長率は0%と落ち込んでいる
。2003年には[[世界貿易機関]](WTO)への加盟も果たした。また、マケドニアは[[オフリド湖]]などの観光資源に恵まれており、観光開発にも力を入れている。\n\n2007年の推計では、雇用者の19.6%は農業を中心とした[[第一次産業]]、30.4%は[[第二次産業]]、50%は[[第三次産業]]に従事している。対GDP比では、第一次産業は11.9%、第二次産業は28.2%、第三次産業は59.9%となっており、第三次産業が大きな比率を占めている。[[2007年]]の失業率は34.9%となっているが、これに含まれていない[[闇経済]]はGDPの20%ほどを占めていると考えられる。主要な輸出品目は食品、飲料(ワインなど)、繊維、鉄鋼、鉄などである。輸入品目は機械、自動車、化学製品、燃料、食品などである。主要な貿易相手国はドイツ、ブルガリア、セルビアである
。\n\n[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙]]以降、マケドニアは[[インターネット]]における[[虚偽報道|フェイクニュース]]の一大作成・発信源として知られるようになった。きっかけは[[ヴェレス]]で30歳代の兄弟が[[銀行]]に高級車で乗り付けて数千ドルを引き出し、「[[健康食品]]のサイトで稼いだ」という噂が広まって、追随する者が増えたためであるという
[【世界深層in-depth】マケドニア・偽ニュース量産の小国/情報切り貼り憶測で加工/男子学生は言い放った。「簡単なのにやらない方がおかしい」『[[読売新聞]]』朝刊2017年7月22日(国際面)]。フェイクニュースの作成・流布が行われている背景には、ユーゴスラビア解体以来、経済低迷に苦しむマケドニア国民が「どうすれば稼げるかを考え続け」るようになり、モラルが崩壊したためと指摘されている
[【世界深層in-depth】マケドニア・偽報道 教師も人稼ぎ/地元記者は言い切った。「良心の呵責なんてない」/ユーゴ解体後 産業育たず『[[読売新聞]]』朝刊2017年7月24日(国際面)]。\n{{Clearleft}}\n\n== 国民 ==\n=== 民族 ===\n住民は[[マケドニア人]]が64.2%、[[アルバニア人]]が25.2%、[[トルコ人]]が3.8%、[[ロマ人]]が2.7%、[[セルビア人]]が1.8%、その他が2.3%である(2002年時点)。\n\n{{bar box\n|title=民族構成(北マケドニア)\n|titlebar=#ddd\n|float=right\n|bars=\n{{bar percent|[[マケドニア人]]|blue|64}}\n{{bar percent|[[アルバニア人]]|yellowgreen|25}}\n{{bar percent|[[トルコ人]]|green|4}}\n{{bar percent|その他|red|7}}\n}}\n\nマケドニア人は5世紀から7世紀頃にこの地に移り住んだ[[スラヴ人]]の子孫であり、スラヴ系のマケドニア語を話す。[[マケドニア語]]は[[ブルガリア語]]と極めて類似しており、ブルガリア人からはマケドニア人・マケドニア語はブルガリア人・ブルガリア語の一部であるとみなされている。マケドニア人の多くは自らをブルガリア人とは異なる独自の言語を持った独自の民族であると考えている。\n\n[[File:Makedonija - Etnicki sastav po naseljima 2002.gif|thumb|left|280px|マケドニアの民族分布]]\n\nアルバニア人は主に[[アルバニア語]]を話し、多くは[[ムスリム|イスラム教徒]]である。アルバニア語は[[インド・ヨーロッパ語族]]に属するものの、アルバニア語のみで一つの語派を形成しており、周囲の言語との類似性は低い。アルバニア語は古代の[[イリュリア語]]と関連があると考えられており、アルバニア人は自らを、古来よりこの地に住んでいた[[イリュリア人]]の末裔であると考えている。アルバニア人は一般に、マケドニア人と比べて出生率が高く{{Sfn|久保慶一|2003}}、マケドニアにおけるアルバニア人の人口比率は増大を続けている。またアルバニア人はアルバニアおよびコソボで人口の多数を占めており、彼らが大アルバニア主義の担い手となることが警戒されている。現代の北マケドニア共和国のアルバニア人の有力な政治家らは、いずれも大アルバニア主義は明確に否定している{{Sfn|久保慶一|2003}}。\n\nトルコ人は[[14世紀]]に[[オスマン帝国]]がこの地に進出した後に移り住んできた人々の子孫である。彼らの多くはトルコ語を話すムスリムである。ただし、かつてのオスマン帝国では人々を宗教によって区別していたため、時代によっては、トルコ語を話さず、トルコ人の血を引いていない者もイスラム教徒であれば「トルコ人」とみなされることがある。近代以降でもこのようなイスラム教徒が自らの民族自認を「トルコ人」としていることもある。またスラヴ語を話すイスラム教徒の一部は、自らを「[[トルベシュ]]」「[[ポマク]]」「[[ゴーラ人]]」「[[ムスリム人]]」あるいは「[[ボシュニャク人]]」と規定している。また、「イスラムの信仰を持ち、民族的にはマケドニア人」と考える者もいる。\n\nロマは9世紀頃から、[[西アジア]]・[[南アジア]]よりバルカン半島に移り住んだ民族である。彼らは職人や[[大道芸]]人、演奏家などの職業を主体とする独特の移住型の生活を送っていた。ロマの多くは正教会かイスラムの信仰を持っているものの、独自の民間信仰も併せ持っていることが多い。スコピエの[[シュト・オリザリ]]地区はロマが人口の多数を占め、[[ロマ語]]が公用語に指定されている。\n\n[[アルーマニア人]]は北マケドニア共和国やギリシャ領マケドニアに多く住む民族である。彼らの話す[[アルーマニア語]]は[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[ロマンス語派]]に属し、特に[[ルーマニア語]]との類似性が高い。彼らには第二次世界大戦前までルーマニアの支援を受け、アルーマニア語の学校が運営されていた。彼らはルーマニア人と近縁の民族と考えられており、その起源はこの地方がローマ帝国の支配下にあった時にラテン化した人々であると考えられている。\n{{Clearleft}}\n=== 言語 ===\n住民が母語としている言語は[[マケドニア語]](公用語)が68%、[[アルバニア語]]が25%、[[トルコ語]]が3%、[[セルビア・クロアチア語]]が2%、その他が2%である。マケドニア語は憲法により公用語とされている一方で、地方自治体(オプシュティナ)において話者人口が2割を超える言語は、マケドニア語とともにその自治体の公用語とされる。この規定により、自治体によっては[[アルバニア語]]、[[トルコ語]]、[[ロマ語]]、[[アルーマニア語]]、[[セルビア語]]がマケドニア語とともに公用語に指定されているほか、2019年以降アルバニア語も国家レベルの準公用語となっている
[[https://www.rferl.org/a/macedonia-s-albanian-language-bill-becomes-law/29711502.html Macedonia's Albanian-Language Bill Becomes Law. Radio Free Europe/Radio Liberty. January 15, 2019.]][[https://www.apnews.com/4d9b35e58ca84eeb9ce5b8d00ae98518 Associated Press: Albanian designated Macedonia’s 2nd official language. January 15, 2019.]]。マケドニア語のほか、少数言語話者が母語で教育を受ける機会が保障されており、アルバニア語やトルコ語による教育も行われている。\n\n=== 宗教 ===\n[[File:St.-Panteleymon-Ohrid.JPG|thumb|[[聖パンテレイモン]]修道院([[オフリド]])]]\n宗教は[[正教会]]が70%、[[イスラム教]]が29%、その他が1%である。\n\nマケドニアの領域が[[バルカン戦争]]以降セルビアの領土に組み込まれると、国や地域ごとに教会組織を置く原則となっている[[正教会]]の慣習に従い、この地域は[[セルビア正教会]]の管轄となった。第二次世界大戦以降、共産主義者によるユーゴスラビア連邦政府によって、マケドニアの脱セルビア化が進められ、共産主義者の政府の指導の下、[[1958年]]にマケドニア地域の正教会組織は[[マケドニア正教会]]として分離され、セルビア正教会の下位に属する[[自治教会]]となった。[[1967年]]、マケドニア正教会はセルビア正教会からの完全な独立を宣言した。マケドニアがユーゴスラビアから分離すると、両教会の対立が表面化し、セルビア正教会はマケドニア正教会の独立を認めず、自治教会の地位に復するよう求めている。マケドニア正教会はこれに反発してセルビア正教会との交流を絶ち、セルビア正教会を非難している。マケドニア側でセルビア正教会の自治教会に復することに同意した主教らはマケドニア正教会を去り、独自にセルビア正教会の自治教会として[[正統オフリド大主教区]]を組織し、マケドニア正教会と対立している。\n\n=== 婚姻 ===\n婚姻時、伝統的には女性は婚姻時に夫の姓の女性形に改姓するが、夫の姓に改姓することも、改姓しないことも([[夫婦別姓]])、複合姓を用いることもできる
[[https://www.fbiic.gov/public/2008/nov/Naming_practice_guide_UK_2006.pdf A Guide to Name and Naming Practices], March 2006.]。\n\n== 文化 ==\n{{main|{{仮リンク|北マケドニアの文化|en|Macedonian culture}}}}\n\n\n=== 食文化 ===\n{{main|{{仮リンク|北マケドニア料理|en|North Macedonian cuisine}}}}\n\n=== 祝祭日 ===\n{| class=\"wikitable\"\n|+ 祝祭日\n!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考\n|-\n|[[1月1日]]||[[元日]]|| ||\n|-\n|[[1月6日]]||クリスマスイブ|| ||マケドニア正教(ユリウス暦による)\n|-\n|[[1月7日]]||[[クリスマス]]|| ||マケドニア正教(ユリウス暦による)\n|-\n|移動祝祭日||[[犠牲祭]]|| ||イスラム教徒のみ\n|-\n|[[3月8日]]||女性の日|| ||\n|-\n|移動祝祭日||[[聖大金曜日]]|| ||マケドニア正教(復活祭の直前の金曜日)\n|-\n|移動祝祭日||[[復活大祭|復活祭]]|| ||マケドニア正教\n|-\n|移動祝祭日||光明月曜日|| ||マケドニア正教(復活祭の翌日)\n|-\n|[[5月1日]]||[[メーデー]]|| ||\n|-\n|[[8月2日]]||革命記念日|| ||\n|-\n|[[9月8日]]||独立記念日|| ||\n|-\n|[[10月11日]]||パルチザンの日|| ||\n|-\n|移動祝祭日||[[ラマダーン|ラマダン]]|| ||イスラム教徒のみ\n|}\n\n== 脚注 ==\n{{脚注ヘルプ}}\n
\n\n== 参考文献 ==\n* {{Cite book\n|和書\n|author=エドガー・ヘッシュ\n|authorlink=エドガー・ヘッシュ\n|others=[[佐久間穆]](訳)\n|date=1995年5月\n|title=バルカン半島\n|publisher=みすず書房\n|location=日本、東京\n|isbn=978-4-622-03367-7\n|ref=harv\n}}\n* {{Cite book\n|和書\n|author=柴宜弘\n|authorlink=柴宜弘\n|date=1998年10月\n|title=バルカン史 - 世界各国史\n|publisher=山川出版社\n|location=日本、東京\n|isbn=978-4-634-41480-8\n|ref=harv\n}}\n* {{Cite book\n|和書\n|author=千田善\n|authorlink=千田善\n|date=2002年11月21日\n|title=なぜ戦争は終わらないか ユーゴ問題で民族・紛争・国際政治を考える\n|publisher=みすず書房\n|location=日本\n|isbn=4-622-07014-6\n|ref=harv\n}}\n* {{Cite book\n|和書\n|author=久保慶一\n|authorlink=久保慶一\n|date=2003年10月\n|title=引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題\n|publisher=有信堂高文社\n|location=日本、東京\n|isbn=978-4-8420-5551-0\n|ref=harv\n}}\n* {{Cite book\n|和書\n|author=リチャード・クラプトン\n|authorlink=リチャード・クラプトン\n|others=[[高田有現]](訳)、[[久原寛子]](訳)\n|date=2004年3月\n|title=ケンブリッジ版世界各国史 ブルガリアの歴史\n|publisher=創土社\n|location=日本、東京\n|isbn=978-4-7893-0019-3\n|ref=harv\n}}\n\n== 関連項目 ==\n* [[北マケドニア関係記事の一覧]]\n* [[マケドニア共和国軍]]\n* [[統一マケドニア]] - マケドニアの拡張主義\n* [[大アルバニア]] - アルバニア人が多数派を占めるマケドニアの西部のアルバニアへの統合を主張する\n\n* [[ドスタ・ディモフスカ]]\n* [[マケドニア (曖昧さ回避)]]\n\n== 外部リンク ==\n{{Commons&cat}}\n; 政府\n* [https://www.vlada.mk/ 北マケドニア政府] {{mk icon}}{{sq icon}}{{en icon}}\n\n; 日本政府\n* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/macedonia/ 日本外務省 - 北マケドニア共和国] {{ja icon}}\n* [https://www.at.emb-japan.go.jp/mk/jp/index.html 在北マケドニア日本国大使館] {{ja icon}}\n\n; 観光\n* [http://www.exploringmacedonia.com/ マケドニア政府観光局] {{en icon}}\n* [https://www.macedonia-timeless.com/eng Macedonia Timeless] {{en icon}}\n\n; EU関連\n* {{PDFlink|[http://www.jetro.be/jp/business/euen/EN92-1.pdf ギリシャがマケドニアのEU加盟に拒否権発動も、国名問題の再燃で]}}\n\n{{ヨーロッパ}}\n{{CEFTA}}\n{{OIF}}\n{{Normdaten}}\n{{Good article}}\n{{DEFAULTSORT:きたまけとにあ}}\n[[Category:北マケドニア|*]]\n[[Category:内陸国]]\n[[Category:共和国]]\n[[Category:フランコフォニー加盟国]]"}
+{"title": "コンゴ民主共和国", "text": "{{混同|コンゴ共和国}}\n{{基礎情報 国\n| 略名 =コンゴ民主共和国\n| 日本語国名 =コンゴ民主共和国\n| 公式国名 ='''{{Lang|fr|République Démocratique du Congo}}'''\n| 国旗画像 =Flag of the Democratic Republic of the Congo.svg\n| 国章画像 =[[ファイル:Coat_of_arms_of_the_Democratic_Republic_of_the_Congo.svg|120px|コンゴ民主共和国の国章]]\n| 国章リンク =([[コンゴ民主共和国の国章|国章]])\n| 標語 =''{{Lang|fr|Justice – Paix – Travail}}''
(フランス語:正義、平和、勤労)\n| 位置画像 =Democratic Republic of the Congo (orthographic projection).svg\n| 公用語 =[[フランス語]]\n| 首都 =[[キンシャサ]]\n| 最大都市 =キンシャサ\n| 元首等肩書 =[[コンゴ民主共和国の元首の一覧|大統領]]\n| 元首等氏名 =[[フェリックス・チセケディ]]\n| 首相等肩書 =[[コンゴ民主共和国の首相の一覧|首相]]\n| 首相等氏名 ={{ill2|シルベストル・イルンガ|en|Sylvestre Ilunga}}\n| 面積順位 =11\n| 面積大きさ =1 E11\n| 面積値 =2,345,410\n| 水面積率 =3.3%\n| 人口統計年 =2012\n| 人口順位 =\n| 人口大きさ =1 E7\n| 人口値 =67,800,000\n| 人口密度値 =25\n| GDP統計年元 =2008\n| GDP値元 =6兆5,264億
[IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=62&pr.y=14&sy=2008&ey=2008&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=636&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=])]\n| GDP統計年MER =2008\n| GDP順位MER =113\n| GDP値MER =115億
\n| GDP統計年 =2008\n| GDP順位 =81\n| GDP値 =206億
\n| GDP/人 =328
\n| 建国形態 =[[独立]]
- 宣言
- 承認\n| 建国年月日 =[[ベルギー]]より
[[1960年]][[6月30日]]\n| 通貨 =[[コンゴ・フラン]]\n| 通貨コード =CDF\n| 時間帯 =+1 ~ 2\n| 夏時間 =なし\n| 国歌名 =起てコンゴ人よ\n| ISO 3166-1 = CD / COD\n| ccTLD =[[.cd]]\n| 国際電話番号 =243\n| 注記 =\n}}\n[[画像:Dem congo sat.jpg|thumb|衛星写真]]\n'''コンゴ民主共和国'''(コンゴみんしゅきょうわこく)は、[[中部アフリカ]]に位置する[[共和制]][[国家]]。北西に[[コンゴ共和国]]、南西に[[アンゴラ]]、南に[[ザンビア]]、東に[[タンザニア]]、[[ブルンジ]]、[[ルワンダ]]、北東に[[ウガンダ]]、[[南スーダン]]、北に[[中央アフリカ共和国]]と国境を接し、西は[[大西洋]]に面する。首都は[[キンシャサ]]である。\n\n[[アフリカ大陸]]中央部の[[コンゴ川]]流域に広がり、[[アルジェリア]]に続いてアフリカ大陸で第2位の面積を擁し、世界全体でも第11位の面積を擁する。[[1997年]]に国名を'''[[ザイール]]'''から改称した。\n\n== 国名 ==\n正式名称は[[フランス語]]で、''République Démocratique du Congo''(レピュブリク・デモクラティク・デュ・コンゴ)。\n\n公式の英語表記は、''Democratic Republic of the Congo''(デモクラティク・リパブリク・オヴ・ザ・コンゴ)。\n\n[[日本語]]の表記はコンゴ民主共和国。簡略表記としては「コンゴ(旧ザイール)」が多いが、「DRコンゴ」と呼ばれることもある。「コンゴ」は[[バントゥー語]]で「山」を意味する
[{{cite | title=外国地名由来辞典 | author=[[本保正紀]] | publisher=[[能登印刷出版部]] | year=1995 | chapter=コンゴ共和国 }}]。\n\n1960年から1964年の間の正式名称は西の[[コンゴ共和国]]と同じ「[[コンゴ共和国 (レオポルドヴィル)|コンゴ共和国]]」であり
[{{cite web\n|title={{lang|fr|Constitution de la République Démocratique du Congo du 1er août 1964}} (1964年8月1日のコンゴ民主共和国憲法)\n|language=フランス語\n|work={{lang|en|Global Legal Information Network}}\n|url=http://www.glin.gov/view.action?glinID=191255\n|year=1964\n|accessdate=2012年6月12日\n}} ][{{cite web\n|title={{lang|en|Chapter 4 - Government and Politics: Postindependence Political Development}}\n|language=英語\n|author={{lang|en|Thomas Turner}}\n|work={{lang|en|A Country Study: Zaire (Former)}}\n|page=3\n|url=http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/zrtoc.html\n|year=1993\n|publisher=[[アメリカ議会図書館]]\n|accessdate=2012年6月12日\n|quote={{lang|en|Zaire was formally called the Republic of the Congo from independence to August 1, 1964, when it became the Democratic Republic of the Congo.}}\n}}][{{cite web\n|title={{lang|en|Burundi–Democratic Republic of the Congo ''(Zaire)'' Boundary}}\n|language=英語\n|work={{lang|en|International Boundary Study}}\n|url=http://www.law.fsu.edu/library/collection/LimitsinSeas/IBS048.pdf\n|format=PDF\n|date=1965年4月30日\n|publisher=[[アメリカ合衆国国務省]]情報調査局\n|accessdate=2012年6月12日\n|quote={{lang|en|The name of the Republic of the Congo was officially changed to the Democratic Republic of the Congo on August 1, 1964.}}\n}}]、混同を避ける為に'''コンゴ・レオポルドビル'''、'''コンゴ・キンシャサ'''などの名称で呼ばれた。\n\n* [[1885年]] - [[1908年]] [[コンゴ自由国]](ベルギー国王の私有地)\n* 1908年 - [[1960年]] [[ベルギー領コンゴ]]\n* 1960年 - [[1964年]] [[コンゴ共和国 (レオポルドヴィル)|コンゴ共和国]]\n* 1964年 - [[1971年]] コンゴ民主共和国\n* 1971年 - [[1997年]] [[ザイール共和国]]\n* 1997年 - 現在 コンゴ民主共和国\n\n== 歴史 ==\n{{main|{{仮リンク|コンゴ民主共和国の歴史|en|History of the Democratic Republic of the Congo}}}}\n\n=== コンゴ王国 ===\n{{main|[[:en:Early Congolese history|Early Congolese history]]|[[:en:Bantu expansion|Bantu expansion]]|コンゴ王国|クバ王国|[[:en:Anziku Kingdom|Anziku Kingdom]]|[[:en:Kingdom of Luba|Kingdom of Luba]]|[[:en:Kingdom of Lunda|Kingdom of Lunda]]|奴隷貿易|サントメ・プリンシペの歴史}}\n13 - 17世紀にかけて[[コンゴ王国]]が栄えたほか、南部には[[クバ王国]]があった。\n\n=== ベルギー植民地時代 ===\n{{main|コンゴ自由国|ベルギー領コンゴ}}\n\n1885年に[[ベルギー]]の[[国王]]、[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルト2世]]の私有地「[[コンゴ自由国]]」({{lang-fr|État indépendant du Congo}}、[[1885年]] - [[1908年]])とされた。「国」となっているが、当時のコンゴは、ベルギー議会の影響も及ばない国王の完全な私有地であった。当初、レオポルド2世は私費を切り詰めて鉄道を建設するなどコンゴの近代化を推進したが、すぐに圧政に転じた。現地住民は[[象牙]]や[[ゴム]]の採集を強制され、規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が情け容赦なく科された。当時、大なり小なり、植民地での強制的な収奪を当たり前のものとしていた欧州諸国においてもこの圧政は非難の的となり、植民地経営に関心がなかったベルギー政府を動かすこととなった。\n\n1908年、ベルギー[[政府]]は国王からコンゴを買い取り、所有権がベルギー政府に移され、コンゴは正式に[[植民地]][[ベルギー領コンゴ]]([[1908年]] - [[1960年]])となった。1950年代後半から[[ジョゼフ・カサブブ]]の{{仮リンク|コンゴ人同盟|en|ABAKO}}(Alliance des Bakongo)、[[パトリス・ルムンバ]]の{{仮リンク|コンゴ国民運動|en|Mouvement National Congolais}}(MNC)が独立闘争を開始。\n\n=== 独立とコンゴ動乱 ===\n{{main|コンゴ動乱|コンゴ共和国_(スタンレーヴィル)|コンゴ共和国_(レオポルドヴィル)|カタンガ州|[[:en:Kasai region|Kasai region]]|コルヴェジ|カタンガ共和国|{{仮リンク|南カサイ|en|South Kasai|label=南カサイ鉱山国}}|[[:en:History of the Kasai region|History of the Kasai region]]}}\n\n1960年6月30日に'''コンゴ共和国'''(1964年、コンゴ民主共和国に改称)として[[ベルギー]]から独立。カサブブは[[大統領]]、ルムンバは[[首相]]に就任。独立から1週間も経たずして内乱とベルギー軍の介入を経験し、「[[コンゴ動乱]]」が始まる。1961年、ルムンバ首相が殺害される。\n\n=== ザイール共和国(モブツ政権)・第一次コンゴ戦争 ===\n{{main|[[:en:Zaire|Zaire]]|コンゴ解放民族戦線|{{仮リンク|第一次シャバ紛争|en|Shaba I}}|{{仮リンク|第二次シャバ紛争|en|Shaba II}}|{{仮リンク|コルヴェジの戦い|en|Battle of Kolwezi}}|[[第一次コンゴ戦争]]}}\n[[ファイル:Flag of Zaire.svg|right|thumb|180px|ザイール共和国の国旗]]\n\n1965年11月、[[モブツ・セセ・セコ|モブツ]]商務・雇用・貿易相が[[クーデター]]で実権を掌握、1997年までの32年間モブツ大統領の独裁が続いた。\n\n1971年に国名を'''[[ザイール共和国]]''' (''République du Zaïre'') に改める。同時に通貨が[[コンゴ・フラン]]から[[ザイール (通貨)|ザイール]]に変更された。{{仮リンク|革命人民運動|en|Popular Movement of the Revolution}} (MPR) の一党独裁制が敷かれ、民族主義的な{{仮リンク|ザイール政策|en|Authenticité (Zaire)}} が推進される。\n\n[[1974年]][[10月30日]]、[[ベトナム戦争]]への徴兵を拒否して[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]統一ヘビー級王座を剥奪された[[モハメド・アリ]]が[[ジョージ・フォアマン]]に挑戦し、ザイールの首都キンシャサで \"The Rumble in the Jungle\"([[キンシャサの奇跡]])と呼ばれる王者奪還劇を果した。当時のザイールではモブツを支援した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に反発する感情が根強く、アリへの大声援([[スワヒリ語]]で \"Ali bomaye!\" と言っていた
[{{cite news| url=http://www.bbc.co.uk/sport/0/mobile/boxing/16289663 | work=BBC Sport | title=What they said about Muhammad Ali | date=2012-01-17 | accessdate=2012-03-07}}])が送られる模様がテレビで夜10時から全米に生中継された。\n\n[[1977年]]、[[エボラ出血熱]]が[[エボラ川]]流域で確認された
[{{cite journal\n|last1=Johnson\n|first1=K. M.\n|last2=Webb\n|first2=P. A.\n|last3=Lange\n|first3=J. V.\n|last4=Murphy\n|first4=F. A.\n|year = 1977\n|title = Isolation and partial characterisation of a new virus causing haemorrhagic fever in Zambia\n|journal = Lancet\n|volume = 309\n|issue = 8011\n|pages = 569–71\n|pmid = 65661\n}}]。\n[[1977年]][[3月8日]]、{{仮リンク|第一次シャバ紛争|en|Shaba I}}。[[1978年]][[5月11日]]、{{仮リンク|第二次シャバ紛争|en|Shaba II}}。[[1978年]][[5月18日]]、{{仮リンク|コルヴェジの戦い|en|Battle of Kolwezi}}。\n\n1990年4月、民主化要求の高まりを受け[[議会]]は11月に[[複数政党制]]への道を開く[[憲法]]修正案を可決するも、12月任期2期を満了したモブツ大統領が3選を禁止した憲法条項を無視し辞任を拒否した。\n\n議会は1996年4月、東部[[南キヴ州]]の[[ツチ]]系[[バニャムレンゲ]]の追放を決議し政府軍が攻撃を開始、[[ルワンダ]]、[[ウガンダ]]、[[ブルンジ]]などに支援された[[バニャムレンゲ]]や[[コンゴ・ザイール解放民主勢力連合]] (AFDL) 等の武装組織が反撃し、1997年5月の[[第一次コンゴ戦争]]では[[アンゴラ]]が[[ザイール]]に出兵し、[[キンシャサ]]を制圧してモブツ政権は崩壊した。\n\n=== コンゴ民主共和国・第二次コンゴ戦争 ===\n[[File:Second congo war belligerents.png|thumb|第二次コンゴ戦争の交戦国。黒: コンゴ民主共和国 (DRC)、緑: 反DRC連合、濃青: DRC連合、薄青: DRC連合(直接は介入せず)]]\n{{main|[[第二次コンゴ戦争]]}}\n\nAFDLの[[ローラン・カビラ]]議長が大統領に就任、国名をザイール共和国から'''コンゴ民主共和国'''に変更した。カビラ大統領は[[司法]]権を除く全権を自身に付与することを発表するなど、強権支配体制を敷いた。カビラ大統領はツチ系が政権を握るルワンダなどの影響力が強まることを恐れ、政権や軍部からツチ系の排除を始めたために1998年8月に東部を中心として[[第二次コンゴ戦争]]に発展していった({{仮リンク|イトゥリ紛争|en|Ituri conflict}}の継続、{{仮リンク|キヴ紛争|en|Kivu conflict}}の開始)。国内の[[ダイヤモンド]]や[[コバルト]]などの豊富な鉱産資源に関する利権も絡み、反政府勢力[[コンゴ民主連合]] (RCD) を主にウガンダとルワンダが、政府軍を主に[[ジンバブエ]]、[[ナミビア]]、アンゴラが支援する事態となった。戦闘などで住民20万人以上が死亡し、紛争に伴う食糧・医薬品不足などでさらに150万人が死亡したとされている。\n\n[[1998年]]から[[2000年]]に[[東部州 (コンゴ)|東部州]](現[[高ウエレ州]])の金鉱山({{仮リンク|ドゥルバ鉱山|en|Durba Mine}}と{{仮リンク|ワツァ|en|Watsa|label=ワツァ鉱山}})で[[マールブルグ熱]]の感染により128人が死亡した。\n\n政府と介入5か国は1999年7月、ザンビアの[[ルサカ]]で{{仮リンク|ルサカ停戦協定 (1999年)|en|Lusaka Ceasefire Agreement|label=ルサカ停戦協定}}に調印。しかしカビラ大統領は[[国際連合|国連]]部隊の自由な展開を拒否し、停戦は事実上無効化した。[[2001年]][[1月16日]]、ローラン・カビラ大統領が暗殺され(護衛兵に撃たれ死亡)、26日に後継者に第二次コンゴ戦争をコンゴ軍参謀総長として指揮していた長男の[[ジョゼフ・カビラ]]が選ばれ、当時世界最年少の大統領となった
[{{Cite news|url=http://www.congokin.co.uk/5004-2/|title=THE ACTUAL PRESIDENT OF THE DRC|publisher=congokin|date=2015-12-30|accessdate=2018-08-24}}]。\n\n和平協定に向け、2001年10月15日から[[エチオピア]]の[[アディスアベバ]]で対話が実現。[[ルワンダ]]が支援するコンゴ民主連合 (RCD)、[[ウガンダ]]が支援する{{仮リンク|コンゴ解放運動|en|Movement for the Liberation of the Congo}} (MLC)、そしてRCDから分離した{{仮リンク|コンゴ民主連合解放運動|en|Forces for Renewal}} (RCD-ML)
[Human Rights WatchはRCD-K-MLが[[少年兵]]を徴兵していることを告発した。[http://www.watchlist.org/reports/files/dr_congo.report.20060426.php?p=15 CHILDREN ASSOCIATED WITH ARMED FORCES AND GROUPS], ''The Watchlist on Children and Armed Conflict'', 2006-01-31, accessed on 2007-02-11]の主要反政府勢力3組織などが、協議継続などをうたった共同声明に調印した。\n\n2002年2月25日、戦争終結を目指す各派の対話が[[ボツワナ]]の[[クェット・マシーレ]]前大統領を調停役として[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[サンシティ (南アフリカ)|サンシティ]]で再開されたが決裂。対話は南アフリカの[[プレトリア]]で、[[セネガル]]のニアセ前首相の仲介で再開され、反政府勢力からRCDとMLCが参加した。[[2002年]]8月、[[タボ・ムベキ|ムベキ]][[南アフリカ共和国|南アフリカ]]大統領の仲介により、12月に[[プレトリア包括合意 (第二次コンゴ戦争)|プレトリア包括和平合意]]が成立した。この第二次コンゴ戦争で起きた虐殺・病・飢えで死んだものは500~600万人とされる。\n\n2003年には[[コンゴ共和国]]の感染爆発が飛火した北部地方で[[エボラ出血熱]]が流行。死亡者は100名以上に及んだ。また、同国を生息地とする[[ゴリラ]]へも感染が広がり、2005年までに全個体数の2/3にあたる約5,500匹が死亡したと発表されている。[[2003年]]7月、合意に基づき暫定政府([[:en:Transitional Government of the Democratic Republic of the Congo|Transitional Government of the Democratic Republic of the Congo]])が正式に発足。しかし暫定政権はその後も国内すべてを掌握できず、引き続き戦争状態が続いた。民族対立とも相まって東部([[イトゥリ州]]、[[南キヴ州]]、[[北キヴ州]])は[[虐殺]]・略奪・[[強姦]]の頻発する一種の無法地帯となった。\n\n=== 民主化 ===\n{{main|[[:en:Democratic Republic of the Congo general election, 2006|Democratic Republic of the Congo general election]]}}\n\n和平合意により2005年に大統領選挙と国民議会選挙を行い民主的政権に移管する予定だったが、同年7月に選挙準備の遅れを理由に延期された。[[2005年]]12月には、この選挙の前提としての憲法草案に対する国民投票が行われ、賛成多数で可決した。この結果を受けて2006年2月18日に新憲法が発効され、[[2006年]]6月に選挙が実施されることが決まった。\n\nだが各地で武装組織の活動が続き、不穏な情勢の中で投票日を迎えた。2006年6月までに実施を予定していたが、実施されたのは同年7月30日であった。[[2006年]]7月30日、大統領選挙と議会選挙が行われた。定数500。8月20日、大統領選挙の暫定公式結果が発表された。当選に必要な過半数の得票率の候補者がなく10月29日に上位2人の決選投票が行われることになった。独立選挙委員会の発表によると、「大統領多数派連合」から立候補したカビラ暫定政府大統領の得票数は44.81%。元{{仮リンク|コンゴ解放運動|en|Movement for the Liberation of the Congo}} (MLC) 指導者で暫定政府副大統領のベンバが20.03%で2位。投票率は、約2500万人の登録有権者のうち70%が投票した。\n\n=== 2007年以降の暴力・紛争 ===\n{{main|イトゥリ州|南キヴ州|北キヴ州|{{仮リンク|イトゥリ紛争|en|Ituri conflict}}|{{仮リンク|キヴ紛争|en|Kivu conflict}}|3月23日運動|マイマイ (コンゴ)|人民防衛国民会議|ルワンダ解放民主軍}}\n\n[[2007年]][[8月3日]]、[[アルバート湖]]([[ホイマ県]]タロー石油)で石油探査中の[[ウガンダ]]側の[[ヘリテージ・オイル]]社とコンゴ側が交戦し、両国が国境に軍隊を派遣。\nウガンダと[[南スーダン]]自治政府軍による[[神の抵抗軍]](LRA)掃討作戦{{仮リンク|ガランバ攻勢 (2008年 - 2009年)|en|2008–09 Garamba offensive|label=ガランバ攻勢}}([[2008年]][[12月14日]] - [[2009年]][[3月15日]])に協力する部隊を派遣した。神の抵抗軍の国内における組織的な活動は低下し、2013年現在、国軍は、国内でLRAは活動していないとしている。\n\n2009年時点でコンゴ国民は毎月およそ45000人が亡くなっていたと考えられており
[Kristof, Nicholas D. (31 January 2010) [http://www.nytimes.com/2010/01/31/opinion/31kristof.html Orphaned, Raped and Ignored], New York Times] 、長い紛争の間に死亡した人数は90万人から540万人程度と推計された。
[Butty, James (21 January 2010) [http://www1.voanews.com/english/news/africa/butty-congo-war-death-toll-questioned-21jan10-82223332.html A New Study Finds Death Toll in Congo War too High], VOA News] 死亡者数は蔓延る感染病と飢饉によるものである。報告によれば、亡くなった人のほぼ半数が5歳以下の子供であった。
[{{cite news| url=http://www.nytimes.com/2008/01/23/world/africa/23congo.html | work=The New York Times | title=Congo's Death Rate Unchanged Since War Ended | first=Lydia | last=Polgreen | date=23 January 2008 | accessdate=27 March 2010}}] 民間人を殺害する武器の運び屋や、資産の破壊、性的暴力の拡散、
[[http://ihl.ihlresearch.org/index.cfm?fuseaction=page.viewpage&pageid=2104 \"IHL and Sexual Violence\"]. The Program for Humanitarian Policy and Conflict Research.] 何十万もの人々を家から逃げ出させる人道主義や人権法違反が度々報告されていた。コンゴ民主共和国では毎年[[コンゴ民主共和国における性的暴力|40万人以上の女性がレイプされている]]との研究結果もある。
[\"[http://www.independent.co.uk/news/world/africa/400000-rapes-in-congo-in-one-year-2283102.html 400,000 rapes in Congo in one year]\". ''The Independent.'' May 12, 2011.]\n\n[[2012年]][[11月20日]]、[[ウガンダ]]と[[ルワンダ]]に支援された[[3月23日運動]]が紛争を起こした({{仮リンク|3月23日運動の反乱|en|M23 rebellion}})。政府は両国を非難した。\n\n[[2013年]][[2月24日]]、コンゴ民主共和国を安定化させるための国際連合が後援する協定(コンゴ民主共和国と周辺地域の安全保障・協力にむけた枠組み)がエチオピアの首都[[アディスアベバ]]で調印された。調印したのはコンゴ民主共和国、[[コンゴ共和国]]、[[アンゴラ]]、[[ブルンジ]]、[[中央アフリカ共和国]]、[[ルワンダ]]、[[南アフリカ]]、[[南スーダン]]、[[ウガンダ]]、[[タンザニア]]からなるアフリカの11ヶ国である (UN News Centre 2013年)
[\n{{cite report\n|title=UN urges long-term commitment to today's peace deal on DR Congo\n|url=http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=44211#.UU0HYhcbKSo\n|date=February 24, 2013\n|publisher=United Nations News Centre}}]。同年3月28日の[[国際連合安全保障理事会決議2098]]により国連初の目標を限定した[[平和への課題|平和執行]]部隊である{{仮リンク|強制介入旅団|en|Force Intervention Brigade}}(FIB)が設置され、国連による本格的な武力介入が始まり、同年11月6日に3月23日運動は壊滅的打撃を受けて降伏した。\n\n2014年6月11日、コンゴ民主共和国とルワンダの国境付近で双方の軍が自国側に侵入したとして発砲を開始、コンゴ軍の5人が死亡した
[{{Cite news\n|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3017437|title=コンゴとルワンダが国境で戦闘、コンゴ兵5人死亡|work=AFPBBNews|publisher=フランス通信社|date=2013-06-12\n|accessdate=2014-06-13}}]。\n\n===2018年の大統領選挙===\n[[2016年]]12月、同月19日に任期が切れたにも拘らず退陣せず居座るカビラ大統領に対し退陣デモが発生し、治安部隊の鎮圧により少なくとも40人が死亡し460人が拘束された
[{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170111/k00/00e/030/228000c|title=コンゴ民主共和国 居座る大統領、混乱招く|work=毎日新聞|publisher=毎日新聞社|date=2017-01-11\n|accessdate=2017-10-22}}]。[[2017年]]末までに大統領選を実施することで与野党が合意したものの、選挙管理委員会は有権者登録の遅れを理由に選挙実施を[[2019年]]4月以降に延期した
[{{Cite news|url=http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/155514|title=コンゴ大統領選、大幅延期に 任期切れのままカビラ氏続投|work=沖縄タイムスプラス|publisher=沖縄タイムス社|date=2017-10-12|accessdate=2017-10-22}}]。\n\n[[2018年]][[12月30日]]、カビラ大統領の後継者と野党の2候補の計3人による大統領選挙が行われたが、開票の結果全ての候補者が優勢であることを主張するなど情勢は混乱を極めた。\n[[2019年]][[1月1日]]、コンゴ政府は[[インターネット]]を通じた主張が騒乱を招くとしてネットの遮断を行った
[{{Cite web |date= 2019-01-03|url= https://www.jiji.com/jc/article?k=2019010200085&g=int|title=コンゴ政府、全土でネット遮断=大統領選後の騒乱阻止と説明 |publisher=時事通信 |accessdate=2019-01-03}}]。\nその後、[[1月10日]]に[[選挙管理委員会]]は野党候補である[[民主社会進歩同盟]](UDPS)の[[フェリックス・チセケディ]]が約38.6%の得票率を得て勝利したと発表した。\n\n== 政治 ==\n{{Main|{{仮リンク|コンゴ民主共和国の政治|en|Politics of the Democratic Republic of the Congo}}}}\n\n* 政治体制:[[共和制]]。\n* 大統領:[[フェリックス・チセケディ]](任期: 2019年1月24日 - )\n* [[内閣]]:閣僚は大統領が任免。新憲法下で首相職が新設され、現在は{{ill2|ブルーノ・チバラ|en|Bruno Tshibala|label=ブルーノ・チバラ・ンゼンゼ}}
[[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/congomin/data.html#02 コンゴ民主共和国基礎データ]外務省、2018年6月15日閲覧。]が首相。\n* 議会:二院制で、{{ill2|元老院 (コンゴ民主共和国)|en|Senate (Democratic Republic of the Congo)|label=元老院}}(上院に相当、間接選挙)と{{ill2|国民議会 (コンゴ民主共和国)|en|National Assembly (Democratic Republic of the Congo)|label=国民議会}}(下院に相当、直接選挙、500議席)で構成される。\n* 政党:チセケディ政権与党の{{仮リンク|民主社会進歩連合 (コンゴ民主共和国)|en|Union for Democracy and Social Progress (Democratic Republic of the Congo|label=民主社会進歩連合}} (UDSP)、旧カビラ政権の与党[[再建民主人民党]] (PPRD)、ADFLの後身[[人民権力委員会]] (CPP) のほか、旧モブツ政権下の独裁政党{{仮リンク|革命人民運動|en|Popular Movement of the Revolution}} (MPR)、そして[[キリスト教民主社会党]] (PDSC) など。\n\n== 国際関係 ==\n{{Main|{{仮リンク|コンゴ民主共和国の国際関係|en|Foreign relations of the Democratic Republic of the Congo}}}}\n=== 日本 ===\n1960年のコンゴ独立と同時に国家承認し、大使館を開設
[[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/congomin/data.html コンゴ民主共和国(Democratic Republic of the Congo)]]。コンゴ川に唯一架かる{{仮リンク|マタディ橋|en|Matadi Bridge}}は[[日本]]の援助で建設された。\n\n明治初期、[[岩倉使節団]]はベルギーを訪問した際、後に「コンゴ自由国」の支配者となるレオポルド2世に謁見した。\n\n[[1921年]]([[大正10年]])の3月3日から9月3日までの6ヶ月間、当時皇太子であった[[裕仁親王]](後の[[昭和天皇]] )が、欧州訪問を行った際([[皇太子裕仁親王の欧州訪問]])、ベルギーに滞在していた6月11日、レオポルド2世の墓に参拝した。\n\n昭和戦後には、[[京都大学]]に[[京都大学霊長類研究所]] が設置され、 [[山極寿一]]や[[松沢哲郎]]などの[[霊長類学]]の研究者によって、コンゴ民主共和国におけるゴリラやチンパンジー、ボノボなどの霊長類などの調査・研究が行われている。\n\n在留日本人数 - 71人(2017年7月現在)
[[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/congomin/data.html#section6 外務省 コンゴ民主共和国基礎データ]]\n在日コンゴ民主共和国人数 - 383人(2016年12月)
[[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/congomin/data.html#section6 外務省 コンゴ民主共和国基礎データ]]\n\n=== 中華人民共和国 ===\n[[File:Palais du peuple de la RDC.jpg|thumb|コンゴの[[国会議事堂]]に相当する人民宮殿。[[中華人民共和国]]の援助で建設された。]]\n1972年に国交を樹立
[Hon, Tracy; Jansson, Johanna; Shelton, Garth; Liu, Haifang; Burke, Christopher; Kiala, Carine. Evaluating China’s FOCAC commitments to Africa and mapping the way ahead . Centre for Chinese Studies, Stellenbosch University. January 2010]、モブツやカビラ親子の時代から軍事的にも経済的にも密接な関係を持ってきた。ザイールの時代には{{仮リンク|第一次シャバ紛争|en|Shaba I}}などで中国から軍事顧問団の派遣や戦車などの武器供与を受け
[{{Citation|url= https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/DOC_0000865335.pdf|format=PDF|title=zaire: the military under mobutu|publisher=CIA|accessdate=2019-07-11}}][[http://www.country-data.com/cgi-bin/query/r-15149.html Zaire - Army - Country Data]][{{cite web |url=http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/r?frd/cstdy:@field(DOCID+zr0173) |title=Zaire: Relations with the Communist World|publisher=Library of Congress Country Studies|date=December 1993|accessdate=2018-08-25}}]、モブツの所有する[[中国庭園]]やコンゴ議会の所在する{{仮リンク|キンシャサ人民宮殿|en|Palais du Peuple (Kinshasa)}}と国立競技場の[[スタッド・デ・マルティール]]なども中国の援助で建設された
[{{cite web |work=Centre d'études stratégiques du bassin du Congo |date=10 October 2007|first=Aimé D. |last=Mianzenza|title=Percée Tonituante de la Chine en République Démocratique du Congo: 6 milliards de US$ de prêt qui rend nerveux les Europeens|url=http://www.cesbc.org/developpement_durable/economie/rdcchine.htm|language=French|trans_title=Thunderous Breakthrough of China in the Democratic Republic of Congo: US $6 billion dollar loan makes Europeans nervous|accessdate=2017-07-19}}][{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=9irZf11s4NkC&pg=PA229&lpg=PA229|title=Architectural Encounters with Essence and Form in Modern China|first1=Peter G. |last1=Rowe|first2=Seng |last2=Kuan|publisher=MIT Press|year=2004|isbn=026268151X|page=229}}][{{cite web |url=http://www.congo-tourisme.org/visiter-la-rdc/visiter-la-rdc-2/se-loger/points-dinteret/|title=Points d’intérêt|accessdate=2017-07-19|language=French|trans_title=Points of Interest|publisher=Tourisme RDC Congo}}][{{cite book|url=https://books.google.com/?id=x5na1WdCYywC&q=Martyrs%27+Stadium|first=Guy|last=Oliver|title=Almanack of World Football 2007:The definitive guide featuring all the facts and figures from the FIFA World Cup|publisher=Headline Book Publishing|year=2006|isbn=0755315065|page=59}}][{{cite web |url=http://www.ccs.org.za/wp-content/uploads/2010/03/ENGLISH-Evaluating-Chinas-FOCAC-commitments-to-Africa-2010.pdf |title=Evaluating China's FOCAC commitments to Africa and mapping the way ahead |last1=Hon |first1=Tracy |last2=Jansson |first2=Johanna |last3=Shelton |first3=Garth |last4=Liu|first4=Haifang |last5=Burke |first5=Christopher |last6=Kiala |first6=Carine |year=2010 |publisher=Centre for Chinese Studies, [[Stellenbosch University|University of Stellenbosch]] |page=43 |accessdate=2017-07-19}}]。コンゴ軍参謀総長を務め、コンゴ初の普通選挙で選ばれた大統領でもあるジョゼフ・カビラは[[中国人民解放軍国防大学]]に留学していた経歴を持つ
[{{Cite news|url=http://www.people.com.cn/GB/paper68/5910/593184.html|title=非洲总统回中国母校(名人特写)|publisher=[[人民網]]|date=2002-04-04|accessdate=2018-08-24}}][{{Cite news|url=https://www.globalsecurity.org/military/world/congo/kabila-kabange.htm|title=Joseph Kabila Kabange|publisher=GlobalSecurity.org|accessdate=2018-08-25}}]。\n\n[[国際連合コンゴ民主共和国ミッション]]では[[中国人民解放軍]]の平和維持部隊を派兵し
[{{cite web |url=http://www.xinhuanet.com/english/2018-02/10/c_136965487.htm|title=Feature: Chinese soldiers committed to peacekeeping mission in DRC ahead of Spring Festival\n|publisher=[[新華網]]|date=2018-02-10|accessdate=2018-08-25}}]、コンゴ軍の訓練も行っていた
[See Africa Confidential, \"A multinational road to army reform\", 24 July 2009, p. 9][Reuters, \"Factbox: International efforts at military reform in Congo\", 23 December 2009.]。コンゴ民主共和国への投資も積極的に行い
[Hon, Tracy; Jansson, Johanna; Shelton, Garth; Liu, Haifang; Burke, Christopher; Kiala, Carine (January 2010). \"Evaluating China's FOCAC commitments to Africa and mapping the way ahead\" . Centre for Chinese Studies, Stellenbosch University. ]、なかでも中国企業の{{仮リンク|洛陽欒川モリブデン|en|China Molybdenum}}による世界最大の銅コバルト鉱山{{仮リンク|テンケ・フングルーメ|en|Tenke Fungurume Mine}}の買収はコンゴ最大の外国投資とされる
[[https://www.ft.com/content/054bbb3a-1e8b-11e6-a7bc-ee846770ec15 China plays long game on cobalt and electric batteries] FT][[http://mric.jogmec.go.jp/news_flash/20170612/13006/ 中国:洛陽モリブデン集団、DRコンゴ銅・コバルト鉱山買収] ]。人権団体の[[アムネスティ]]は児童労働などでコンゴから得て硫酸コバルトや酸化コバルトなどコバルトの精製品の8割近くを生産している中国企業が[[アップル]]、[[マイクロソフト]]、[[サムソン]]、[[ソニー]]、[[ダイムラー]]、[[フォルクスワーゲン]]など[[多国籍企業]]に供給していると批判して問題となった
[{{cite web |url=https://jp.wsj.com/articles/SB10975626634061694908804584041830827471814|title=世界のバッテリー支配狙う中国、コバルト供給牛耳る|publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]|date=2018-02-13|accessdate=2018-06-26}}][{{cite web |url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52711|title=中国がコバルト市場を牛耳ったらどうなるか|publisher=[[日本ビジネスプレス]]|date=2018-03-30|accessdate=2018-06-26}}][{{cite web |url=http://www.amnesty.or.jp/news/2017/1129_7172.html|title=コンゴ民主共和国:巨大企業 コバルト採掘での児童労働問題を放置|publisher=[[アムネスティ]]|date=2017-11-29|accessdate=2018-06-26}}][{{cite web |url=http://www.amnesty.or.jp/news/2016/0125_5817.html|title=コンゴ民主共和国:スマートフォンの裏に児童労働|publisher=[[アムネスティ]]|date=2016-01-25|accessdate=2018-06-26}}]。コンゴ民主共和国にとって重要な資源輸出経路である[[ベンゲラ鉄道]]は中国の支援で開通している
[{{cite web |url=http://j.people.com.cn/n/2015/0216/c94689-8851683.html|title=中国援助のアンゴラ・ベンゲラ鉄道が開通|publisher=[[人民網]]|date=2015-02-16|accessdate=2018-08-25}}]。\n\n== 地理 ==\n[[ファイル:Congo Kinshasa Topography.png|thumb|コンゴ民主共和国の地形図]]\n{{Main|コンゴ民主共和国の地理}}\n\nコンゴ民主共和国の面積は[[西ヨーロッパ]]に匹敵する。3分の1が[[赤道]]の北側に、3分の2が南側に位置する。非常に雨が多く、雷も地球上で最も多い。年間降雨量は場所により2,000ミリを超え、[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]に次ぐ広さの[[熱帯雨林]]を抱える。西の大西洋へゆっくり下る[[コンゴ川]]の流域は広大な[[コンゴ盆地]]の大部分を占める。南は[[サバナ (地理)|サバンナ]]に続く高地に、西は山がちの台地に、北は草地に囲まれ、最も東には[[氷河]]で覆われる高山がある。\n\nコンゴの名前はコンゴ川と植民地以前に存在した[[コンゴ王国]]に由来する。流域はコンゴの経済・輸送の背骨であり、住民の日常生活に大きく影響している。アフリカ[[大地溝帯]]にあるボヨマ滝の下流の[[キサンガニ]]から西へ流れ始め、ゆっくり南西に向きを変え、[[ムバンダカ]]を過ぎて[[ウバンギ川]]と合流し、[[プールマレボ]](スタンレープール)に注ぐ。キンシャサと[[ブラザヴィル]]はこのプールの対岸同士である。ここから川幅が狭くなり、峡谷にはいくつもの急流と瀑布があり、集合的に[[:en:Livingstone Falls|リビングストン滝]]と呼ばれる。[[アマゾン川]]に次ぐ流量と流域面積を誇るが、コンゴが大西洋に面する部分はコンゴ川の北側40kmに過ぎない。\n\n大地溝帯は火山活動を起こし、[[アルバート湖]]、[[エドワード湖]]、[[タンガニーカ湖]]などの大湖を形成した。最も重要なのは南部と東部にある膨大な鉱物資源を地表へ露出させ採掘可能にしたことである。コバルト、銅、カドミウム、ダイアモンド、金、銀、亜鉛、マンガン、錫、ゲルマニウム、ウラン、ラジウム、ボーキサイト、鉄鉱、石炭がすべて豊富にあり、とくに南東部カタンガ地域が有名である。2002年1月17日に噴火した[[ニーラゴンゴ山|ニーラゴンゴ火山]]の溶岩は幅50m、時速60kmの早さで流れ、ゴマ市付近を襲い45人を死亡させ12万人の家を奪った。40万人が避難し、キブ湖の魚が全滅した。半年後には近くのニャムラギラ火山も噴火し、2006年に再噴火している。\n\n== 行政区分 ==\n{{Main|コンゴ民主共和国の行政区画}}\n[[file:Provinces de la République démocratique du Congo - 2005.svg|thumb|300px|移行後の州及びキンシャサ]]\n[[2015年]]からキンシャサ市および以下の25の州によって構成されている。\n\n{| class=\"wikitable sortable\"\n! !!州!![[フランス語]]!!州都!!人口
[[2005年]]!!面積
(km
2)!!人口密度
(人/km
2)!!旧州\n|-\n| 1. || [[キンシャサ]]||Kinshasa||[[キンシャサ]]||align=right|10,125,000|| align=\"right\"|9,965 ||align=right|1016||[[キンシャサ]]\n|-\n| 2. || [[コンゴ中央州]]||Bas-Congo||[[マタディ]]||align=right|4,522,942|| align=\"right\"|53,920 ||align=right|84||[[コンゴ中央州]]\n|-\n| 3. ||[[クワンゴ州]]||Kwango|| {{仮リンク|ケンゲ|en|Kenge, Bandundu}}||align=right|1,994,036|| align=\"right\"|89,974 ||align=right|22||[[バンドゥンドゥ州]]\n|-\n| 4. ||[[クウィル州]]||Kwilu|| [[キクウィト]]||align=right|5,174,718 || align=\"right\"|78,219 ||align=right|66||[[バンドゥンドゥ州]]\n|-\n| 5. ||[[マイ=ンドンベ州]]|| Mai-Ndombe || {{仮リンク|イノンゴ|en|Inongo}}||align=right|1,768,327 || align=\"right\"|127,465 ||align=right|14||[[バンドゥンドゥ州]]\n|-\n| 6. ||[[カサイ州]]|| Kasaï || [[ルエボ]]||align=right|3,199,891 || align=\"right\"|95,631 ||align=right|33||[[西カサイ州]]\n|-\n| 7. ||[[ルルア州]]||Lulua|| [[カナンガ]]||align=right|2,976,806 || align=\"right\"|59,111||align=right|50||[[西カサイ州]]\n|-\n| 8. ||[[東カサイ州]]|| Kasaï-Oriental || [[ムブジマイ]]||align=right|5,475,398|| align=\"right\"|9,545||align=right|574||[[東カサイ州]]\n|-\n| 9. ||[[ロマミ州]]||Lomami||[[カビンダ (コンゴ民主共和国)|カビンダ]]||align=right|2,048,839 || align=\"right\"|56,426 ||align=right|36||[[東カサイ州]]\n|-\n| 10. ||[[サンクル州]]||Sankuru|| {{仮リンク|ロジャ|en|Lodja}}||align=right|1,374,239 || align=\"right\"|104,331 ||align=right|13||[[東カサイ州]]\n|-\n| 11. ||[[マニエマ州]]||Maniema|| [[キンドゥ]]||align=right| 2,049,300 || align=\"right\"|132,520 ||align=right|15||[[マニエマ州]]\n|-\n| 12. ||[[南キヴ州]]|| Sud-Kivu|| [[ブカブ]]||align=right| 5,772,000 || align=\"right\"|65,070 ||align=right|89||[[南キヴ州]]\n|-\n| 13. ||[[北キヴ州]]|| Nord-Kivu|| [[ゴマ (コンゴ民主共和国)|ゴマ]]||align=right| 5,767,945|| align=\"right\"|59,483 ||align=right|97||[[北キヴ州]]\n|-\n| 14. ||[[イトゥリ州]]||Ituri||[[ブニア]]||align=right|4,241,236 || align=\"right\"|65,658 ||align=right|64||[[東部州 (コンゴ)|東部州]]\n|-\n| 15. ||[[高ウエレ州]]|| Haut-Uele ||[[イシロ]]||align=right|1,920,867 || align=\"right\"|89,683 ||align=right|21||[[東部州 (コンゴ)|東部州]]\n|-\n| 16. ||[[ツォポ州]]||Tshopo|| [[キサンガニ]] ||align=right|2,614,630 || align=\"right\"|199,567 ||align=right|13||[[東部州 (コンゴ)|東部州]]\n|-\n| 17. ||[[低ウエレ州]]|| Bas-Uele || [[ブタ (コンゴ民主共和国)|ブタ]] ||align=right|1,093,845 || align=\"right\"|148,331 ||align=right|7||[[東部州 (コンゴ)|東部州]]\n|-\n| 18. ||[[北ウバンギ州]]|| Nord-Ubangi || [[バドリテ]] ||align=right|1,482,076 || align=\"right\"|56,644 ||align=right|26||[[赤道州 (コンゴ)|赤道州]]\n|-\n| 19. ||[[モンガラ州]]|| Mongala || {{仮リンク|リサラ|en|Lisala}}||align=right|1,793,564 || align=\"right\"|58,141 ||align=right|30||[[赤道州 (コンゴ)|赤道州]]\n|-\n| 20. ||[[南ウバンギ州]]||Sud-Ubangi||[[ゲメナ]]||align=right|2,744,345 || align=\"right\"|51,648 ||align=right|53||[[赤道州 (コンゴ)|赤道州]]\n|-\n| 21. ||[[赤道州 (コンゴ)|赤道州]]||Équateur|| [[ムバンダカ]]||align=right|1,626,606 || align=\"right\"|103,902 ||align=right|15||[[赤道州 (コンゴ)|赤道州]]\n|-\n| 22. ||[[ツアパ州]]|| Tshuapa|| {{仮リンク|ボエンデ|en|Boende}}||align=right|1,316,855 || align=\"right\"|132,940||align=right|10||[[赤道州 (コンゴ)|赤道州]]\n|-\n| 23. ||[[タンガニーカ州 (コンゴ)|タンガニーカ州]]||Tanganyika|| [[カレミ]] ||align=right|2,482,009 || align=\"right\"|134,940 ||align=right|18||[[カタンガ州]]\n|-\n| 24. ||[[上ロマミ州]]||Haut-Lomami||[[カミナ]]||align=right|2,540,127 || align=\"right\"|108,204 ||align=right|23||[[カタンガ州]]\n|-\n| 25. ||[[ルアラバ州]]|| Lualaba || [[コルヴェジ]] ||align=right|1,677,288 || align=\"right\"|121,308 ||align=right|14||[[カタンガ州]]\n|-\n| 26. ||[[上カタンガ州]]|| Haut-Katanga || [[ルブンバシ]] ||align=right|3,960,945 || align=\"right\"|132,425 ||align=right|30||[[カタンガ州]]\n|}\n\n=== 主要都市 ===\n{{Main|コンゴ民主共和国の都市の一覧}}\n[[ファイル:Cg-map.png|frame|right|300px|コンゴ民主共和国の地図]]\n{| class=\"wikitable sortable\"\n|-\n!順位!!都市!![[フランス語]]!!人口!!州\n|-\n|align=right|1.||[[キンシャサ]]||Kinshasa||align=right|7,785,965||[[キンシャサ]]\n|-\n|align=right|2.||[[ルブンバシ]]||Lubumbashi||align=right|1,373,770||[[上カタンガ州]]\n|-\n|align=right|3.||[[ムブジマイ]]||Mbuji-Mayi||align=right|874,761||[[東カサイ州]]\n|-\n|align=right|4.||[[キサンガニ]]||Kisangani||align=right|539,158||[[ツォポ州]]\n|-\n|align=right|5.||[[カナンガ]]||Kananga||align=right|463,546||[[ルルア州]]\n|-\n|align=right|6.||[[リカシ]]||Likasi||align=right|422,414||[[上カタンガ州]]\n|-\n|align=right|7.||[[コルヴェジ]]||Kolwezi||align=right|418,000||[[ルアラバ州]]\n|-\n|align=right|8.||[[ツィカパ]]||Tshikapa||align=right|267,462||[[カサイ州]]\n|-\n|align=right|9.||[[ブカヴ]]||Bukavu||align=right|225,389||[[南キヴ州]]\n|-\n|align=right|10.||[[ムワンヌ・ディトゥ]]||Mwene-Ditu||align=right|189,177||[[ロマミ州]]\n|-\n|align=right|11.||[[キクウィト]]||Kikwit||align=right|186,991||[[クウィル州]]\n|-\n|align=right|12.||[[ムバンダカ]]||Mubandaka||align=right|184,185||[[赤道州 (コンゴ)|赤道州]]\n|-\n|align=right|13.||[[マタディ]]||Matadi||align=right|180,109||[[コンゴ中央州]]\n|-\n|align=right|14.||{{仮リンク|ウビラ|en|Uvira}}||Uvira||align=right|170,391||[[南キヴ州]]\n|-\n|align=right|15.||[[ブテンボ]]||Butembo||align=right|154,621||[[北キヴ州]]\n|-\n|align=right|16.||{{仮リンク|ガンダジカ|en|Gandajika}}||Gandajika||align=right|154,425||[[ロマミ州]]\n|-\n|align=right|17.||[[カレミ]]||Kalemie||align=right|146,974||[[タンガニーカ州 (コンゴ)|タンガニーカ州]]\n|-\n|align=right|18.||[[ゴマ (コンゴ民主共和国)|ゴマ]]||Goma||align=right|144,124||[[北キヴ州]]\n|-\n|align=right|19.||[[キンドゥ]]||Kindu||align=right|135,698||[[マニエマ州]]\n|-\n|align=right|20.||[[イシロ]]||Isiro||align=right|127,076||[[高ウエレ州]]\n|-\n|align=right|21.||[[バンドゥンドゥ]]||Bandundu||align=right|118,211||[[マイ=ンドンベ州]]\n|-\n|align=right|22.||[[ゲメナ]]||Gemena||align=right|117,639||[[南ウバンギ州]]\n|-\n|align=right|23.||[[イレボ]]||Ilebo||align=right|107,093||[[カサイ州]]\n|}\n\n== 経済 ==\n{{also|コンゴ民主共和国におけるコーヒー生産}}\n[[ファイル:Kinshasa-30-juin01.jpg|right|thumb|220px|首都[[キンシャサ]]]]\nコンゴ民主共和国は地下資源に恵まれるものの、1990年代の内戦などで[[インフラ]]は破壊され経済は壊滅状態となっており、世界[[後発開発途上国|最貧国]]の1つとなっている。\n\n=== 鉱業 ===\n{{main|{{仮リンク|紛争鉱物|en|Conflict minerals}}|紛争ダイヤモンド|[[:en:Dikuluwe Mine|Dikuluwe Mine]]|[[:en:Sinohydro|Sinohydro]]|[[:en:China Railway Engineering Corporation|China Railway Engineering Corporation]]}}\n[[銅]]、[[コバルト]]、[[ダイヤモンド]]、[[カドミウム]]、[[金|黄金]]、[[銀]]、[[亜鉛]]、[[マンガン]](世界1位)、[[錫]]、[[ゲルマニウム]]、[[ウラン]]、[[ラジウム]]、[[ボーキサイト]]、[[鉄鉱石]]、[[石炭]]、[[金鉱]](世界5位)、[[プラチナ]](世界1位)などを産する世界トップクラスの鉱産資源国であり、輸出の約9割を鉱産資源が占める。コバルトの埋蔵量は世界の約65%。かつては[[ウラン]]の採掘も行われており、ベルギー資本の[[ユニオン・ミニエール]]社が一手に事業を仕切っていた。[[1945年]]に[[広島市への原子爆弾投下|広島市]]に投下された[[リトルボーイ|原子爆弾]]の原料は[[ベルギー領コンゴ]]国産であった。\n\n一方、[[錫石]]([[スズ]]の鉱石)・{{仮リンク|鉄マンガン重石|en|Wolframite|redirect=1}}([[タングステン]]の鉱石
[ウォルフラマイトは、鉄マンガン重石もしくはタングステン鉱とも呼ばれる。])・[[コルタン]]([[タンタル]]の鉱石)・[[金]]は、[[北キヴ州]]で展開する紛争({{仮リンク|キヴ紛争|en|Kivu conflict}}及び[[:en:M23 rebellion|M23 rebellion]])の反政府武装組織([[人民防衛国民会議]]、[[3月23日運動]])の資金源とされている{{仮リンク|紛争鉱物|en|Conflict minerals}}であり、国内が不安定化する要因の一つとなっている。\n\nまた、ギニア湾沖に[[海底油田]]を擁しており、[[原油]]の輸出も盛んでコンゴ民主共和国の経済を支える重要な財源となっている。\n\n== 交通 ==\n[[Image:Congo Transport Map.PNG|thumb|300px|コンゴ民主共和国交通図。青が水運可能な河川、黒が鉄道(以上2006年)、赤は舗装道路、黄は未舗装路(2000年)]]\n{{main|コンゴ民主共和国の交通}}\n[[ファイル:First train in Kindu, DRC.jpg|thumb|left|200px|再建された鉄道によりジョゼフ・カビラの肖像画を掲げて[[ルブンバシ]]から[[キンドゥ]]に到着した列車。]]\nコンゴ民主共和国の陸上交通は慢性的に困難な状態である。[[コンゴ盆地]]の地勢と気候は道路や鉄道を建設するのに深刻な障壁となり、この広大な国家を横断するための距離は莫大である。さらに、慢性的な経済的失敗と国内紛争によって長年に渡り、投資が深刻に低い水準に留まっている。\n\n一方で、数千キロの航行可能な水路が存在し、伝統的に[[水上交通]]は国の移動の約2/3を占めてきた。\n\nコンゴ民主共和国によって保障された全ての航空会社は安全基準が不十分なため、[[欧州委員会]]により[[ヨーロッパ連合]]内の[[EU域内乗り入れ禁止航空会社の一覧|飛行・発着を禁止されている]]
[[http://ec.europa.eu/transport/air-ban/pdf/list_en.pdf List of airlines banned within the EU (24 July 2008)] - Official EC list]。\n{{Clearleft}}\n\n== 国民 ==\n=== 民族 ===\n{{main|[[:en:Demographics of the Democratic Republic of the Congo|Demographics of the Democratic Republic of the Congo]]|[[:fr:Démographie de la république démocratique du Congo]]}}\n[[国際連合]]は2007年にコンゴ民主共和国の人口を6,260万人と推計した。1997年には4,670万人であったが、長引く戦争にもかかわらず急激な増加を示している。250以上の民族集団が認識され、名づけられている。[[バントゥー系民族|バントゥー系]]、{{仮リンク|中央スーダン語派|en|Central Sudanic languages|label=スーダン系}}、[[ナイロート|ナイル系]]などの[[ネグロイド|黒人]]が大半を占め、[[ピグミー]]が原住民として60万人いる。最も人口が多いのは[[コンゴ人]]、[[ルバ人]]、[[モンゴ人]]などである。\n\n=== 言語 ===\n[[ファイル:Map - DR Congo, major languages.svg|thumb|220px|コンゴの言語地図]]\n{{main|{{仮リンク|コンゴ民主共和国の言語|fr|Langues en république démocratique du Congo}}}}\nコンゴ民主共和国内には約242の言語が存在するが、[[公用語]]は[[フランス語]]である。[[アフリカの言語]]からは[[スワヒリ語]](キスワヒリ)、[[コンゴ語]](キコンゴ)、[[リンガラ語]]、[[ルバ語]]の4つが[[国民語]]として認められており、西部ではリンガラ語の影響力が、東部ではスワヒリ語の影響力がそれぞれ増す傾向にある。700もの地方語や方言が話されているが、この言語的不一致は、[[フランス語]]と、[[スワヒリ語]]、[[コンゴ語]]、[[リンガラ語]]、[[ルバ語]]といった仲介言語の広範な普及によって乗り越えられている。\n\n=== 宗教 ===\n{{bar box\n|title=コンゴ民主共和国の宗教
[[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/tx.html CIA the World Factbook]]\n|titlebar=#ddd\n|left1=宗派\n|right1=パーセンテージ\n|float=right\n|bars=\n{{bar percent|[[カトリック教会|カトリック]]|Red|50}}\n{{bar percent|[[プロテスタント]]|Blue|20}}\n{{bar percent|{{仮リンク|キンバングーイズム|en|Kimbanguism|label=キンバングー教会}}|Orange|10}}\n{{bar percent|[[イスラム]]|Green|10}}\n{{bar percent|[[アフリカ伝統宗教]]|Yellow|10}}\n}}\n{{main|コンゴ民主共和国の宗教|[[:en:Religion in the Democratic Republic of the Congo|Religion in the Democratic Republic of the Congo]]}}\n\nコンゴ民主共和国の主要宗教は[[キリスト教]]であり、人口の約80%によって信仰されている。宗派ごとに見ると、[[カトリック教会|カトリック]]が50%、[[プロテスタント]]が20%、{{仮リンク|キンバングーイズム|en|Kimbanguism|label=キンバングー教会}}(キンバングー運動)が10%となる
[[http://adherents.com/adhloc/Wh_365.html \"Zaire (Democratic Republic of Congo)\", Adherents.com - Religion by Location.] Sources quoted are ''CIA Factbook'' (1998), 'official government web site' of ''Democratic Republic of Congo''. Retrieved 25 may 2007. ]。キンバングー教会は植民地時代に{{仮リンク|シモン・キンバングー|en|Simon Kimbangu}}によって創設され、植民地支配体制を批判する勢力となったためにベルギー当局によって弾圧された。キンバングー教会には約300万人の信徒が存在し
[、バス=コンゴとキンシャサのコンゴ人が主な担い手となっている。コンゴ民主共和国においてウィリアム・ブランハムは最も多くのキリスト教徒を集め、およそ2,000,000人の信徒が存在すると見積もられている{{要出典|date=2009年4月}} 。コンゴキリスト教会の傘下に62のプロテスタントの諸宗派が連合している。人口の20%以上を占めるプロテスタントをカバーしているため、単に「プロテスタント教会」と言及されることもある。\n\n残りの20%の人口のうち、半数は[[ムスリム]]であり][[http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2005/51462.htm \"International Religious Freedom Report 2005\"], [[アメリカ合衆国国務省|United States Department of State]]] 、残りは[[伝統宗教]]か、習合した宗派を信仰している。イスラームは[[アラブ人]]の奴隷商人によって象牙交易などを通して普及された[The Archaeology of Islam in Sub-Saharan Africa By Timothy Insoll]。伝統宗教は[[一神教]]、[[アニミズム]]、[[生気論]]、[[霊魂崇拝]]、[[祖先崇拝]]、[[ウィッチクラフト]]、呪術などの概念によって具現化され、幅広い民族集団の間で異なっている。往々にして習合した宗派はキリスト教と伝統的な信仰や儀式を統合し、主流教会によってキリスト教の一部だとみなされることはない。\n\n=== 教育 ===\n{{main|コンゴ民主共和国の教育|[[:fr:Système éducatif en république démocratique du Congo]]}}\n[[ファイル:DRC classroom.jpg|thumb|left|260px|コンゴ民主共和国の教室]]\nコンゴ民主共和国の教育システムは''Ministère de l’Enseignement Primaire, Secondaire et Professionnel (MEPSP'')、''Ministère de l’Enseignement Supérieur et Universitaire (MESU)'' 、''Ministère des Affaires Sociales (MAS)''の3つの省庁によって担われている。教育システムは[[ベルギー]]のものと似ている。2002年には、160,000人の生徒が通う19,000校以上の[[初等教育|初等学校]]と、110,000人の生徒が通う[[高等学校]]([[中等教育]]を行う)が存在した。\n\nしかしながら、コンゴ民主共和国の初等教育は必修ではなく、無料でも一般的なものでもなく、多くの児童は両親が入学金を支払うことができないために学校に通うことができない[。両親は慣習的に教員の給料を支払うことを期待されているのである][。1998年には、近年のデータが利用可能になり、初等教育の就学率の合計は50%だった][。就学率の合計は初等学校に正式に登録された生徒の数に基づいており、それゆえに実際の登校率に反映する必要はない][。2000年には、10歳から14歳までの児童の65%が学校に出席していた][。6年間の内戦のため、520万人以上の児童が教育を受けていない][\"Congo, Democratic Republic of the\". [http://usinfo.state.gov/infousa/economy/ethics/docs/tda2005.pdf ''2005 Findings on the Worst Forms of Child Labor'']. Bureau of International Labor Affairs, [[アメリカ合衆国労働省|U.S. Department of Labor]] (2006). ''This article incorporates text from this source, which is in the [[public domain]].]。\n\n2001年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は67.2%(男性:80.9% 女性:54.1%)である[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cg.html 2009年7月30日閲覧]。\n{{Clearleft}}\n=== 女性の地位 ===\n{{main|コンゴ民主共和国の女性}}\n[[ファイル:Fufuprep.jpg|thumb|left|180px|[[フフ]]を作る若い女性]]\n2006年、国連女子差別撤廃委員会は、コンゴ民主共和国の戦後の過渡期において、女性の人権の尊重・両性の平等の促進が重視されていないことについて懸念を表明した[{{cite web\n|url=http://www.un.org/womenwatch/daw/cedaw/cedaw36/cc/DRC/0647846E.pdf\n|title=Concluding comments of the Committee on the Elimination of Discrimination against Women: Democratic Republic of the Congo\n|format=PDF\n|date=2006-8-25\n|accessdate=2010-1-25}}]。\n\n2007年、『[[ワシントン・ポスト]]』は、コンゴ東部での強姦や性的暴力の深刻さ・頻度について、世界のほかのどの地域よりも悪いと伝えた[[http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/08/AR2007090801194.html Prevalence of Rape in E.Congo Described as Worst in World]]。アフリカ人権防衛協会の2006年の報告書は、コンゴ民主共和国の女性が法律的・日常的に直面する諸問題を概観している[{{cite web\n|url=http://www.peacewomen.org/un/ecosoc/CEDAW/36th_session/DRC/NGO_report.pdf\n|archiveurl=http://web.archive.org/web/20070925192704/http://www.peacewomen.org/un/ecosoc/CEDAW/36th_session/DRC/NGO_report.pdf\n|archivedate=2007年9月25日\n|title=Violence Against Women in the Democratic Republic of Congo (DRC)\n|format=PDF\n|publisher=African Association for the Defence of Human Rights Réseau Action Femmes, 世界拷問防止機構\n|accessdate=2010-1-25}}]。戦争の中で女性たちは犯され続け、兵士たちの奴隷とされた。解放されたときには、自殺したり、あるいはそのまま入院して亡くなってしまう例も多かったという。\n\n戦争は女性の生活を危ういものにした。そこでは、女性に対する暴力が「武器」として常用された。例えば、男性に銃を突き付けその人自身の娘や母や姉妹を強姦するように強要する事例が多数あったと報告されている[{{cite web\n|url=http://www.unhchr.ch/huricane/huricane.nsf/0/B5D0053875B01B8CC1257328003A8FEE?opendocument\n|title=UN expert on violence against women expresses serious concerns following visit to Democratic Republic of Congo\n|accessdate=2010-1-25}}]。2007年7月には、国際赤十字委員会がコンゴ民主共和国東部の状態に懸念を表明した[{{cite web\n|url=http://www.irinnews.org/Report.aspx?ReportId=73033\n|title=DRC: 'Civilians bearing brunt of South Kivu violence'\n|quote=The International Committee of the Red Cross (ICRC) has expressed concern over abuses against civilians, especially women and children, in South Kivu in eastern Democratic Republic of Congo. It frequently receives reports of abductions, executions, rapes, and pillage.\n|date=2 July 2007\n|publisher=''[[IRIN]]''\n|accessdate=2010-1-25}}]。昼間は比較的平穏な生活を送りつつ、夜になると安全な場所への避難を余儀なくされる「振り子避難民」女性の存在も指摘された。暴力に関する国連特別報告者として2007年7月にコンゴ東部を視察したヤキン・エルトゥルク (Yakin Ertürk) によれば、南北キヴ州の女性に対する暴力は「想像を絶するほどの残虐性」を含んでおり、「武装集団が地域共同体を襲撃し、略奪し、強姦し、女性と子供を誘拐して性的奴隷としている」という[{{cite web\n|url=http://www.irinnews.org/Report.aspx?ReportId=73524\n|title=DRC: 'Pendulum displacement' in the Kivus\n|publisher=''[[IRIN]]''\n|accessdate=2010-1-25}}]。\n{{Clearleft}}\n\n== 文化 ==\n[[ファイル:Hemba male figure1.jpg|thumb|180px|エンバの男性像]]\n{{main|コンゴ民主共和国の文化}}\n\nコンゴ民主共和国の文化は数百を越す民族集団の多様性と、国全体を通した生き方の差異が反映されている。例えば沿岸部のコンゴ川の河口、上流の[[熱帯雨林]]、中央部のサヴァナ、東部の人口が密集した山岳部などである。19世紀末から伝統的な生き方は、植民地主義、独立の混乱、[[モブツ・セセ・セコ|モブツ]]時代の停滞、そして近年の第一次コンゴ戦争や第二次コンゴ戦争などによって変容した。このような圧力にもかかわらず、コンゴの習慣や文化は[[クバ王国]]の伝統([[クバの布]]など)に見られるようにその独自性を強く保っている。6,000万の住民は多くは農村部に居住している。都市部に居住する30%の人口は西側世界の文化の影響に強く開かれている。\n\n=== 音楽 ===\n[[ポピュラー音楽]]においては、植民地時代の1930年代、1940年代に[[キューバ]]から[[ルンバ]]などの[[ラテン音楽]]がもたらされ、ベルギー領コンゴでも盛んにラテン音楽の演奏が行われた。また、1950年代には[[アメリカ合衆国]]の[[ジャズ]]も[[アフリカン・ジャズ]]として盛んに受容された。1956年には、「コンゴ音楽の王」とも呼ばれた、フランコこと[[フランソワ・ルアンボ・マキアディ]]がOKジャズ(後にTPOKジャズに改称)を結成。また、[[グラン・カレ]](偉大なるカレ)の名前で知られるジョゼフ・カバセレはアフリカン・ジャズを結成した。このような管楽器などを加えた大所帯バンドが流行り出し、[[ルンバ・コンゴリーズ]]が形成されるようになった。[ポップアフリカ700 萩原和也著][[マーロ・マシ]]も同年代のミュージシャンである。\n\nコンゴのポピュラー音楽はそのようなアメリカ大陸のリズムだけではなく、教会音楽や[[ガーナ]]の[[ハイライフ]]、さらにはコンゴの伝統音楽をも取り入れて発達していった。1969年に[[パパ・ウェンバ]]が中心となって[[ザイコ・ランガ・ランガ]]が結成された後のポピュラー音楽は、[[キューバ音楽]]の模倣を越えてザイール音楽を形成し、その流れのままザイールのポピュラー音楽の主要ジャンルとして諸外国に名を轟かせた、ルンバ・ロックや[[スークース|リンガラ・ポップス]]と呼ばれるジャンルが生まれた。リンガラ・ポップスのミュージシャンとしてはザイコ・ランガ・ランガの他に[[トゥ・ザイナ]]や[[タブー・レイ]]、[[オルケストル・ヴェヴェ]]、[[カンダ・ボンゴマン]]、[[サム・マングワナ]]などの名が挙げられる。\n\nその他にも北東部の[[イトゥリ]]の森の[[ピグミー人]]には独自の音楽文化が存在する。\n\n=== 世界遺産 ===\n{{Main|コンゴ民主共和国の世界遺産}}\nコンゴ民主共和国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が5件存在する。\n\n\nファイル:Nyiragongo2004.jpg|[[ヴィルンガ国立公園]] - (1979年、自然遺産)\nファイル:White rhinoceros Hluhluwe-Umfolozi.jpg|[[ガランバ国立公園]] - (1980年、自然遺産)\nファイル:KahuziBiegaSign.jpg|[[カフジ=ビエガ国立公園]] - (1980年、自然遺産)\nファイル:Bonobo.jpg|[[サロンガ国立公園]] - (1984年、自然遺産)\nファイル:Epulu Okapi Reserve.jpg|[[オカピ野生生物保護区]] - (1996年、自然遺産)\n
\n\n=== 祝祭日 ===\n{| class=\"wikitable\" style=\"margin:auto;\"\n|+祝祭日\n!日付 !!日本語表記 !!現地語表記 !!備考\n|-\n|[[1月4日]] ||独立の殉教者の日||''journée des Martyrs de l'indépendance'' ||\n|-\n|-\n|[[1月16日]] ||||''date anniversaire de l'assassinat du Président de la République Laurent-Désiré Kabila'' ||\n|-\n|[[1月17日]] ||||''date anniversaire de l'assassinat du premier Ministre Patrice Émery Lumumba père de l' indépendance nationale'' ||\n|-\n|[[5月1日]] ||[[メーデー]] ||''journée internationale du travail'' ||\n|-\n|[[5月17日]] ||||''date anniversaire de la libération du Peuple de la tyrannie'' ||\n|-\n|[[6月30日]] ||[[独立記念日]] ||''date anniversaire de l'indépendance'' ||\n|-\n|[[8月1日]] ||[[両親の日]] ||''fête des parents/anciens'' ||\n|-\n|}\n\n== 著名な出身者 ==\n* [[ジョン・ムウェテ・ムルアカ]]\n* [[ムエゼ・ンガングラ]] - 映画監督\n* [[カマ・シウォール・カマンダ]] - 作家\n* [[クロード・マケレレ]] - サッカー選手\n\n== 脚注 ==\n{{脚注ヘルプ}}\n{{Reflist|2}}\n\n== 参考文献 ==\n* {{Cite journal|和書|author=梶茂樹 |title=モンゴ人のジレンマ : ザイール国語化問題の一断章(アフリカ研究編) |date=1991 |publisher=大阪外国語大学 |journal=大阪外大スワヒリ&アフリカ研究 |volume=2 |naid=110006177613 |pages=180-185 |ref=harv}}\n* 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編 [[明石書店]] 2002/12\n\n== 関連項目 ==\n* [[コンゴ民主共和国関係記事の一覧]]\n\n* [[自衛隊ルワンダ難民救援派遣]](1994年に自衛隊がルワンダ難民救援のために当時のザイールに派遣された。)\n* [[シンコロブエ鉱山]]\n* [[ミサ・ルバ]]\n* [[オナトラ船]]\n* [[山極寿一]]\n* [[松沢哲郎]]\n* [[わたしは、幸福]] - コンゴ民主共和国を舞台とした2017年の映画\n\n== 外部リンク ==\n{{Commons&cat|Democratic Republic of the Congo|Democratic Republic of the Congo}}\n{{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[画像:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|Portal:アフリカ]]}}\n* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/congomin/ コンゴ民主共和国] {{ja icon}} - 日本外務省\n* {{Wikivoyage-inline|fr:République démocratique du Congo|コンゴ民主共和国{{fr icon}}}}\n* {{Wikiatlas|the Democratic Republic of the Congo}} {{en icon}}\n* {{ウィキトラベル インライン|コンゴ民主共和国|コンゴ民主共和国}}\n* {{osmrelation-inline|192795}}\n* {{CIA World Factbook link|cg|Democratic Republic of the Congo}} {{en icon}}\n{{アフリカ}}\n{{OIF}}\n{{Authority control}}\n\n{{Coord|4|19|S|15|19|E|type:city|display=title}}\n{{DEFAULTSORT:こんこみんしゆきようわこく}}\n[[Category:コンゴ民主共和国|*]]\n[[Category:共和国]]\n[[Category:フランコフォニー加盟国]]"}
+{"title": "モーリタニア", "text": "{{Otheruses||客船|モーリタニア (客船・初代)}}\n{{基礎情報 国\n | 略名 =モーリタニア\n | 日本語国名 =モーリタニア・イスラム共和国\n | 公式国名 ={{lang|ar|الجمهورية الإسلامية الموريتانية}}
\n | 国旗画像 = Flag of Mauritania.svg\n | 国章画像 =[[ファイル:Coat_of_arms_of_Mauritania.svg|120px|モーリタニアの国章]]\n | 国章リンク =([[モーリタニアの国章|国章]])\n | 標語 =''{{Lang|fr|Honneur, Fraternité, Justice }}''
(フランス語: 名誉、友愛、正義)\n | 位置画像 =Mauritania (orthographic projection).svg\n | 公用語 =[[アラビア語]]\n | 首都 =[[ヌアクショット]]\n | 最大都市 =ヌアクショット\n | 元首等肩書 =[[モーリタニアの大統領一覧|大統領]]\n | 元首等氏名 ={{ill2|モハメド・ウルド・ガズワニ|en|Mohamed Ould Ghazouani}}\n | 首相等肩書 =[[モーリタニアの首相|首相]]\n | 首相等氏名 =イスマイル・ウルド・ベッデ・ウルド・シェイク・シディヤ\n | 面積順位 =28\n | 面積大きさ =1 E12\n | 面積値 =1,030,700\n | 水面積率 =極僅か\n | 人口統計年 =2015\n | 人口順位 =\n | 人口大きさ =1 E6\n | 人口値 =4,067,564\n | 人口密度値 =3.95\n | GDP統計年元 =2014\n | GDP値元 =16,265億[IMF Data and Statistics 2018年12月13日閲覧([https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2018/02/weodata/weorept.aspx?sy=2013&ey=2018&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=682&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CNGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=41&pr.y=11])]\n | GDP統計年MER =2014\n | GDP順位MER =151\n | GDP値MER =54億{{R|economy}}\n | GDP統計年 =2014\n | GDP順位 =148\n | GDP値 =157億{{R|economy}}\n | GDP/人 =4,335{{R|economy}}\n | 建国形態 =[[独立]]
- 日付\n | 建国年月日 =[[フランス]]から
[[1960年]][[11月28日]]\n | 通貨 =[[ウギア]]\n | 通貨コード =MRO\n | 時間帯 =(0)\n | 夏時間 =なし\n |国歌 = [[モーリタニア国歌|{{lang|ar|نشيد_وطني_موريتاني}}]]{{ar icon}}
モーリタニア国歌
{{center|[[File:National_anthem_of_Mauritania_(instrumental).ogg]]}}\n\n | ISO 3166-1 = MR / MRT\n | ccTLD =[[.mr]]\n | 国際電話番号 =222\n | 注記 =\n}}\n'''モーリタニア・イスラム共和国'''(モーリタニア・イスラムきょうわこく、{{lang-ar|الجمهورية الإسلامية الموريتانية}})、通称'''モーリタニア'''は、[[アフリカ]]北西部に位置する[[共和制]][[国家]]。\n北西に[[モロッコ]]([[サハラ・アラブ民主共和国]])、北東に[[アルジェリア]]、東と南に[[マリ共和国|マリ]]、南西に[[セネガル]]と国境を接し、西は[[大西洋]]に面する。\n大西洋沖の西には[[カーボベルデ]]が存在する。\n首都は[[ヌアクショット]]である。\n[[2015年]]の人口は約406.8万人。\n\n[[アフリカ|アフリカ世界]]と[[アラブ世界]]の一員であり、[[アフリカ連合]]と[[アラブ連盟]]に加盟している。[[アラブ・マグリブ連合]]にも加盟しており、広義の[[マグリブ]]諸国に含まれる。\n\n== 国名 ==\n正式名称はアラビア語で、{{読み|subst=2015-04|3=補助表示|{{Lang|ar|الجمهورية الإسلامية الموريتانية}}|アル・ジュムフーリーヤ・アル・イスラーミーヤ・アル・ムーリーターニーヤ}}[ラテン文字翻字:{{lang|ar-Latn|Al-Jumhuriya al-Islamiya al-Muritaniya}}]。\n\n公式の英語表記は、{{読み|subst=2015-04|3=補助表示|{{lang|en|Islamic Republic of Mauritania}}|イスラミク・リパブリク・オヴ・モーラテイニア}}。通称、{{読み|subst=2015-04|3=補助表示|{{lang|en|Mauritania}}|モーラテイニア}}。\n\n日本語の表記は、'''モーリタニア・イスラーム共和国'''。通称、'''モーリタニア'''。\n\n国名はアフリカの[[地中海]]岸に位置した[[ベルベル人]]の古代国家[[マウレタニア|マウレータニア]](現在のアルジェリアと[[モロッコ]])からとられている。\n\n== 歴史 ==\n{{Main|{{仮リンク|モーリタニアの歴史|en|History of Mauritania}}|セレール族|[[:en:Serer ancient history]]|[[:en:Serer history (medieval era to present)]]}}\n\n[[画像:Kingdam of Ghana & Trans-Saharan Trade about 11th century.JPG|サムネイル|左|240px|[[ガーナ王国]]の領域と当時の交易路([[11世紀]])]]\n[[8世紀]](4世紀との説もある)ころから、国土の南東部に残された{{仮リンク|クンビ=サレー|en|Koumbi Saleh}}を首都として、[[ガーナ王国]]が繁栄した。ガーナ王国は、セネガル川上流のバンブク周辺から産出される[[金]]と[[サハラ砂漠]]の[[岩塩]]から採取される[[塩]]、北方からの[[銅]]製品や衣服、装身具などの各種[[手工業]]製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄した。このような[[サハラ交易|サハラ越えの隊商交易]]の利を押さえようとした[[ムラービト朝]]に[[1077年]]に滅ぼされるまでその繁栄は続いた。\n\n[[世界遺産]]にもなっている[[シンゲッティ]](シンキート)、[[ウアダン]]、[[ティシット]]、[[ウアラタ]]の[[キャラバン|隊商]]都市は、ガーナ王国と並行して発展し、ガーナが滅亡した11〜12世紀にも繁栄を続けた。シンゲッティは、モーリタニア北西部に位置し、古くからシンゲッティ王国の首都であったが、12世紀ごろになるとメッカの巡礼地の出発点となり、[[ウラマー|イスラム学者]]、[[学生]]、[[修道士]]などが集まる文化都市となった。シンゲッティ北東約100[[キロメートル|km]]に位置するワーダーンは、[[マリ帝国]]で産出する[[金]]や北西約200kmに位置する[[イジル]]の岩塩から採取される塩の取り引きのための中継地にあたるため、その交易の利で[[12世紀]]ころから数百年にわたって繁栄した。内陸部のティシートも[[ムラービト朝]]や[[ムワッヒド朝]]の外周都市としてやはりイジルの岩塩によって繁栄した。[[16世紀]]に[[オウド=ベラ族]]に要塞都市に造り替えられた。その後、交易路が変わったために衰退した。\n\n=== フランス植民地時代 ===\n19世紀末には南のセネガルを植民地化した[[フランス]]の進出が始まり、[[1904年]]には全域が植民地化され、[[フランス領西アフリカ]]の一部となった。ただしモーリタニアには都市らしい都市が存在しなかったため、首都はセネガル植民地北部の[[サン・ルイ]]に置かれていた[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p589、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。\n\n[[1946年]]には本国議会への参政権が与えられると同時に植民地議会が開設され[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p589、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]、[[1958年]]に[[フランス共同体]]が発足すると、共同体内の自治国となった。またこの年、中部の海岸にサン・ルイに代わる将来の首都になるべき都市としてヌアクショットが建設された。「[[アフリカの年]]」こと[[1960年]][[11月28日]]に、アフリカ諸国の独立が進む中で独立を達成した。\n\n=== 独立後 ===\n初代大統領には[[モーリタニア再編党]]の[[モクタル・ウルド・ダッダ|モフタール・ウルド・ダッダ]]が就任した。1960年の独立の翌[[1961年]]に[[憲法]]が制定された。[[フランス第五共和政]]と同様に、[[大統領]]の権限が強いものであった。またこの時、再編党が残存他政党を吸収して[[モーリタニア人民党]]へと改組され、一党制が確立した[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p591、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。[[1965年]]の[[憲法改正]]では[[一党独裁]]、[[社会主義]]政権の方針が規定された。ダッダ政権は当初は親フランスであったが徐々にアラブ圏へと軸足を移していき、[[1973年]]には[[CFAフラン]]圏を脱退して独自通貨[[ウギア]]を導入する[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p586、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]とともに、[[アラブ連盟]]へと加盟した[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p589、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。\n\nダッダ政権は[[大モーリタニア]]を掲げ、[[モロッコ]]と共に[[西サハラ]]の領有権を主張し、[[1975年]]に南部を占領して[[ポリサリオ戦線]]と対立した。しかし、ポリサリオ戦線との戦いによる負担は重く、国境沿いに位置するズエラット鉄鉱山やモーリタニア鉄道といった産業施設を攻撃されて経済は混乱し、さらに突破を許して首都ヌアクショットまで攻撃を受けるなど劣勢となったため、和平を望んだ軍参謀長の[[ムスタファ・ウルド・サレク]]が[[クーデター]]を起こして[[1978年]]7月にダッダは失脚した。しかしサレクはモロッコとの連携を重視して戦線との戦闘を続けたため混乱は続き、翌[[1979年]]4月に[[モハメド・クーナ・ウルド・ハイダラ]]がサレクを追い落として実権を握り、同年ポリサリオ戦線との和平協定が結ばれた。\n\n=== タヤ政権 ===\n和平は成立したものの、ハイダラ政権も安定せず、[[1984年]]には[[クーデター]]で[[マーウイヤ・ウルド・シディ・アハメド・タヤ]]が政権を掌握した。[[1989年]]に{{仮リンク|モーリタニア・セネガル国境紛争|en|Mauritania–Senegal Border War}}が勃発し、数万人に及ぶ両国国民が相互に両国国内から追放された[「セネガルとカーボベルデを知るための60章」p107-108 明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、小川了編著、2010年3月。ISBN 4-7503-1638-5]。タヤ大統領は、[[1991年]]に複数政党制を導入して民政移管を行い、[[1992年]]及び[[1997年]]の[[大統領]][[選挙]]で勝利を収めた。\n\n[[2000年]]には[[中華人民共和国]]の援助で新しい大統領府が建設された[Palin, Michael; Pao, Basil (16 June 2005). Sahara. Macmillan. pp. 85–. ISBN 978-0-312-30543-7.]。[[2004年]]には{{仮リンク|サバクトビバッタの大量発生 (2004年)|en|2004 locust outbreak}}が発生している。\n\n=== アブダライ政権 ===\n[[2005年]]8月にはタヤ大統領不在時に軍部が無血のクーデターにより政権を掌握した。その結果「正義と民主主義のための軍事評議会」が設置され、民政移管を公約に掲げた。この公約は実行され、2006年6月25日には憲法改正国民投票が実施され、有効投票の約97%が改正を承認。政権交代の原則が公認される。11月から12月にかけて国民議会・地方議会、2007年1月に上院議会のそれぞれの議員選挙が行われた。2007年3月11日に大統領選挙第1回投票が行われ[http://www.afpbb.com/articles/-/2193896 「民主主義への移行の最終段階 大統領選挙投票 - モーリタニア」AFPBB 2007年3月12日 2018年11月3日閲覧]、3月25日に決選投票が行われた[http://www.afpbb.com/articles/-/2201228 「大統領選挙、決選投票開始 - モーリタニア」AFPBB 2007年3月26日 2018年11月3日閲覧]結果、[[シディ・モハメド・ウルド・シェイク・アブダライ]]元水産相が新大統領に選出された[http://www.afpbb.com/articles/-/2201836 「大統領選挙決選投票、元閣僚アブドラヒ氏が当選 - モーリタニア」AFPBB 2007年3月27日 2018年11月3日閲覧]。\n\n=== アブデルアズィーズ政権 ===\n[[2008年]][[8月6日]]、軍事クーデターが発生し、アブダライ大統領、ワクフ首相、内相が軍に拘束されていると報道された[BBC World,Breaking News][http://www.cnn.co.jp/world/CNN200808060035.html]。また、クーデター実行部隊は同大統領らを拘束した[[ムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズ]]大統領警護隊長を議長とする「高等国家評議会」の樹立を宣言した[{{cite news\n | title = モーリタニアでクーデター 軍が大統領ら拘束\n | agency = [[共同通信]]\n | newspaper = 47NEWS\n | date = 2008-08-06\n | url = http://www.47news.jp/CN/200808/CN2008080601000915.html\n | accessdate = 2011-02-19\n | archivedate = 2014-8-18\n | deadlinkdate = 2017-12-21\n | archiveurl = https://web.archive.org/web/20140818111915/http://www.47news.jp/CN/200808/CN2008080601000915.html\n}}]。このクーデターについて、欧米各国、[[アフリカ連合]]、[[アラブ連盟]]は非難声明を出し、アブダライ大統領を権力に復帰させるよう求めた。高等国家評議会は、[[2009年]][[6月]]に民主化のための選挙を行うと表明。2008年12月には、拘束されていたアブダライ大統領をはじめとする旧政府要人が解放されたが、2009年1月には現政権支持派によるアブダライ批判デモが起こるなど、不安定な状態が続いた。\n\n2009年6月実施予定の大統領選に出馬するため、アブドゥルアズィーズは2009年4月に軍政トップを辞任した。大統領選は予定通り6月に実施され、アブドゥルアズィーズが当選した。2014年の大統領選挙でもアブドゥルアズィーズは再選された[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p315 二宮書店 平成28年1月10日発行]。\n\n2019年6月の大統領選挙で、アブドゥルアズィーズ側近のガズワニが当選した[[https://www.jiji.com/jc/article?k=2019062400619&g=int ガズワニ氏が勝利]]。\n\n== 政治 ==\n[[画像:Mauritania-aziz-in-his-home-city-Akjoujt-15mar09 1.jpg|サムネイル|180px|第4代大統領[[ムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズ]]]]\n{{see|{{仮リンク|モーリタニアの政治|en|Politics of Mauritania}}}}\nモーリタニアは[[共和制]]国家であり、[[大統領制]]を取る。現行の憲法は1991年7月に制定された[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p590、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。議会はかつて直接選挙による[[国民議会 (モーリタニア)|国民議会]]([[下院]])と、[[間接選挙]]による[[上院]]の[[二院制]]を取っていた[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p590、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]が、2017年に上院を廃止する[[2017年モーリタニア憲法改正国民投票|憲法改正国民投票]]が行われて可決されたため、[[一院制]]へと移行した[https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/09/4958e1b1ae5c6f78.html 「国民議会議員選挙で与党が絶対安定多数を維持(モーリタニア)」渡辺智子 JETRO 2018年09月26日 2018年11月5日閲覧]。大統領は直接選挙で選出され、任期は5年、2期までとなっている[https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/09/4958e1b1ae5c6f78.html 「国民議会議員選挙で与党が絶対安定多数を維持(モーリタニア)」渡辺智子 JETRO 2018年09月26日 2018年11月5日閲覧]。\n\n== 国際関係 ==\n{{main|{{仮リンク|モーリタニアの国際関係|en|Foreign relations of Mauritania}}}}\n外交面では[[非同盟]]を軸として穏健[[中立]]を貫くとともに、[[フランス]]を始めとする[[先進国|先進諸国]]との関係強化を進めている。[[アラブ・マグレブ連合]](AMU)のメンバーとしてイスラム諸国との域内協力に積極姿勢を示す一方で、1999年10月には[[イスラエル]]との外交関係を樹立した。\n\nモーリタニアは[[アラブ系]]民族である[[ムーア人]]が支配民族に位置し、アラビア語を[[公用語]]とするアラブ系国家として、[[アラブ連盟]]加盟国である。アラブ諸国内では[[モロッコ]]及び[[リビア]]と外交的に対立し、[[チュニジア]]および[[イラク]]と友好関係を保っている。しかしその一方で、[[親米]]姿勢を取り、イスラエルを[[国家の承認|承認]]し、[[1999年]]にはイスラエルと外交関係を樹立した。しかし[[2008年]]に始まったイスラエルによる[[ガザ紛争 (2008年-2009年)|ガザ侵攻]]に反発し、[[2009年]]にイスラエルとの外交関係を断絶し、再び反イスラエルに転じている。\n\n[[スペイン]]が[[西サハラ|旧スペイン領サハラ]]を放棄すると、モロッコ同様に領土権を主張し、南部を占領した。しかし[[ポリサリオ戦線]]の抵抗に遭い、[[1979年]]4月に和平協定を結んで領有権を放棄している。\n\n[[1989年]]に南隣の[[セネガル]]との間で{{仮リンク|モーリタニア・セネガル国境紛争|en|Mauritania–Senegal Border War}}が勃発した。\n\n=== 日本との関係 ===\n* 在留日本人数 - 20名(2016年10月現在)[{{Citation|和書\n| url = http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mauritania/data.html#section6\n| publisher = [[外務省]]\n| title = モーリタニア・イスラム共和国(Islamic Republic of Mauritania)基礎データ\n| chapter = 二国間関係\n| accessdate = 2017-12-21 }}]\n* 在日モーリタニア人数 - 18名(2016年12月現在){{R|外務省/基礎データ/二国間関係}}\n* 中村正明 - 2015年現在、日本の輸入[[タコ]]のシェア1位はモーリタニアで、彼は1978年に国際協力事業団(現JICA)から派遣され7年間漁業指導を行った。その功績が認められ、2010年に大統領から国家功労賞を授与された。\n* [[前野ウルド浩太郎]] - サバクトビバッタの防除技術の研究開発のためモーリタニアに滞在し、現地の文化を著書に記している。\n\n== 地方行政区分 ==\n{{Main|モーリタニアの行政区画}}\n[[ファイル:Mauritania regions numbered.svg|サムネイル|220px|モーリタニアの地方行政区分]]\n\n15の州に分かれている。\n\n# [[アドラル州]] (Adrar)\n# [[アサバ州]] (Assaba)\n# [[ブラクナ州]](Brakna)\n# [[ダフレト・ヌアジブ州]] (Dakhlet Nouadhibou)\n# [[ゴルゴル州]] (Gorgol)\n# [[ギディマカ州]] (Guidimaka)\n# [[ホズ・エッシャルギ州]] (Hodh Ech Chargui)\n# [[ホズ・エルガルビ州]] (Hodh El Gharbi)\n# [[インシリ州]] (Inchiri)\n# ''[[ヌアクショット]]'' (Nouakchott) - [[ヌアクショット北]]、[[ヌアクショット西]]、[[ヌアクショット南]]の3州に分割される\n# [[タガント州]] (Tagant)\n# [[ティリス・ゼムール州]] (Tiris Zemmour)\n# [[トラルザ州]] (Trarza)\n\n=== 主要都市 ===\n{{Main|モーリタニアの都市の一覧}}\n最大都市は中部海岸にある首都の[[ヌアクショット]]である。ヌアクショットは独立後に首都を置く想定で[[1958年]]に建設された都市であるが、1960年に独立し首都がセネガルのサン・ルイから移転されると、乾燥化が進む国内から人々が移住するようになり、人口は急速に増大した。2014年の都市圏人口は94万5000人を数え[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p314 二宮書店 平成28年1月10日発行]、サハラ砂漠最大の都市となっている。これに次ぐ都市は海岸部の北端に位置する[[ヌアディブ]]である。ヌアディブは良港をもち、1963年に内陸の[[ズエラット]]鉄山からモーリタニア鉄道が開通した後は鉄鉱石の積出港として発展した。また水産業の拠点としても重要な位置を占める。南部にはセネガル川沿いに[[ロッソ (モーリタニア)|ロッソ]]や[[カエディ]]などいくつかの都市が存在する。\n\n== 地理 ==\n{{main|{{仮リンク|モーリタニアの地理|en|Geography of Mauritania}}}}\n[[ファイル:Mr-map.png|220px|サムネイル|モーリタニアの地図]]\n[[ファイル:Mauritania Topography.png|サムネイル|地形図]]\n[[画像:Adrar-Passe d'Amogjar (1).JPG|サムネイル|左|シンゲッティのあるアドラール高原]]\n[[アフリカ大陸]]の西側に位置するモーリタニアは、おおむね平坦で[[日本]]の約3倍の国土面積を持つ。全土が[[サハラ砂漠]]に位置するため、国土の90%以上が[[砂漠]]であり、中央部に[[リシャット構造]]と呼ばれる同心円状の特徴的な地形がある。南部のセネガル国境を成す[[セネガル川]]流域や点在する[[オアシス]]が僅かに乾燥を免れた地域となっている。大西洋岸とセネガル川流域には平野が広がり、内陸部は高原となっている。国内最高峰は北部のズエラート付近にある{{仮リンク|ケディエ・エジュ・ジル|en|Kediet ej Jill}}山(915[[メートル|m]])で、全山が磁鉄鉱からなるため[[コンパス]]を狂わすと言われる。\n\n近年サハラ砂漠の[[砂漠化]]の拡大が問題となっている。\n\n砂漠化の加速について、環境上の特徴や、地球温暖化を含む気候変動など、複数の要因があげられる。また、この砂漠化は、砂嵐などによる砂丘での砂の移動によって悪化している。加えて、首都ヌアクショットでの持続不可能な農業とその他の土地利用に代表される、土壌と水の拙い管理が砂漠化の悪化を一層深刻にさせている[{{Cite web|title=深刻化する環境問題に耐えるモーリタニア {{!}}|url=http://globalnewsview.org/archives/10571|website=GNV|accessdate=2020-01-03|language=ja}}]。\n\n[[ケッペンの気候区分]]によれば、全土が[[砂漠気候]]であるが、南部の[[サヘル]]は[[ステップ気候]]になる。冬に[[ハルマッタン]]と呼ばれる北東の風が吹き出す。低緯度地域ではあるが、沿岸部は寒流である[[カナリア海流]]の影響により、温暖な気候となっている[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p586、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。首都ヌアクショットの年間降水量は100[[ミリメートル|mm]]を越えない。\n\n=== サバクトビバッタの大発生 ===\n{{main|サバクトビバッタ}}\n{{仮リンク|サバクトビバッタの大量発生 (2004年)|en|2004 locust outbreak}}の被害を受けた。\n{{-}}\n\n== 経済 ==\n{{Main|モーリタニアの経済}}\n[[画像:Central mosque in Nouakchott.jpg|サムネイル|左|首都[[ヌアクショット]]]]\nモーリタニアは国土のほとんどが砂漠に覆われ、可耕地は国土のわずか0.4%に過ぎないため、農業は南部のセネガル川沿岸および各地の[[オアシス]]で行われるにすぎない。[[牧畜]]は古くからのこの地域の主産業であり、農業よりもはるかに大きい規模を持つが、輸出はあまり盛んではない。\n\nモーリタニアの主産業は[[鉱業]]であり、なかでも北部のズエラットで採掘される[[鉄鉱石]]が経済の柱となっている。[[ズエラット]]の鉄鉱は1951年に開発が始まり、1963年には輸送用の[[モーリタニア鉄道]]が開通して採掘が本格化した。鉱山および鉄道は[[1974年]]に[[国有化]]され[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p593、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]、[[1976年]]には総輸出額の90%を鉄鉱が占めたものの、ポリサリオ戦線との戦争から始まる混乱期に生産が一時激減し、[[1983年]]にはいったん輸出額は水産物に抜かれた[「週刊朝日百科世界の地理98 モロッコ・モーリタニア・西サハラ」p10-208 昭和60年9月8日発行 [[朝日新聞社]]]。しかしその後生産は回復し、2014年度には鉄鉱石輸出は輸出の39.9%を占めて最大輸出品となっている[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p315 二宮書店 平成28年1月10日発行]。このほか、[[金]]が輸出の15.1%、[[銅]]が輸出の10.1%を占める[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p315 二宮書店 平成28年1月10日発行]など、鉱業がモーリタニア経済に占める割合は大きい。\n\nこれに加え、2000年代に入りヌアクショットの沖で油田が発見され、[[石油]]の輸出に大きな期待がもたれた。これを受け、モーリタニア政府は[[2005年]]9月に「採掘産業の透明性イニシアティヴ(ITIE)」に参加し、「石油収入国家基金」を法により設立し、石油から得た収入を全額基金に振り込むことを決定した。基金は国外の銀行に設けられ、国際監査を受ける。政府は、モーリタニア石油資源管理に大きな特権を有する国営石油会社「モーリタニア炭化水素公社 Société Mauritanienne des Hydrocarbures(SMH)」も設立した。[[2006年]]2月からChinguetti海上[[油田]]が生産を開始し、同年の経済成長率は11.7%を記録したものの、その後石油生産は伸び悩み、2013年の原油生産量はわずか33万トンにとどまっており、国内需要70万トンすら満たせていない状況である[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p315 二宮書店 平成28年1月10日発行]。\n\n鉱業と並ぶモーリタニア経済のもう一つの柱が[[水産業]]である。2014年度には[[魚介類]]輸出が輸出の14.7%、これと別枠で[[イカ]]・[[タコ]]類が10.6%を占め[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p315 二宮書店 平成28年1月10日発行]、おおよそ輸出の4分の1が水産物で占められている。[[日本]]が輸入する[[マダコ]]の主要輸入先の一国である。特に[[タコ]]は日本で食べられているタコの3割(他、日本30% 中国11% モロッコ10% その他19%〜財務省 貿易統計【2012年】)を占めている。日本へのタコ輸出額は2014年度で約110億円にのぼる[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p315 二宮書店 平成28年1月10日発行]。このため、日本との貿易ではモーリタニアは大幅な黒字を計上している[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p315 二宮書店 平成28年1月10日発行]。\n{{Clearleft}}\n\n== 交通 ==\n[[画像:Nouakchott,Quinquieme1.jpg|サムネイル|道を行き交うシャレット([[ヌアクショット]])]]\n{{main|{{仮リンク|モーリタニアの交通|en|Transport in Mauritania}}}}\n===道路===\n道路は[[右側通行]]である。交通ルールを守らないドライバーが多く、道路上を動物が歩き回るなど条件は悪い{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。[[ロバ]]に台車を引かせる『シャレット』が多数公道を走行しているが、遅いため渋滞の原因になっている{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。\n\n交通機関として目的地まで向かうタクシーと、決まったルートをピックアップトラックなどで巡回する乗り合いタクシーが存在する。乗り合いタクシーは安価だが限界まで人を詰め込むという{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。\n\n=== 鉄道 ===\n内陸の[[ズエラット]]鉱山から海港都市[[ヌアディブ]]まで、[[1963年]]に建設された[[モーリタニア鉄道]]が運行している。モーリタニア鉄道の[[貨物列車]]はズエラット・ヌアディブ間717kmで[[鉄鉱石]]を運搬しており、一本の車両につき車両数210両、長さは約3kmもあり、旅客利用も可能である[「世界の鉄道」p319 一般社団法人海外鉄道技術協力協会著 ダイヤモンド・ビッグ社 2015年10月2日初版発行]。\n\n== 国民 ==\n{{main|{{仮リンク|モーリタニアの人口統計|en|Demographics of Mauritania}}}}\n=== 民族 ===\n国民の40%が[[ムーア人]]([[アラブ人]]と[[ベルベル人]]の混血)と[[黒人]]の混血、あとの30%ずつがムーア人と黒人である[CIA - The World Factbook]。黒人諸民族は、人口の7%を占める[[ウォロフ人]]のほか、[[トゥクロール人]]、[[:en:Haratin]]、[[セレール族]]、[[ソニンケ族]]、[[プル人]]などが居住する。多年のムーア人支配の影響で、社会の上層部はムーア人が占める。アラブ人には[[遊牧]]生活を営むベドウィンも存在する。\n\n=== 言語 ===\n[[アラビア語]]を[[公用語]]とする。モーリタニアで話されているアラビア語は「[[アラビア語ハッサニア方言|ハッサーニーヤ]]」と呼ばれ、黒人言語や[[ベルベル語]]、[[フランス語]]の影響を受けている。支配層のムーア人は人種的にはベルベル人の要素が強いが、文化的には長い間のイスラームの影響によりアラブ化しており、ベルベル語を保っているものは少数である。高等教育を受けた、商業関係者、政府役人、教育関係者の間では多くフランス語が用いられており、ドライバーや警備員など外国人を相手にする者にも広く通じる{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。[[英語]]は入国審査官や研究者などごく一部の者にしか使われない{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。その他、[[ウォロフ語]]なども使われている。\n\n=== 教育 ===\n[[画像:Madrasah pupils in Mauritania.jpg|サムネイル|280px|モーリタニアの学童]]\n{{main|{{仮リンク|モーリタニアの教育|en|Education in Mauritania}}}}\n6歳から12歳までの[[初等教育]]が無償の[[義務教育]]期間となっており、その後6年間の総合[[中等教育]]を経て[[高等教育]]を行う。2003年の15歳以上の人口の[[識字率]]は51.2%である[[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/mr.html cia.gov]]。\n{{-}}\n\n== 文化 ==\n=== 宗教 ===\n{{main|{{仮リンク|モーリタニアの宗教|en|Religion in Mauritania}}}}\n[[スンニ派]]の[[イスラーム]]を[[国教]]とし、[[1991年]]の[[憲法改正]]でイスラーム法([[シャリーア]])が正式に採用された。イスラム教徒の比率は99.1%であり、非イスラム教徒はほぼ外国人である。\n\nイスラム教国であるが、イスラム教徒でなければ国内での飲酒は容認されており、外国人は少量ならば酒類を持ち込める{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。ただし、持ち込み時に税関に[[賄賂]]を渡さないと空港内で没収されるという{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。また繁華街では出稼ぎの中国人を相手にする中華料理店が存在しており{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}、[[青島ビール]]が容易に入手できる{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}など適用は緩やかである。\n\n=== 食文化 ===\n[[画像:CouscousDromadaire (2).JPG|サムネイル|200px|[[ヒトコブラクダ]]の[[クスクス]]]]\n肉は伝統的に[[ヤギ]]、[[ラクダ]]、鶏が食されるが、イスラム教国であるため豚肉は流通していない{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。野菜も手に入るがほぼ輸入品であるため品質は悪い{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。[[クスクス]]などの味付けには[[トマトピューレ]]が多く使われている{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。[[セネガル料理]]の[[チェブジェン]]もよく食されており、パック入りの状態で販売されている{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。\n\n沿岸部では魚も食されるがタコやイカは気味悪がられているため、日本の協力により[[蛸壺]]を使う日本式のタコ漁が盛んになっても食べる習慣は無く{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}、全て輸出に回されるため首都ですら流通していない{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。このため英語やフランス語が話せてもOctopus/Pieuvreという単語を知らずイカとタコの区別が曖昧な者もいる{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。\n\n植民地時代の名残で都市部ではフランス風のパンを焼くパン屋があり、[[スパゲッティ]]もよく食べられる{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。また茶を飲む習慣も広まったが、茶は砂糖とミントを入れて沸騰させ濃いめにし小さなグラスで3回に分けて飲むというスタイルである{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。なお[[紅茶]]ではなく[[中国茶]]が多く飲まれている{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。また日本からの支援物資である[[コメ]]も流通しており{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}、チェブジェンにも使われている。\n\n=== 世界遺産 ===\n{{Main|モーリタニアの世界遺産}}\nモーリタニアには、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が1件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件ある。\n\n\nBancdarguin map lg.jpg|[[バン・ダルガン国立公園]] - (1989年、自然遺産)\nChinguetti mosquee.jpg|[[ウアダン、シンゲッティ、ティシット、ウアラタの古いクスール]] - (1996年、文化遺産)\n\n\n=== 祝祭日 ===\n{| class=\"wikitable\"\n!日付\n!日本語表記\n!現地語表記\n!備考\n|-\n|[[11月28日]]\n|[[独立記念日]]\n|LISTIKLAL\n|\n|}\n\n== 治安 ==\nアフリカ諸国の中では比較的良いという{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。\n\n== 社会問題 ==\n=== 賄賂 ===\n外国人に対しては郵便局で荷物を受け取る際に高額な手数料を要求するなど、行政組織の腐敗も根強く残っている{{Sfn|前野ウルド浩太郎|2017}}。\n\n=== 人種差別 ===\n{{main|{{仮リンク|モーリタニアの人権|en|Human rights in Mauritania}}}}\n[[ベルベル人]]と[[アラブ人]]の[[混血]]である、イスラム教徒の[[ムーア人]](モール人)が社会の上層を占める。ムーア人と[[黒人]]が対立する構図は、独立後も続いている。\n\n=== 奴隷制 ===\n独立後も[[奴隷制]]が続いていたが、[[1980年]]に公式には[[奴隷制度廃止運動|奴隷制が廃止]]された(公式には世界奴隷制消滅宣言)。ただし、その後も実態として虐待を伴う奴隷制は続き、若干の賃金が与えられているだけとの指摘もある。2003年には再び[[人身売買]]を禁止する法律が公布された。\n\n=== ガヴァージュ ===\n少女を強制的に[[肥満]]化させる風習があり、「[[ガヴァージュ]]({{lang|en|gavage}})[日本語では通常、{{lang|en|gavage}}を「[[経管栄養]]」と訳出するが、ここでの{{lang|en|gavage}}とは全く違う目的の行為である。この場合の{{lang|en|gavage}}は{{仮リンク|ガチョウやカモへの強制給餌|fr|Gavage des oies et des canards}}に近い行為を人間に対して行なうもので、場合によっては嘔吐等によって窒息死することがある。]」または「[[:en:Leblouh|ルブル]]」と呼ばれる。農耕に向かないサハラ砂漠が広がるモーリタニアとその周辺では伝統的に、太った女性は豊かな家庭の象徴とみなされ、男性からも好まれた。\n\nこのため各家庭では娘を美しくして良い結婚をさせるため、少女時代に強制的に太らせるようになった。[[砂糖]]を加えた[[ラクダ]]の乳や[[雑穀]]の[[粥]]、[[クスクス]]などを大量に飲み食いさせ、拒否すれば木の[[万力]]で[[つま先]]や手の指を挟む罰を与えることもあった。さらに運動を制限し、食欲を増進する薬を使う場合もあった。\n\nモーリタニア政府の2011年時点の調査によると、10歳までに太るような生活を強いられた経験を持つモーリタニア人女性は約6割だった。ルブルで死亡した少女もいるうえ、肥満は心臓疾患、[[糖尿病]]、関節炎など健康被害をもたらす。このため政府の社会問題・子供・家庭省はルブル撲滅を国民に訴えており、以前より減っている[【世界深層in-depth】アフリカ・モーリタニア/ぽっちゃり女性モテモテの陰で/無理やり飲食 死者も『[[読売新聞]]』朝刊2017年9月14日]。\n\n=== 砂漠化 ===\n{{main|{{仮リンク|サヘル旱魃|en|Sahel drought}}}}\n国土の[[砂漠化]]が著しく、首都ヌアクショット周辺の住宅地も砂漠に飲み込まれ、放棄されている。\n\n== 著名な出身者 ==\n* [[メド・オンド]] - 映画監督\n* [[アブデラマン・シサコ]] - 映画監督\n\n== 脚注 ==\n{{脚注ヘルプ}}\n{{Reflist}}\n\n== 参考文献 ==\n*{{Citation|和書\n| author = 宮治一雄\n| series = 世界現代史 17\n| title = アフリカ現代史\n| volume = 5\n| publisher = [[山川出版社]]\n| year = 2000\n| isbn = 4-634-42170-4 }}\n*{{Citation|和書\n| editor = 福井英一郎\n| editor-link = 福井英一郎\n| title = 世界地理9 アフリカI\n| publisher = 朝倉書店\n| year = 2002\n| isbn = 4-254-16539-0 }}\n*{{Citation|和書\n| author = [[前野ウルド浩太郎]]\n| title = バッタを倒しにアフリカへ\n| publisher = [[光文社]]\n| series = [[光文社新書]]\n| year = 2017\n| isbn = 978-4-334-03989-9 }}\n\n== 関連項目 ==\n* [[モーリタニア関係記事の一覧]]\n\n* [[モーリタニアにおける死刑]]\n* [[アルセーヌ・ルパン]] 劇中では1912年ごろ、モーリタニア帝国を征服し、スルタン(皇帝)に即位している。\n\n== 外部リンク ==\n{{Commons&cat|Mauritania|Mauritania}}\n'''政府'''\n* [http://www.amba-mauritania.jp/ 在日モーリタニア共和国大使館] {{ja icon}}\n'''日本政府'''\n* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mauritania/ 日本外務省 - モーリタニア] {{ja icon}}\n\n{{アフリカ}}\n{{OIC}}\n{{OIF}}\n{{アラブ・マグレブ連合}}\n----\n\n''このページは[[プロジェクト:国|ウィキプロジェクト 国]]のテンプレートを使用しています。''\n\n{{デフォルトソート:もおりたにあ}}\n[[カテゴリ:モーリタニア|*]]\n[[カテゴリ:共和国]]\n[[カテゴリ:フランコフォニー加盟国]]"}
+{"title": "カザフスタン", "text": "{{基礎情報 国\n| 略名 =カザフスタン\n| 日本語国名 =カザフスタン共和国\n| 公式国名 ='''{{Lang|kk|Қазақстан Республикасы}}'''(カザフ語)
'''{{Lang|ru|Республика Казахстан}}'''(ロシア語)\n| 国旗画像 =Flag of Kazakhstan.svg\n| 国章画像 =[[ファイル:Emblem of Kazakhstan latin.svg|100px|カザフスタンの国章]]\n| 国章リンク =[[カザフスタンの国章|国章]]\n| 標語 =なし\n| 国歌 =[[我がカザフスタン|{{lang|kk|Менің Қазақстаным}}]]{{kk icon}}
''我がカザフスタン''
{{center|[[ファイル:Kazakhstan National Anthem 2012.ogg]]}}\n| 位置画像 =Kazakhstan (orthographic projection).svg\n| 公用語 =[[カザフ語]]、[[ロシア語]]\n| 首都 =[[ヌルスルタン]](アスタナ)\n| 最大都市 =[[アルマトイ]]\n| 元首等肩書 = [[カザフスタンの大統領|大統領]]\n| 元首等氏名 = [[カシムジョマルト・トカエフ]]\n| 首相等肩書 = [[カザフスタンの首相|首相]]\n| 首相等氏名 = {{ill2|アスカル・マミン|en|Askar Mamin}}\n| 他元首等肩書1 = [[カザフスタン共和国安全保障会議|安全保障会議議長]]・
憲法評議会終身議員\n| 他元首等氏名1 = [[ヌルスルタン・ナザルバエフ]][この他、初代大統領ナザルバエフは与党「ヌル・オタン」党党首も兼ねており、大統領らとともに国家を指導する地位にある\n][[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kazakhstan/data.html#section2 外務省 カザフスタン共和国]]\n| 面積順位 =9\n| 面積大きさ =1 E12\n| 面積値 =272万4,900[{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kazakhstan/data.html#section1 |title=カザフスタン共和国基礎データ |publisher=外務省 |accessdate=2018-11-05 }}]\n| 水面積率 =1.7%\n| 人口統計年 =2017\n| 人口順位 =64\n| 人口大きさ =1 E7\n| 人口値 =1,807万4,100\n| 人口密度値 =6\n| GDP統計年元 =2017\n| GDP値元 =51兆9,668億[{{Cite web|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2018/02/weodata/weorept.aspx?sy=2016&ey=2023&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=916&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CNGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=69&pr.y=11|title=World Economic Outlook Database, October 2018|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2018-10|accessdate=2019-03-10}}]\n| GDP統計年MER =2017\n| GDP順位MER =57\n| GDP値MER =1,594億\n| GDP統計年 =2017\n| GDP順位 =42\n| GDP値 =4,786億\n| GDP/人 =2万6,306\n| 建国形態 =[[独立]]
- 日付\n| 建国年月日 =[[ソビエト連邦]]より
[[1991年]][[12月16日]]\n| 通貨 =[[テンゲ]]\n| 通貨コード =KZT\n| 時間帯 =+5、+6
[[カザフスタン時間]]\n| 夏時間 =なし\n| ISO 3166-1 = KZ / KAZ\n| ccTLD =[[.kz]]\n| 国際電話番号 =7\n| 注記 =\n}}\n'''カザフスタン共和国'''(カザフスタンきょうわこく、{{Lang-kk|Қазақстан Республикасы}})、通称'''カザフスタン'''は、[[中央アジア]]に位置する[[共和制]][[国家]]。[[首都]]は[[ヌルスルタン]](アスタナ)、最大の[[都市]]は[[アルマトイ]]。\n\n北を[[ロシア|ロシア連邦]]、東に[[中華人民共和国]]、南に[[キルギス]]、[[ウズベキスタン]]、西南を[[トルクメニスタン]]とそれぞれ[[国境]]を接する[{{cite web |url=https://www.britannica.com/place/Kazakhstan |title=Kazakhstan |website=Britannica ∣language=英語 |access-date=2018-01-13 }}][[内陸国]]。[[カスピ海]]、[[アラル海]]に面している。\n\n== 国名 ==\n正式名称は[[カザフ語]]で、''{{Lang|kk|Қазақстан Республикасы}}''(Qazaqstan Respublikasy; カザクスタン・リスプブリカスィ)、[[ロシア語]]で、''{{Lang|ru|Республика Казахстан}}''(Respublika Kazakhstan; レスプーブリカ・カザフスタン)。\n\n公式の[[英語]]表記は、{{lang|en|''Republic of Kazakhstan''}}。通称、{{lang|en|''Kazakhstan''}}。\n\n[[日本語]]の表記は、'''カザフスタン共和国'''。通称、'''カザフスタン'''。{{要出典範囲|漢字表記は'''香佐富斯坦'''|date=2019年6月}}。\n\n国名は、[[カザフ|カザフ人]]の自称民族名 {{lang|kk|Қазақ}}(Qazaq; カザク)と、[[ペルシア語]]で「~の国、~の多いところ」を意味する -stān/-estān; [[スターン (地名)|スタン]]の合成語である。「スタン」に関しては、モンゴル語の「部族」を意味する「{{lang|mn-Cyrl|ястан}} (ヤスタン)」に由来するという意見もある。カザクは、[[テュルク諸語|テュルク語]]で「独立不羈の者」「放浪の民」を意味する。\n\n[[2014年]][[2月6日]]、[[ヌルスルタン・ナザルバエフ]]大統領は周辺の同じく「スタン」を国名に持つ旧[[ソ連]]諸国との差別化により、国際的な認知度をアップさせるため、国名を変更する考えとともに新たな国名の候補として「カザフエリ(カザフ語でカザフ人の土地を意味する)」を挙げたと報じられたが[{{Cite news|title=カザフスタン:国名変更へ…スタン取り近隣諸国と違いPR|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2014-2-8|author=田中洋之|url=http://mainichi.jp/select/news/20140209k0000m030025000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222134216/http://mainichi.jp/select/news/20140209k0000m030025000c.html|archivedate=2014-02-22|accessdate=2017-3-6}}]、6月には{{仮リンク|エルラン・イドリソフ|en|Erlan Idrissov}}外相がそのような動きを否定している[{{Cite news|url=https://en.tengrinews.kz/politics_sub/Kazakhstan-will-not-change-its-name-to-get-rid-of-the-stan-254165/|title=Kazakhstan will not change its name to get rid of the “stan” ending: Foreign Minister|date=13 june 2014|newspaper=Tengrinews|language=en|accessdate=2017-3-6}} ]。\n\n== 歴史 ==\n{{main|{{仮リンク|カザフスタンの歴史|en|History of Kazakhstan}}}}\n=== イッセドネス人、アリマスポイ人 ===\n古代ギリシアの[[ヘロドトス]]や{{仮リンク|アリステアス|en|Aristeas}}らによる歴史書では、伝承ではあるものの、最古の[[カザフステップ]]に[[イッセドネス人]]や{{仮リンク|アリマスポイ|en|Arimaspi}}人(一眼族)といった諸族がいたことを記録している。イッセドネス人は故人の肉を食す[[民族]]であり、アリマスポイ人は一つ目の民族であるという。アリマスポイ人は絶えず近隣の民族を攻撃しており、そのため西隣のイッセドネス人は西へ移動し、その西にいた[[スキタイ|スキュタイ]]人は西へ移動し、さらに西(南ロシア草原)にいた[[キンメリア人]]を追い出すこととなった[ヘロドトス『歴史』巻4-13]。\n\n=== スキュタイ、マッサゲタイ ===\n古代ギリシアの[[ヘロドトス]]による『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』によれば、もともとアジアの遊牧民であったスキュタイが[[マッサゲタイ]]に追われて[[ヴォルガ川|アラクセス河]]を渡河し、当時の[[キンメリア人|キンメリア地方]](現在の南ウクライナ)に移ったという。[[アケメネス朝]]の[[キュロス2世]]が[[シルダリヤ川|ヤクサルテス川]]を越えて中央アジア征服に及んだ際、[[マッサゲタイ]]の女王[[トミュリス]]に殺され、征服は失敗に終わった。\n\n=== サカイ、ソグディアノイ ===\n古代ローマの地理書には[[サカ|サカイ]]、[[ソグド人|ソグディアノイ]]といった民族が記されている。サカイはスキュタイと同じ遊牧民族であり、ペルシアの史料ではサカと呼ばれ、[[アケメネス朝]]の属民であった。[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス]]の侵入時もその存在が確認でき、ヤクサルテス川([[シル・ダリヤ]])をはさんで対峙した。ソグディアノイはのちに[[シルクロード]]交易の担い手となるソグド人として有名であるが、このころはアケメネス朝やアレクサンドロスの属民として歴史に登場する[ストラボン『地理誌』、アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』]。\n\n=== 康居、奄蔡 ===\n[[紀元前2世紀]]から[[4世紀]]にわたり、中国の歴史書には[[康居]]や[[奄蔡]]といった遊牧民族が記されている。康居ははじめ、東の[[匈奴]]、南の[[大月氏]]といった強国に臣従していたが、[[1世紀]]になると、栗弋国、厳国、阿蘭聊国といった諸国を支配下に入れるほど強盛する。奄蔡は西方史料のいう[[アオルソイ]]に比定されたり、のちに阿蘭と改名したことから[[アラン人|アラン]]に比定されたりするが、記録が少なく、康居と同族であること以外わかっていない[『史記』(大宛列伝)、『漢書』(西域伝)、『後漢書』(西域伝)、『三国志』(裴注『魏略』西戎伝)]。\n\n=== 悦般、エフタル ===\n[[悦般]]は[[モンゴル高原]]から追われた[[北匈奴]]が行き着いた地で建てた国であり、その場所は康居の北にあったとされる。言語・習俗は[[高車]]と同じであり、周辺民族の中でも清潔であったという[『魏書』(列伝第九十 西域)、『北史』(列伝第八十五 西域)]。\n\nこの悦般がのちの[[エフタル]]であるとする説もある[松田壽男『古代天山歴史地理学研究』]。エフタルはその出自が不明で、[[アルタイ山脈]]から南下してきたとも、[[バダフシャン]]にいたとも言われている[岩村 2007,p118]。エフタルはインドではフーナ(hūna)と呼ばれ、ペルシアではヘプタル(heptal)、中国では嚈噠・挹怛とも呼ばれ、中央アジアにあってその周辺国に侵入し、戦争を行った。\n\n=== 西突厥 ===\n[[6世紀]]、エフタルの国家は[[突厥]]と[[サーサーン朝]]の挟撃に遭って滅ぼされ、中央アジア全土は突厥の領土となった。突厥は[[582年]]に東西に分離し、カザフ草原は[[西突厥]]が支配することとなる。西突厥は内紛が相次ぎ、一時は[[唐]]の支配下に入ってともにアラブ・イスラーム勢力と戦うも、[[741年]]には王族である[[阿史那氏]]が滅び、その帝国はそれぞれの部族に分散してしまう。[[9世紀]]から[[12世紀]]にかけては西突厥の構成民族であった{{仮リンク|突騎施|en|Turgesh}}(テュルギシュ)、[[カルルク]]、[[オグズ]]、[[キマク]]、[[キプチャク]]、{{仮リンク|カンクリ|zh|康里|en|Kankalis}}、[[ハザール]]、[[ペチェネグ]]などが割拠した。\n\n=== カラハン朝、カラ・キタイ ===\n[[カラハン朝]]は[[テュルク系]]初のイスラーム王朝であり、その母体は[[ウイグル]]とも[[カルルク]]とも言われている[山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』]。東西の文化が融合したことで、文化面では大いに発展し、「{{仮リンク|カラハン朝トルコ語|tr|Karahanlı Türkçesi}}」と呼ばれる[[アラビア文字]]を使って記される[[テュルク語]]の文語が生まれた。[[ユースフ・ハーッス・ハージブ]]の韻文作品『[[クタドゥグ・ビリグ]](幸福になるための智恵)』や、[[マフムード・カーシュガリー|マフムード・アル・カーシュガリー]]のテュルク諸語の語彙を集めた辞典『{{仮リンク|ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク|tr|Divânu Lügati't-Türk}}(テュルク諸語集成)』が登場し、テュルク・イスラム文化の先駆けとなった[小松 2005,p166-167]。カラハン朝は[[1041年]]に東西に分裂し、[[12世紀]]初頭には[[耶律大石]]率いる[[契丹]]軍によって征服され、カラ・キタイ([[西遼]])の属国となった。\n\n=== モンゴル帝国 ===\nカザフ草原の西の大部分はテュルク系の[[キプチャク]]の領土であり、東の大部分はカラ・キタイの領土であった。カラ・キタイは[[1211年]]に[[ナイマン]]の[[クチュルク]]によって乗っ取られるが、まもなく東の遊牧民族を統一した[[チンギス・カン]]の[[モンゴル]]軍によって征服され、[[1236年]]にはキプチャクも[[バトゥ]]率いるモンゴル征西軍によって征服される。[[中央ユーラシア]]の遊牧民騎馬民族はすべてモンゴル帝国の支配下に入ることとなった。\n\nモンゴル第2代皇帝[[オゴデイ]]が没すると、[[1242年]]にバトゥは[[ヴォルガ川]]下流の[[サライ]]に都を置いて、カザフ草原(当時は[[キプチャク草原]]と呼ばれた)を中心とする自立政権[[ジョチ・ウルス]]を築いた。\n\n=== カザフ・ハン国 ===\n[[画像:Abylai khan.jpg|thumb|200px|left|[[アブライ・ハーン]]の[[切手]]
('''カザフスタン'''、2001年、Michel 317)]]\n[[File:Prokudin-Gorskii Russians in Central Asia.jpg|thumb|200px|right|[[ペトロパブル]]近郊のロシア人入植者]]\n\n[[15世紀]]末、ジョチ・ウルスの東部(現在のカザフ草原)において、[[ウズベク]]と呼ばれる遊牧集団から[[アブル=ハイル・ハン (シャイバーニー朝)|アブルハイル・ハン]]が頭角を現し、[[ウズベク・ハン国]]を建国させる。一方で[[ケレイ・ハン|ケレイ]]と[[ジャニベク・ハン|ジャニベク]]の2人によって率いられた遊牧集団[[カザフ]]がウズベク・ハン国より分離する。アブルハイル・ハンの死後、カザフの集団は分裂状態に陥ったウズベクの集団を吸収し、[[カザフ・ハン国]]を形成、アブルハイル・ハンの孫にあたる[[ムハンマド・シャイバーニー・ハン]]によって率いられた[[シャイバーニー朝]]と対立する。カザフ・ハン国は[[カーシム・ハン]](在位:[[1511年]] - [[1518年]])の時代に強盛となり、対外戦争を行い、周辺国から恐れられた。\n\n[[18世紀]]になると、カザフ・ハン国は政治的統一を失い、東部の[[カザフ#大ジュズ|大ジュズ]]({{lang|kk|[[:kk:Ұлы жүз|Ұлы жүз]]}})、中部の[[カザフ#中ジュズ|中ジュズ]]({{lang|kk|[[:kk:Орта жүз|Орта жүз]]}})、西部の[[カザフ#小ジュズ|小ジュズ]]({{lang|kk|[[:kk:Кіші жүз|Кіші жүз]]}})という3つの部族連合体に分かれて草原に居住するようになる。\n\n[[18世紀]]初頭、[[ジュンガル]]が襲来したため([[:kk:Қазақ хандығы#Ақтабан шұбырынды, Алқакөл сұлама|アクタバン・シュブルンドゥ]])、1730年代から1740年代に小ジュズと中ジュズは[[ロシア帝国]]に服属を表明し、その傘下に入った。[[1820年代]]になると、カザフのハンは権威を喪失しており、ロシア帝国による直接統治を受け入れていた。同じころ、残る大ジュズもロシア帝国の統治を受け入れる。こうしてロシア帝国に組み込まれたカザフ草原は、[[アクモリンスク州]]、[[セミパラチンスク州]]、[[セミレチエ州]]、[[ウラリスク州]]、[[トルガイ州]]、[[シルダリア州]]の6州に区分され、その東半分は[[1891年]]に[[ステップ総督府]]の管轄下に置かれた(セミレチエ州は1897年にトルキスタン総督府へ移管)。\n\n=== カザフ・ソビエト社会主義共和国 ===\n[[ロシア革命]]では、北部は[[白軍]]の支配下に入り[[アラシュ自治国]]([[1917年]] - [[1920年]])、1920年に南部は[[赤軍]]の支配下に入り[[ソビエト連邦]]の構成下において{{仮リンク|キルギス自治ソビエト社会主義共和国|en|Kirghiz Autonomous Socialist Soviet Republic (1920–25)}}が誕生(首都は[[オレンブルク]])、1925年には[[カザフ自治ソビエト社会主義共和国]]([[1925年]] - [[1936年]])が樹立された(1929年に首都が[[アルマトイ]]になる)。\n\n[[1936年]][[12月5日]]に[[カザフ・ソビエト社会主義共和国]]([[1936年]] - [[1991年]])に昇格したあと、ソビエト連邦の共産党政権のコントロール下に置かれた。領内にはソ連の[[核実験]]の中心地として[[セミパラチンスク核実験場]]が、[[宇宙開発]]の中心となる[[バイコヌール宇宙基地]]が作られた。\n\n=== カザフスタン共和国 ===\nソビエト連邦崩壊後の[[1991年]][[12月16日]]、「カザフスタン共和国」として[[独立]]し、1991年[[12月21日]]に[[独立国家共同体]](CIS)に加盟した。\n\n[[2006年]]2月、[[野党]]「[[カザフスタン明るい道民主党|アク・ジョル]]」の共同議長[[アルティンベク・サルセンバエフ]]は運転手とともに、[[アルマトイ]]で射殺体で発見された。5人の国家保安委員会のメンバーが、サルセンバエフの殺害に関わっているとして逮捕された。[[バウルツァン・ムハメドツァノフ]][[内務大臣]]によると、犯人は1人あたり2万5,000ドルを受け取っているという。[[警察官]]1人も[[殺人]]に関わったとして[[逮捕]]されている。カザフスタンでは、反対派のアルマトイ前市長の[[ザマンベック・ヌルカディロフ]]も射殺体で発見されている。\n\n[[2007年]][[8月18日]]の議会選挙では、[[与党]]「[[ヌル・オタン]]」が[[比例代表制]]による全98議席を獲得、その他9議席を[[大統領]]直属の[[国民評議会]]が指名するため、与党が107議席をすべて独占することとなった。5月には[[憲法]]改正が行われており、改正によって[[ナザルバエフ]]初代大統領に限り、3選禁止の規定が除外されている。\n\n== 地理 ==\n{{main|{{仮リンク|カザフスタンの地理|en|Geography of Kazakhstan}}}}\n[[ファイル:Kazakhstan-CIA WFB Map.png|400px|thumb|right|カザフスタンの地図]]\n[[File:Astana centr.JPG|thumb|首都[[アスタナ|ヌルスルタン(アスタナ)]]]]\n\nカザフスタンは[[ユーラシア大陸]]の中心に位置しており、世界第9位の2,725,000㎢の広大な国土面積[[https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/men_o.html 外務省(キッズ外務省)面積の大きい国]国連統計局「人口年鑑」(2014年)による]([[アジア]]では、[[中華人民共和国|中国]]、[[インド]]に次いで第3位)を有し、同時に世界最大の[[内陸国]]でもある。ただし、国土の大部分は[[サルイイシコトラウ砂漠]]や[[キジルクム砂漠]]などの[[砂漠]]や[[乾燥]]した[[ステップ (植生)|ステップ]]で占められている。地形は大きく3つに分類されており、[[中国]]国境や[[アルタイ山脈]]を含むカザフ高原、中部の[[カザフステップ]]、西部の[[カスピ海]]沿岸低地である。西部低地は[[ウラル山脈]]より西側で[[ヨーロッパ]]に属する。国の南部は東西にわたり砂漠が発達し、[[アラル海]]の縮小に表されるように[[灌漑]]が重要な課題である。アラル海東方にはロシアが租借する[[バイコヌール宇宙基地]]がある。[[カスピ海]]には{{仮リンク|マンギシュラク半島|kk|Маңғыстау түбегі|en|Mangyshlak Peninsula}}が突き出しており([[マンギスタウ州]])、[[アクタウ]]は唯一の[[不凍港]]を擁する。\n{{See also|カザフスタンの環境問題}}\n\n; 湖\n: [[マルカコル湖]]\n: [[ザイサン湖]]\n: [[バルハシ湖]]\n: [[テンギス湖]]\n: [[アラル海]]\n: [[カスピ海]]\n; 川\n: [[シルダリヤ川]]\n: [[エルティシ川|イルティシ川]]\n: [[ウラル川]]\n\n== 行政区画 ==\n[[File:Kazakhstan provinces and province capitals.svg|thumb|500px|[[カザフスタンの行政区画]]]]\n[[File:Modern Almaty.jpg|thumb|中央アジア最高レベルの[[世界都市]]である[[アルマトイ]]]]\n{{main|カザフスタンの行政区画}}\nカザフスタンは以下の14州(Oblys)に区分されている。\n; 州\n: [[北カザフスタン州]]\n: [[アクモラ州]]\n: [[パブロダール州]]\n: [[コスタナイ州]]\n: [[カラガンダ州]]\n: [[東カザフスタン州]]\n: [[アルマトイ州]]\n: [[ジャンブール州]]\n: [[南カザフスタン州]]\n: [[クズロルダ州]]\n: [[アクトベ州]](アクチュビンスク)\n: [[西カザフスタン州]]\n: [[アティラウ州]]\n: [[マンギスタウ州]]\n; 政令指定地区\n: '''[[アスタナ|ヌルスルタン]]''' - 首都\n: '''[[アルマトイ]]''' - 最大の都市\n: [[バイコヌール]]\n\n=== 主要都市 ===\n{{main|カザフスタンの都市の一覧}}\n\n=== ロシア租借地 ===\n政令指定地区[[バイコヌール]]は、ロシア連邦がカザフスタンより年間1億1,500万[[USドル]]の契約で町全体を[[租借]]し、事実上の行政区として扱っている。これは、同市にある、ソ連時代の[[1955年]]に建設された[[バイコヌール宇宙基地]]がロシアにとって今なお重要な宇宙開発施設であることに起因する。このためバイコヌールの行政権はロシアが握っており、たとえば市長は、ロシア大統領が推薦し、カザフスタン大統領が承認することで任命される。また、ロシアの法律が適用され、通貨もカザフスタンの[[テンゲ]]ではなくロシアの[[ルーブル]]が流通している。この租借契約は[[1994年]]に合意され、[[2050年]]まで続く見込みである。\n\n== 政治 ==\n[[File:Kazakh Parliament Astana.jpg|thumb|[[カザフスタン議会]]]]\n{{main|{{仮リンク|カザフスタンの政治|en|Politics of Kazakhstan}}}}\n\nカザフスタンの[[国家元首]]は、直接選挙により選出される任期5年の[[大統領]]である。大統領は政府を組閣し、[[閣僚]]・[[最高裁判所]]長・[[検事]]総長・[[国立銀行]][[総裁]]を任免、[[国民投票]]を実施し、[[非常事態宣言|非常事態]]を導入する権限を有する。[[1992年]]5月から軍最高司令官であり、同年7月からは[[国家保安委員会]]が直属している。1993年12月、最高会議は解散させられ、1995年3月、憲法裁判所は1994年3月実施の選挙が違憲であったとの決定を下した。その後は議会不在のままである。\n\n建国以来、ヌル・オタン(輝く祖国党)が単独過半数を占めており、事実上の一党独裁体制である。\n\n[[首相]]は、議会の同意により大統領が[[任命]]する。閣僚は、首相の提案により大統領が任命する。政府は、大統領の任期満了とともに総辞職し、新大統領により[[組閣]]される。閣僚の70パーセントは人口の約65パーセントを占めるカザフ人である。\n{{See also|カザフスタンの首相}}\n\n[[立法府]]は、[[下院]]([[マジリス]])と[[上院]]([[セナト]])の[[二院制]]である。下院は定数107議席。うち98議席が[[比例代表制]]による直接選挙で選出され、9議席はカザフスタン民族会議により選出される。カザフスタン民族会議とは大統領諮問機関であり、国内にある民族団体おおよそ全部を包括している[カザフスタンを知るための60章 312頁]。議席を得るには、7パーセント[[阻止条項|障壁]]を超える必要がある。上院は定数47議席。各州、旧首都、首都の地方議会から2名ずつ選出され、15名は大統領が個人的に任命する。[[1995年]]3月には、民族間関係を調整するカザフスタン民族総会が設置されている。上院が6年、下院が5年に延長された。\n\n=== 大統領 ===\n{{main|[[カザフスタンの大統領]]}}\n現在の大統領は[[カシムジョマルト・トカエフ]]。\n\n[[ソビエト連邦]]の[[ソビエト連邦構成共和国|構成国]]だった[[カザフ・ソビエト社会主義共和国]]共産党第一書記・同共和国大統領(それぞれ[[1989年]]、[[1991年]]に就任)からそのまま1991年12月にカザフスタン共和国大統領に就任した[[ヌルスルタン・ナザルバエフ]]が、独立以来2019年まで一貫して大統領の地位にあり、強力なリーダーシップを発揮した。\n\n1995年4月に大統領の任期を延長し、2000年12月までとしたが、同年8月には新憲法草案が国民投票にかけられ、圧倒的賛成で可決された[[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hyouka/kunibetu/gai/ux_kz/pdfs/kn04_01_03.pdf カザフスタン国別評価]]。この1995年憲法はカザフスタンを大統領制国家であると規定し、大統領に大幅な権限を与えた。そして、最高会議を廃止して二院制議会を新設し、1995年12月に議会選挙を実施したが、反対派はほとんどボイコットした。\n\n1998年10月に憲法改正が行われ、大統領の任期は5年から7年に延長、65歳までとされていた候補者の年齢制限が撤廃された。[[2007年]]には議会がナザルバエフを終身大統領とする議決を行うが、本人はこれを拒否した。\n\n2019年3月19日、ナザルバエフは電撃辞任を表明し、翌20日に正式に退いた。\n\n=== 主要政党 ===\n{{main|{{仮リンク|カザフスタンの政党一覧|en|List of political parties in Kazakhstan}}}}\n与党:[[ヌル・オタン]](輝く祖国)
野党:[[カザフスタン明るい道民主党|アク・ジョル]](明るい道)、[[カザフスタン共産党]]\n\n=== 治安 ===\n2015年の10万人あたりの殺人(既遂)率は、約4.8件(認知件数:853件)であった[{{Cite web|publisher=UNODC|title=Statistics and Data>Crime data>Intentional Homicide>Intentional homicide victims|url=https://dataunodc.un.org/crime/intentional-homicide-victims|accessdate=2019-2-24}}]。かつては10.0件以上あったが、減少して2010年以降は10.0件を切っている。強盗は、68.7件(認知件数:1万2,197件)であった[{{Cite web|publisher=UNODC|title=Statistics and Data>Crime data>Other Crimes>Robbery|url=https://dataunodc.un.org/crime/robbery|accessdate=2019-2-24}}]。強盗は、2009年 - 2012年の間に急増したが、2013年以降は減少している。窃盗(強盗・侵入盗・自動車盗は除く)は、約1177.0件(認知件数:20万8,907件)であった[{{Cite web|publisher=UNODC|title=Statistics and Data>Crime data>Other Crimes>Theft|url=https://dataunodc.un.org/crime/theft|accessdate=2019-2-24}}]。窃盗(強盗・侵入盗・自動車盗は除く)に関しては、2010年 - 2014年の間に急増し、2014年以降は高止まりしている。\n\n[[2016年]]6月5日、[[アクトベ]]市内の[[銃砲]]店や[[警察]]施設が攻撃される[[テロ事件]]が発生。[[治安部隊]]との間の銃撃戦で、6名が死亡、10名が負傷した。このテロ事件を受け、治安当局はアクトベ市のテロの脅威度を「赤」(3段階中最高位)に設定した。また,アクトベ市を除くカザフスタン全土を「黄」(3段階中1番目)にした[[http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcspotinfo.asp?infocode=2016C160 カザフスタン:アクトベ州アクトベ市における銃撃戦の発生に伴う注意喚起]外務省 2016年6月6日]。6月12日、カザフスタン当局はアクトベ市のテロの脅威レベルを「赤」から「黄」に引き下げ、カザフスタン全土がテロの脅威レベル「黄」となった[[http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcspotinfo.asp?infocode=2016C167 カザフスタン:アクトベ州アクトベ市における銃撃戦の発生に伴う注意喚起(更新)]外務省 2016年6月15日]。8月14日、カザフスタン国家保安委員会はテロの脅威レベル「黄」を[[2017年]]1月15日まで延長した[[http://qnew-news.net/news/2016-8/2016081608.html カザフスタン、来年1月15日まで延長]Qnewニュース 2016年8月16日]。\n\n=== メディアの検閲 ===\nインターネットは2014年時点で国民の70.8パーセントに普及している。「マスメディアに関する法律」の中で、インターネットはマスメディアと法的に定められた。これによりフェイスブックやツイッターなどのSNS、インターネット掲示板での言動は新聞、テレビと同等のものとなった。亡命者が政権批判をするブログサイト[Blogspot.com,Wordpress.com]は国内からアクセス不可であり、政府の視点とは異なるニュースチャンネルも規制がかけられている。NGOの[[フリーダム・ハウス|フリーダムハウス]]はカザフスタンを「部分的自由」と評価を下している[カザフスタンを知るための60章 253~254頁]。\n\n== 軍事 ==\n[[ファイル:Dragunov SVD Rifle.JPEG|thumb|[[カザフスタン共和国軍]]の兵士]]\n{{Main|カザフスタン共和国軍}}\nカザフスタンは、[[ソビエト連邦軍|旧ソ連軍]]中央アジア軍管区の部隊を継承した。\n\n現在の[[カザフスタン共和国軍]]は、一般任務軍([[陸軍]])、[[カザフスタン防空軍|防空軍]]([[空軍]])、[[国境警備]]軍の3軍種からなる。[[大統領]]は3軍の[[最高司令官]]であり、[[空中機動部隊]]および[[空挺部隊]]、ならびに大統領[[親衛隊]]を直轄する。軍政単位としては、南部・西部・東部および中央の4個軍管区が設置されている。一般任務軍は、2個軍、2個[[師団]]、5個[[旅団]]からなり、4万6,800人が所属する。防空軍は1万9,000人。\n\n[[徴兵制度]]が存在し、兵役の義務は18歳からの2年間とされている。\n\n== 国際関係 ==\n{{main|{{仮リンク|カザフスタンの国際関係|en|Foreign relations of Kazakhstan}}|カザフスタンの在外公館の一覧}}\n=== 全般 ===\n隣国であり、旧ソ連時代には同じ国であった[[ロシア連邦]]とともに[[ユーラシア連合]]を提唱し、ロシアと経済統合を進めて[[ユーラシア経済連合]]を設立するなど政治・経済両面で密接な関係を持つ一方、[[ロシア語]]で使われる[[キリル文字]]の廃止(後述の「言語」の項を参照)を進めるなど、過度のロシア依存は避けている。ロシア、[[中華人民共和国]]、ほかの中央アジア諸国とともに[[上海協力機構]](SCO)の創設メンバーであり、また[[トルコ共和国]]などを含む[[テュルク評議会]]のメンバーでもある。[[欧米]]諸国や[[日本]]を含むアジア諸国とも良好な関係を築いている。[[アジア相互協力信頼醸成措置会議]]と[[中央アジア連合|中央アジア諸国連合]]を提唱、さらに[[2010年]]の[[欧州安全保障協力機構]]の議長国に選出されているなど、積極的に国際機構への参加を図っている。\n\nトルコを含むイスラム諸国とロシアのいずれとも緊密な関係にあることから、首都アスタナは[[シリア騒乱|シリア内戦]]の停戦・和平に関する協議の場となっている[[https://mainichi.jp/articles/20171101/ddm/007/030/075000c 「シリア和平協議 捕虜交換議題に ロシア主導」]『毎日新聞』朝刊2017年11月1日]。\n\n===核不拡散への協力===\nソ連崩壊後、カザフスタンは[[核兵器]]を放棄した(2006年に[[中央アジア非核兵器地帯条約]]を締結)。[[セミパラチンスク核実験場]]も閉鎖したが、ソ連時代の地上[[核実験]]による[[放射能汚染]]や健康被害の問題は依然として残っている。\n\n一方でカザフスタンは[[核燃料]]である[[ウラン]]の大産出国でもあるため、核兵器開発につながる技術や[[核テロリズム]]に使われかねない[[核物質]]の拡散防止に積極的である。2017年8月、[[国際原子力機関]](IAEA)は、新興国に[[原子力発電所]]用の低濃縮ウランを供給し、[[ウラン濃縮]]技術の拡散を防ぐ「核燃料バンク」をカザフスタン東部に開設した[[https://this.kiji.is/275406986879746050?c=39546741839462401 IAEA、核燃料バンク施設完成 カザフスタンに設立][[共同通信]]2017年8月30日]。\n\n=== 対日関係 ===\n1991年12月28日国家承認。[[日本]]とは互いに[[大使館]]を置き([[在カザフスタン日本国大使館]])、[[2006年]]8月には[[小泉純一郎]]首相が、[[2015年]]10月には[[安倍晋三]]首相が訪問した。\n\n[[1998年]]、カザフスタン政府によって実施された新首都[[ヌルスルタン|アスタナ(現ヌルスルタン)]]の設計についての国際指名コンペにおいて、[[日本]]の[[建築家]]・[[黒川紀章]]案が1位に選ばれ、その都市計画案に基づき開発が続けられている[[http://www.kisho.co.jp/page.php/120 カザフスタン新首都アスタナ計画]]。\n\n== 経済 ==\n{{main|{{仮リンク|カザフスタンの経済|en|Economy of Kazakhstan}}}}\n[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2017年]]のカザフスタンの[[国内総生産|GDP]]は1,594億ドル、1人あたりのGDPは推計8,762ドルであり、独立直後の経済状況(一人あたりGDP[1992年]:169ドル)に比べ、著しい飛躍を遂げている。[[ソ連崩壊|旧ソ連崩壊]]後の厳しい経済状況の中、民営化を中心とする経済改革を推進、米国企業が参加する[[テンギス油田]]開発の始動などにより、1996年には独立以来初めてプラス成長を記録した。1998年には農業・重工業の低迷および[[ロシア財政危機|ロシアの金融危機]]によりマイナス成長(前年比マイナス2.5パーセント)に転じたものの、1999年以降は再びプラス成長に転じ、世界的な石油価格の上昇を追い風に、2000年以降年平均10パーセントという好調な経済成長を維持した。ただし、2007年以降は金融危機による世界的な景気の減退とともに経済成長率は鈍化し、2010年 - 2013年は5パーセント前後の成長率で推移していた[{{Cite news|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kazakhstan/data.html#section4|title=HP > 国・地域 > 欧州 > カザフスタン共和国 > カザフスタン基礎データ>経済>12 経済概況|publisher=外務省|date=2019-03-05|accessdate=2019-03-10}}]。\n\nこの経済成長は、[[鉱物資源]]の輸出によるものであり、[[天然資源]]依存型である。また、1人あたりGDPが1万ドル以上になり([[2008年]]ごろ)、[[マレーシア]]に並ぶ[[中進国]]となった。しかし、2014年ごろから原油価格が下落していった。さらに原油価格やロシア通貨ルーブル下落の影響を受け、2015年8月、為替相場を[[管理フロート制]]から[[変動相場制]]へ移行すると発表し、その後の1年間で、テンゲの対米ドル為替相場は4割も下落した。こうしたテンゲの為替相場急落の影響でインフレ率が急上昇し、これによる[[実質所得]]大幅減少のため、[[個人消費]]が落ち込んでしまい、景気は大きく失速し、2016年の1人あたりのGDPは推定1万ドルを割った。2017年は前述した推計8,762ドルとなり、[[中華人民共和国|中国]]とほぼ同等となった[{{Cite news|url=https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2017/09/report_170928.pdf|title=カザフスタン経済の現状と今後の展望~ シルクロードからオイルロードへ変貌する中央アジアの資源大国 ~|author=堀江 正人|publisher=三菱UFJリサーチ&コンサルティング 調査部|date=2017-09-28|accessdate=2019-03-10}}]。\n\n通貨は[[テンゲ]]である。\n\n=== 石油・天然ガス ===\n[[File:Caspian-BlackSea-Tengiz-Nov.gif|thumb|カスピ海パイプライン
(テンギス油田 - [[ノヴォロシースク]]間)]]\n国営企業[[カズムナイガス]]が中心となって、豊富な[[石油]]・[[天然ガス]]資源を開発・輸出している。2016年11月、新たにカスピ海の[[カシャガン油田]]が商業生産を開始した[【点検 成長企業】カズムナイガス■カザフスタン 国営石油、巨大油田で生産量底上げ『[[日経ヴェリタス]]』2017年12月17日号、12面(アジア)]。\n* [[カラチャガナク油ガス田]]\n* {{仮リンク|カスピ海パイプライン・コンソーシアム|en|Caspian Pipeline Consortium}}\n* {{仮リンク|カザフスタン=中国石油パイプライン|en|Kazakhstan-China oil pipeline}}\n\n=== その他鉱業 ===\nカザフスタンは石油、天然ガス、石炭、ウラン、銅、鉛、亜鉛などに恵まれた資源大国である。金属鉱業はカザフスタンにおける重要な経済部門のひとつであり、GDPの約1割(石油・ガスは3割弱)を占め、石油・ガスを含む天然資源は、工業生産・輸出・国家歳入の約6割を支えている。その埋蔵量は、[[アメリカ地質調査所]](USGS)によるとウランが世界の18パーセント、クロムが同10パーセント、マンガンが同5パーセント、銅が同5パーセント、銀が同5パーセント、鉛が同9パーセント、亜鉛が同8パーセントであり、さらなる開発ポテンシャルを有している。ウランは恒常的に生産量が増加しており、特に[[世界金融危機]]を経てからは伸びが著しく、2010年の間には1万7,803tU(金属ウラン重量トン)を産出して以降[Nuclear Energy Agency/ International Atomic Energy Agency, \"The Red Book Retrospective\" and \"Uranium: Resources, Production and Demand\"]、カザフスタンはウラン生産で世界第1位(1997年は13位)となった。今後、炭化水素・クロム・鉄は50 - 80年、ウラン・石炭・マンガンは100年以上の生産が可能であると言われている。一方、輸出の主要部分を占める非鉄金属および貴金属鉱山の開発・生産は12 - 15年程度で枯渇する可能性が指摘されている。\n\nカザフスタンは資源に恵まれている一方、品位の低さなどから開発に至った鉱山は確認埋蔵量の35パーセントにすぎず、10種の鉱物(ダイヤモンド、錫、タングステン、タンタル、ニオブ、ニッケル、ボロン、マグネサイト、マグネシウム塩、カリウム塩)はいまだ開発されていない。鉱床探査の不足により、近年は埋蔵量減少分が補填されず、質・量ともに低下していると指摘されており、地質調査部門の発展促進が課題となっている。\n\nカザフスタンの鉱業における主要企業は、Tau-Ken Samruk(金属)、KAZ Minerals(銅、銀など)、Kazakhmys Corporatiopn(銅など)、 Kazzinc(亜鉛、銅など)、Eurasian Resources Group(旧:ENRC、クロム、鉄鉱石、アルミニウム、発電事業)、ArcelorMittal Temirtau(鉄鋼)、[[カザトムプロム|Kazatomprom]](ウラン採掘を含む国営原子力公社)などである[{{Cite news|url=http://mric.jogmec.go.jp/wp-content/uploads/2018/12/trend2018_kz.pdf|title=世界の鉱業の趨勢2018 カザフスタン|format=PDF|publisher=[[独立行政法人]][[石油天然ガス・金属鉱物資源機構]](JOGMEC)|date=2018-12-26|accessdate=2019-03-10}}]。\n\n[[有機鉱物]]資源では、[[石炭]](約10,600万トン、世界第10位、世界シェア1.4パーセント)[{{Cite news|url=https://yearbook.enerdata.jp/coal-lignite/coal-production-data.html|title=グローバルエネルギー統計イヤーブック2018>石炭、亜炭>生産|publisher=Enerdata|date=2017|accessdate=2019-03-10}}]が優位である。品質が高いため、同国で産出する[[鉄]]と組み合わせて[[鉄鋼]]を生産している。燃料に向く低品質の[[亜炭]]はほとんど採れない[{{Cite news|url=http://coal.jogmec.go.jp/content/300356612.pdf|title=平成 29年度海外炭開発支援事業 外炭開発支援事業 海外炭開発高度化等調査 「世界の石炭事情調 「世界の石炭事情調 査- 2017年度 -」>第 1章 世界の石炭埋蔵量と需給動向等調査>1.2.2 石炭可採埋蔵量>(1)石炭の可採埋蔵量と可採年数(WEC 2013 に基づく)>表 1.2.2 主要な石炭資源国の可採年数(28ページ、PDF8ページ)|format=PDF|publisher=独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)|date=2018-03|accessdate=2019-03-10}}]。[[原油]](約8,800万トン)の産出量は世界シェア2.0パーセントに達する[{{Cite news|url=https://yearbook.enerdata.jp/crude-oil/world-production-statitistics.html|title=グローバルエネルギー統計イヤーブック2018>原油>生産|publisher=Enerdata|date=2017|accessdate=2019-03-10}}]。[[天然ガス]]は約300億[[立方メートル|m3]]と多くはない。\n\n2017年時点における[[金属]]鉱物資源の採掘量、世界ランキング、世界シェアは以下の通りである。\n[[File:Kazakhstan Export Treemap.jpg|thumb|色と面積で示したカザフスタンの輸出品目]]\n*''' [[ウラン]]鉱'''(22.2千トン、'''世界第1位'''、世界シェア39.0%)\n* [[銅]]鉱(745.1千トン、世界第9位、世界シェア3.7%)\n* [[鉛]]鉱(112.3千トン、世界第8位、世界シェア2.3%)\n* [[亜鉛]]鉱(347.0千トン、世界第9位、世界シェア2.6%)\n* [[ボーキサイト]]鉱(4,843.2千トン、世界第9位、世界シェア1.6%)\n* '''[[クロム]]鉱'''(6,261.5千トン、'''世界第2位'''、世界シェア18.9%)\n* [[マンガン]]鉱(1,612.8千トン、世界第9位、世界シェア2.6%)\n* [[モリブデン]]鉱(0.5千トン、世界第12位、世界シェア0.2%)\n* [[鉄]]鉱(18,330.9千トン、世界第12位、世界シェア0.6%)\n* [[金]]鉱(85.3トン、世界第13位、世界シェア2.6%)\n* [[アンチモン]]鉱(400.0トン、世界第9位、世界シェア0.3%)\n* [[プラチナ]]鉱(0.1トン、世界第9位、世界シェア0.1%)\n* [[ビスマス]]鉱(50.0トン、世界第5位)\n* [[銀]]鉱(1,028.5トン、世界第10位、世界シェア4.2%)\n\nこのほか、[[非金属鉱物]]資源として、[[硫黄]](352万トン、世界第6位、世界シェア4.4%)と[[リン鉱石]](150万トン)を採掘している[{{Cite news|url=https://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/mcs/2018/mcs2018.pdf#search=%27USGS%2CMCS2018%27|title=MINERAL COMMODITY SUMMARIES 2019(2019年鉱産物概要)(硫黄 SULFUR:161ページ、PDF165ページ リン鉱石 PHOSPHATE ROCK :123ページ、PDF127ページ )|publisher=U.S. Department of the Interior U.S. Geological Survey([[アメリカ合衆国内務省|アメリカ内務省]]アメリカ地質調査所)|date=2019|accessdate=2019-03-10}}]。\n\n[[エキバストス第一発電所]]のような電力事業も鉱業の傘下である。\n\n=== 農業 ===\n{{main|カザフスタンの農業}}\n\n=== 観光産業 ===\n{{main|{{仮リンク|カザフスタンの観光|ru|Туризм в Казахстане|en|Tourism in Kazakhstan}}}}\n\n== 社会 ==\n\n=== 家族 ===\nカザフ人は父系の出自を大きなアイデンティティとしている。父系の氏族「ルゥ」に帰属を持ち、44の主要なルゥがある。このルゥは民族の成立以前からあるものもある。結婚後もルゥは変わることはない。ソ連時代は家父長制度であると批判されたが、[[コルホーズ|集団化]]抗議による家畜屠殺、それにともなう膨大な餓死者(一説には220万人)も発生し集団化は見直され、ルゥを元にした組織となった[カザフスタンを知るための60章133~134頁,167頁]。\n\n=== 婚姻 ===\n婚姻時に、婚姻前の姓を保持する([[夫婦別姓]])か、共通の姓(夫婦同姓)か、複合姓に改姓することから選択することが可能である。すでに複合姓である場合にさらに追加することはできない。改姓した場合、離婚時には、婚姻時の姓を保持することも元の姓に戻すことも可能である[[http://adilet.zan.kz/eng/docs/K1100000518 On Marriage (Matrimony) and Family], Legal information system of Regulatory Legal Acts of the Republic of Kazakhstan.]。\n\n== 交通 ==\n{{Main|カザフスタンの交通}}\n\n旧ソ連の一部であった[[カザフスタン鉄道|カザフスタンの鉄道]]は1,520mm[[広軌]]であるために今でも頻繁に[[国際列車]]が運行され、ソ連時代からの[[エレクトリーチカ]]や客車が各国で使用されており、旧ソ連政府の影響により電化率は高い。カザフスタンの1,520mmと中国の1,435mmとの間で軌間変換をするために、カザフスタン鉄道は新型車両としてスペインの[[タルゴ]]の軌間可変車両を導入した。しかし、近年カザフスタンでは2006年より[[標準軌]](1,435mm)への改軌や新線建設の計画が進み、4年ほどで建設が終わるとされていたが、現在は標準軌の計画はすでに挫折している[[http://turksib.com/talgo/]]。\n\n== 国民 ==\n{{main|{{仮リンク|カザフスタンの人口統計|en|Demographics of Kazakhstan}}}}\n\n国土の大部分は[[砂漠]]や[[乾燥]]した[[ステップ (植生)|ステップ]]で占められており、そのため人が住めるところは少なく、人口の大半は[[首都]]と一部の地域に偏在している。2015年の人口は1,760万人程度であり、2010年の統計では、世界第61位となっている。\n\n=== 住民 ===\n{{bar box\n|title=民族構成(カザフスタン)\n|titlebar=#ddd\n|float=right\n|bars=\n{{bar percent|[[カザフ|カザフ人]]|blue|67}}\n{{bar percent|[[ロシア人]]|orange|20}}\n{{bar percent|[[ウズベク人]]|green|3}}\n{{bar percent|[[ウクライナ人]]|lightblue|2}}\n{{bar percent|その他|red|8}}\n}}\n\n{{Main|[[:en:Ethnic demography of Kazakhstan]]}}\n\n構成は[[カザフ人]]が67.47パーセント、[[ロシア人]]が19.76パーセント、[[ウズベク人]]が3.18パーセント、[[ウクライナ人]]が1.53パーセント、[[ウイグル人]]が1.46パーセント、[[タタール人]]が1.11パーセント、[[ヴォルガ・ドイツ人]]が0.99パーセント、その他4.5パーセント(2018年)となっている[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kazakhstan/data.html]。\n\n「その他」の中には[[高麗人|朝鮮系]]が入っているが、彼らの多くは現時点で3、4世代目となっており、民族的教育も育まれることがないため、母語である[[朝鮮語]]を話せない場合が多い[現地では[кореец](ロシア語で「高麗人」の意)と呼ばれている。][{{Cite web|url=http://hbol.jp/101055/4|title=日本人のほとんどが知らない中央アジアの基礎知識|publisher=ハーバービジネスオンライン|date=2016-07-13|accessdate=2016-08-24}}]。\n\nソ連時代の名残りにより、国内では現在もロシア語風の姓名を用いる世帯が多い。\n\n現在、ロシア人はロシアへの移住により減少傾向にある[カザフスタンを知るための60章308~309頁]。以前はカザフ人よりロシア人の割合の方が高かったが、独立以降多くのロシア人が転出し、カザフ人の割合が徐々に増加し逆転した。\n\nさらにカザフスタン政府が在外カザフ人の帰還を進めており、1991年から2014年1月1日までに94万4,500人のカザフ人が移住してきている。在外カザフ人は本国のカザフ人と比べ、よりカザフ文化を受け継いでいるが、それは本国はソ連時代にロシア化が進んだためである[カザフスタンを知るための60章 第52章305~309頁]。しかし、それに反してソ連時代の名残りが根強いため、本国のカザフ人同様に人名にはロシア語風の姓名を用いる割合が非常に高いことが特徴ともなっている。\n\n=== 言語 ===\n憲法では[[カザフ語]]が国家語、カザフ語と[[ロシア語]]が[[公用語]]と定められている。カザフ語は国語とされるが、カザフスタンにおいてカザフ語を話すことができるのは全人口の64.4パーセントに過ぎない。一方、ロシア語はロシア系のみならず、ソ連時代から95パーセントの住民が使用しており、[[異民族]]間の交流語として、カザフ語と同様の地位を与えられている。とりわけ都市部においてはロシア語を[[母語]]とし、カザフ語をまったく話せないカザフ人も多いなど、カザフ語よりもはるかに広く使われているのが実情である。\n\n[[政府]]は[[マスメディア|メディア]]を通してカザフ語の普及を図り、政府機関などでは積極的に使用されているものの、効果は現れていない。\n\nたとえば外国映画は、主にロシアで作られたロシア語[[吹き替え]]版が上映されている[{{Cite web|url=https://eurasianet.org/kazakhstan-movies-going-kazakh-distributors-and-audiences-resist|title=Kazakhstan: Movies Going Kazakh, But Distributors and Audiences Resist|publisher=eurasianet|author=Aktan Rysaliev|date=2016-11-01|accessdate=2019-10-30}}]。これに対し2012年、文化法改正法が施行され、外国映画にカザフ語[[吹き替え]]が義務づけられた。カザフスタンはロシア系住民が約20パーセントと中央アジアでは最多であるにもかかわらず、この法律により、カザフスタンで[[ロシア映画]]を原語で上映できなくなる可能性があった。しかしこの法律は吹き替えコストの問題で空文化し、カザフ語吹き替え映画は政府の資金援助を受けた12本ほどにとどまった[。そのため2016年、カザフ語[[日本語字幕|字幕]]でもよいと緩和した上で改めて義務づけられた][。\n\nカザフ語に関しては、同じ中央アジアの旧ソ連国家である[[ウズベキスタン]]や[[トルクメニスタン]]が[[ウズベク語]]や[[トルクメン語]]に行ったような、[[キリル文字]]から[[ラテン文字]]への切り替えを進めており、ナザルバエフ大統領は[[2025年]]までの完了を命じている][【[[Nikkei Asian Review|NIKKEI ASIAN REVIEW]]から】カザフスタン/ローマ字移行 ロシアに背「欧米追従」一部に批判『[[日経産業新聞]]』2017年7月20日アジア・グローバル面]。当然ながら、カザフ語とともに公用語である国内ではもっとも広範囲に使われているロシア語はキリル文字表記のままであり、公用語から除外されるわけでもない。\n{{main|キリル文字#ソ連崩壊後のキリル文字使用言語の減少}}\n\nカザフスタンは[[ヴォルガ・ドイツ人]]の移住・追放先のひとつであったため、現在でも全人口の1.1パーセントほどにあたる18万人が[[ドイツ語]]を話す。\n\n=== 宗教 ===\n2009年の調査では、[[イスラム教]]が70.2パーセント、[[キリスト教]]が26.2パーセント、[[無宗教]]が2.8パーセントとなっている[The results of the national population census in 2009 (The Agency of Statistics of the Republic of Kazakhstan) http://www.eng.stat.kz/news/Pages/n1_12_11_10.aspx]。イスラム教徒が多数を占めるが戒律は緩く、飲酒なども公然と行われている。\n\n=== 教育 ===\n[[義務教育]]は6歳からの8年間と定められている。国民の[[識字率]]は国民全体の98.4パーセントとなっている。\n\nなお、カザフスタンは中央アジアにおいて[[国立大学]]の数が非常に多く、[[インターナショナル・スクール|国際学校]]も豊富に揃っていることが特徴である。\n\n{{main|{{仮リンク|カザフスタンの大学|en|List of universities in Kazakhstan}}}}\n\n== 文化 ==\n[[File:Ханака Ахмеда Ясави 2010 027.jpg|thumb|イスラム教徒の聖地のひとつ、[[ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟]]]]\n{{main|カザフスタンの文化}}\nカザフ人は高度に発達した遊牧民としての文化があった。 8世紀、[[アラブ人]]が当時のカザフスタンにあたる地域のカザフ人と交流するようになると、この地は[[イスラム教]]の影響を受けるようになった。\n\n現在は旧[[ソビエト連邦|ソ連]]領[[中央アジア]]の中でもっとも[[文化的]]に[[ヨーロッパ]]化された国と言える。ロシア語話者も多く、[[ムスリム|イスラム教徒]]であっても[[戒律]]を厳格に守る者は少ない。\n\n=== 食文化 ===\n{{main|カザフスタン料理}}\n\n=== 文学 ===\n{{main|カザフスタン文学}}\n\n=== 音楽 ===\n{{main|カザフスタンの音楽}}\n\n=== 世界遺産 ===\n{{Main|カザフスタンの世界遺産}}\n: カザフスタン国内には、[[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。\n\n=== 祝祭日 ===\n{| class=\"wikitable\"\n|-\n!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考\n|-\n|[[1月1日]]||[[元旦]]|| ||\n|-\n|[[3月8日]]||[[国際婦人デー]]|| ||\n|-\n|[[3月22日]]||ナウルズ(新年)|| ||\n|-\n|[[5月1日]]||民族同調記念日|| ||\n|-\n|[[5月9日]]||戦勝記念日|| ||[[1945年]]に[[ナチス・ドイツ]]が[[ソ連]]などの[[連合国]]に対して無条件降伏した日。これはソ連時代から引き継いでいるものである\n|-\n|[[8月30日]]||憲法記念日|| ||\n|-\n|[[10月25日]]||共和国の日|| ||\n|-\n|[[12月16日]]||独立記念日|| ||1991年にカザフスタン共和国が[[ソビエト連邦]]に対する主権宣言を採択した日\n|}\n\n=== スポーツ ===\n{{main|{{仮リンク|カザフスタンのスポーツ|en|Sport in Kazakhstan}}}}\n==== 一般的な競技 ====\n: [[1991年]]の独立時より[[アジアオリンピック評議会]]に加盟している。独立後初の大型国際大会となった[[1994年アジア競技大会]]では、[[中華人民共和国]]、[[日本]]、[[大韓民国]]に次ぐ[[金メダル]]数で第4位となり、以降の[[アジア競技大会|夏季アジア競技大会]]では金メダル数4位の座を維持。[[1996年アジア冬季競技大会]]で日本、韓国を上回る14個の金メダルを獲得したように、[[アジア]]での競技レベルは全般に高い。2011年にはアスタナおよびアルマトイで[[2011年アジア冬季競技大会|冬季アジア競技大会]]が開催された。OCA憲章の改定前には[[東アジア競技大会]]に2度参加したこともある。\n\n==== サッカー ====\n{{see also|サッカーカザフスタン代表}}\n: 地理的には[[アジア]]に属し、[[カザフスタンサッカー協会]]は独立当初は[[アジアサッカー連盟]](AFC)に加盟したものの、[[2002年]][[1月1日]]をもってAFCを脱退し、[[欧州サッカー連盟]](UEFA)に加入した。そのため、[[FIFAワールドカップ]]や[[UEFA欧州選手権|欧州選手権]]の本大会・予選を通じてUEFAに加盟の有力国と対戦する機会が多い。またカザフスタンの国内リーグ優勝チームは[[UEFAチャンピオンズリーグ]]予選に出場できる。\n\n==== ロードレース(自転車競技) ====\n: [[2006年]]6月から、首都アスタナの名義で[[国際自転車競技連合]]が主宰する[[UCIプロツアー]]に出場する資格を有するチームの[[スポンサー]]になった。資金はカザフスタンの主要5企業が出資している。[[スペイン]]で開かれる[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]では、カザフスタン人の[[アレクサンドル・ヴィノクロフ]]が2006年度の総合優勝、[[アンドレイ・カシェキン]]も総合3位となった。{{main|アスタナ・プロチーム}}\n\n==== ラグビー ====\n{{see also|ラグビーカザフスタン代表}}\n: 2015年大会まで[[ラグビーワールドカップ]]出場は果たせていないが、[[アジア五カ国対抗]]では2009年と2010年の2度準優勝を果たし、[[ラグビーワールドカップ2011|2011年のワールドカップ]]予選の最終プレーオフまで進んだ。女子は[[女子ラグビーワールドカップ|ワールドカップ]]の常連となっている。\n\n== 脚注 ==\n{{脚注ヘルプ}}\n=== 注釈 ===\n{{Reflist|group=\"注釈\"}}\n=== 出典 ===\n{{Reflist|colwidth=30em}}\n{{Reflist|2}}\n\n== 参考資料 ==\n;歴史の項\n*[[松平千秋]]訳『世界古典文学全集 10 ヘロドトス』([[筑摩書房]]、[[1988年]]、ISBN 4480203109)\n*[[山田信夫 (歴史家)|山田信夫]]『北アジア遊牧民族史研究』([[東京大学出版会]]、[[1989年]]、ISBN 4130260480)\n*[[ストラボン]](訳:[[飯尾都人]])『ギリシア・ローマ世界地誌Ⅱ』([[龍溪書舎]]、[[1994年]]、ISBN 4844783777)\n*[[アッリアノス]](訳:大牟田章)『アレクサンドロス大王東征記 上』([[岩波書店]]、[[2005年]]、ISBN 4003348311)\n*[[小松久男]]『世界各国史4 中央ユーラシア史』([[山川出版社]]、[[2005年]]、ISBN 463441340X)\n*[[岩村忍]]『文明の十字路=中央アジアの歴史』([[2007年]]、[[講談社]])\n*鵜山智彦・藤本透子『カザフスタンを知るための60章』 (2015年、[[明石書店]]、ISBN 978-4-7503-4062-3)\n\n== 関連項目 ==\n* [[カザフスタン関係記事の一覧]]\n* [[カザフスタニア]]\n\n\n== 外部リンク ==\n{{Commons&cat|จҚазақстан|Kazakhstan}}\n; 政府等\n* [https://primeminister.kz/kz カザフスタン共和国政府] {{kk icon}}{{ru icon}}{{en icon}}\n* [http://www.akorda.kz/ カザフスタン大統領府] {{kk icon}}{{ru icon}}{{en icon}}\n\n; 日本政府\n* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kazakhstan/ 日本外務省 - カザフスタン] {{ja icon}}\n\n; 大使館\n* [http://mfa.gov.kz/en/tokyo カザフスタン大使館] {{en icon}}\n* [https://www.kz.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在カザフスタン日本国大使館] {{ja icon}}\n\n; その他\n* [http://www.jp-kz.org/ 日本カザフスタン投資環境整備ネットワーク] {{ja icon}}\n\n{{アジア}}\n{{ヨーロッパ}}\n{{独立国家共同体}}\n{{OIC}}\n{{上海協力機構}}\n{{カザフスタン関連の項目}}\n{{Normdaten}}\n\n{{DEFAULTSORT:かさふすたん}}\n[[Category:カザフスタン|*]]\n[[Category:トルキスタン]]\n[[Category:独立国家共同体]]\n[[Category:内陸国]]\n[[Category:共和国]]\n[[Category:中央アジア]]\n[[Category:ロシア語圏]]"}
+{"title": "ジブチ", "text": "{{Otheruses|ジブチ共和国|同国の首都|ジブチ市}}\n{{基礎情報 国\n | 略名 =ジブチ\n | 日本語国名 =ジブチ共和国\n | 公式国名 ='''{{Lang|fr|République de Djibouti}}'''(フランス語)
'''{{Lang|ar|جمهورية جيبوتي}}'''(アラビア語)\n | 国旗画像 =Flag of Djibouti.svg\n | 国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of Djibouti.svg|100px|ジブチの国章]]\n | 国章リンク =([[ジブチの国章|国章]])\n | 標語 =なし\n | 位置画像 =Djibouti (orthographic projection).svg\n | 公用語 =[[アラビア語]]、[[フランス語]]\n | 首都 =[[ジブチ市]]\n | 最大都市 =ジブチ市\n | 元首等肩書 =[[ジブチの大統領一覧|大統領]]\n | 元首等氏名 =[[イスマイル・オマル・ゲレ]]\n | 首相等肩書 =[[ジブチの首相一覧|首相]]\n | 首相等氏名 ={{ill2|アブドゥルカーディル・カミール・ムハンマド|en|Abdoulkader Kamil Mohamed}}\n | 面積順位 =146\n | 面積大きさ =1 E10\n | 面積値 =23,000\n | 水面積率 =0.1%\n | 人口統計年 =2016\n | 人口順位 =158\n | 人口大きさ =1 E5\n | 人口値 =900,000\n | 人口密度値 =38\n | GDP統計年元 =2013\n | GDP値元 =2,587億[{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=611&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=31&pr.y=18|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-10-26}}]\n | GDP統計年MER =2013\n | GDP順位MER =168\n | GDP値MER =15億\n | GDP統計年 =2013\n | GDP順位 =168\n | GDP値 =27億\n | GDP/人 =2,916\n | 建国形態 =[[独立]]
- 日付\n | 建国年月日 =[[フランス]]より
[[1977年]][[6月27日]]\n | 通貨 =[[ジブチ・フラン]]\n | 通貨コード =DJF\n | 時間帯 =(+3)\n | 夏時間 =なし\n | 国歌名 =ジブチ\n | ISO 3166-1 = DJ / DJI\n | ccTLD =[[.dj]]\n | 国際電話番号 =253\n | 注記 =\n}}\n'''ジブチ共和国'''(ジブチきょうわこく)、通称'''ジブチ'''は、[[アフリカ]]北東部に位置する[[共和制]][[国家]]。首都は[[ジブチ市]]。公用語は[[アラビア語]]で[[アラビア半島]]に極めて近く[[アラブ連盟]]の加盟国であるため、[[中東]]に含まれる場合もある。[[エリトリア]]、[[エチオピア]]、[[ソマリア]]と接し、[[紅海]]、[[アデン湾]]に面する。\n\n== 国名 ==\n正式名称はフランス語で、''République de Djibouti''(レピュブリク・ドゥ・ヂブティ)。通称、''Djibouti''(ヂブティ)。アラビア語で、{{lang|ar|''جمهورية جيبوتي''}}({{transl|ar|''jumhūrīyat jībūtī''}}; ジュムフーリーヤ・ジーブーティー)。\n\n公式の英語表記は、''Republic of Djibouti''(リパブリック・オヴ・ヂブーティ)。通称、''Djibouti''(ヂブーティ)。\n\n日本語の表記は、'''ジブチ共和国'''。通称、'''ジブチ'''。\n\n== 歴史 ==\n{{main|{{仮リンク|ジブチの歴史|en|History of Djibouti}}|プント国|アダル・スルタン国|{{仮リンク|Habesh Eyalet|en|Habesh Eyalet}}|{{仮リンク|Egypt Eyalet|en|Egypt Eyalet}}}}\n\n=== スエズ運河建設 ===\n[[1859年]]に[[フェルディナン・ド・レセップス]]の[[スエズ運河会社]]による[[スエズ運河]]の建設が始まると、ヨーロッパへの短絡路として[[紅海]]の重要性は増大し、その入り口を扼する[[タジュラ湾]]地域にフランスが進出した。1859年に[[フランス第二帝政|第二帝政]]下のフランスはタジュラ湾口の[[オボック]]港を[[租借]]し、1862年にはダナキル族からオボック港を購入した。[[1881年]]にフランスはオボックに[[フランス・エチオピア通商会社]]を設立した[[[吉田昌夫]]『アフリカ現代史II──東アフリカ』山川出版社〈世界現代史14〉、東京、1990年2月10日、2版1刷発行、55頁。]。[[1884年]]にイギリスが[[イギリス領ソマリランド]]を建設し、[[1889年]]には[[ウッチャリ条約]]によって[[エチオピア帝国]]がイタリア王国へ{{仮リンク|イタリア王国領エリトリア|en|Italian Eritrea|label=イタリア領エリトリア}}を割譲したことで、フランスの勢力圏はタジュラ湾周辺の狭い地域に限定されることとなった。\n\n=== フランス領ソマリ ===\n[[File:EthiopiaRAND1908.jpg|thumb|left|180px|植民地時代([[1908年]])のアフリカ北東部。緑色の[[フランス領アファル・イッサ|フランス領ソマリランド]]が現在のジブチである。]]\n[[エチオピア帝国]]の皇帝[[メネリク2世]]は、イタリア離れと軍事力増強のためにフランスに接近を試み、[[1894年]]に[[ジブチ市]]からエチオピアの[[ハラール (エチオピア)|ハラール]]までの鉄道敷設権をフランス企業に与えた[吉田昌夫『アフリカ現代史II──東アフリカ』山川出版社〈世界現代史14〉、東京、1990年2月10日、2版1刷発行、64-65頁。]。1896年には{{仮リンク|フランス領ソマリ (1896年 - 1967年)|fr|Côte française des Somalis|en|French Somaliland|label=フランス領ソマリ}}が成立し、同年オボックからタジュラ湾の南側に位置するジブチ市への遷都が行われた[「東部・南部アフリカ」(ベラン世界地理体系10)p35 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2019年6月10日初版第1刷][田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.267、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。\n\n上記の鉄道も[[ジブチ・エチオピア鉄道]]として1894年に着工され、[[1902年]]には[[ディレ・ダワ]]までが開通し、[[1917年]]に[[アディスアベバ]]まで全通した[[[岡倉登志]]「コラム16 アジス・アベバ=ジブチ鉄道」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、363頁。]。オボック時代にはこの植民地はさほどの重要性を持たなかったが、鉄道建設と港湾整備によってジブチ港はエチオピアの海への窓口となり、植民地の重要性は高まった。\n\n[[1947年]]の時点でフランス領ソマリの総人口は96,100人であり、内24,500人が[[アファル人]]であった[[[岡倉登志]]「第49章 内戦回避のための独立――ジブチの独立とアファル人」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、352頁。]。[[1945年]]の[[第二次世界大戦]]終結後、「[[アフリカの年]]」こと[[1960年]]頃を境に、[[アフリカ]]諸国の[[独立]]が進んだが、フランス領ソマリでは独立を支持する[[ソマリ人|ソマリ系]]の[[イッサ人]]と、フランス領にとどまることを望むエチオピア系の[[アファル人]]の対立のために独立問題は進まず、[[フランスの海外県・海外領土|フランスの海外県]]に留まっていた。\n\n[[1967年]]には独立を問う住民投票が実施され、引き続きフランス領であることを選択した後、[[フランス領アファル・イッサ]]と改称された[[[岡倉登志]]「第49章 内戦回避のための独立――ジブチの独立とアファル人」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、352-354頁。]。その後、議会選挙でアファル人の進歩党が圧勝。また、イッサ人を基盤とする独立アフリカ人民同盟も勢力をのばし独立を要求した。1975年にはアファル人に有利だった市民権法が改正されイッサ人の政治参加が拡大した結果、[[1977年]]の住民投票においては独立派が多数を占め、同年6月27日にジブチ共和国は独立を宣言した[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.267、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。\n\n=== 独立 ===\nジブチの初代大統領にはイッサ人出身の[[ハッサン・グレド・アプティドン]]が就任した。グレド大統領は首相には必ずアファル人を任命したものの、与党・進歩人民連合の[[一党独裁]]制を敷き、多数派であるイッサ人の優位は続いたため民族対立はおさまらず、[[1991年]]には北部でアファル人の統一民主回復戦線 (FRUD)が蜂起し、{{仮リンク|ジブチ内戦|en|Djiboutian Civil War}}が勃発した[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.268、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。この内戦は主にアファル人の多い北部で戦われたが、経済の要であるジブチ港への影響はほとんどなかった[「ビジュアル データ・アトラス」p395 同朋舎出版 1995年4月26日初版第1刷]。グレド大統領は脱部族政策を打ち出すとともに[[複数政党制]]と大統領の直接選挙制を導入したものの、野党各党がボイコットを行ったため進歩人民連合の全議席独占は変わらなかった[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.267、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。野党の非難の中グレドは[[1993年]]に4選され、1994年には統一民主回復戦線の穏健派と政府の和平が実現して両党連立政権が発足した[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p279 二宮書店 平成28年1月10日発行]。\n\nその後、グレド大統領の後継である[[イスマイル・オマル・ゲレ]]が[[1999年]]に大統領に当選、統一民主回復戦線急進派との和平も[[2001年]]に成立して内戦が終結した[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p280 二宮書店 平成28年1月10日発行]。ゲレ自身は安定した長期政権を築き、[[2005年]]の大統領選では唯一の候補として100%の支持で再選され、強権的な政治手法も用いており、[[欧米]]と[[日本]]や[[中国]]から軍事的な保護を受けるも[[人権]]団体などから[[独裁者]]と非難されている[\"The world's enduring dictators\". CBS News. May 16, 2011.]。2016年の大統領選でゲレは4選された[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/djibouti/data.html 「ジブチ基礎データ」日本国外務省 令和元年7月8日 2019年10月6日閲覧]。\n\n国境を巡って隣国[[エリトリア]]と対立しており、1990年には二度の軍事衝突が起きている。停戦が成立したが、国境線を巡る緊張は続いた。2008年[[6月10日]]、{{仮リンク|ジブチ・エリトリア国境紛争|en|Djiboutian–Eritrean border conflict}}で再び両軍の間で戦闘が起きた。ジブチ政府はエリトリアが再び国境線に軍を増強しているとして非難し、国際社会の介入を求めた。\n\n== 政治 ==\n\nジブチは[[共和制]]、[[大統領制]]をとる[[立憲主義|立憲]]国家である。現行[[憲法]]は[[1992年]][[9月4日]]に制定されたもの。\n\n[[元首|国家元首]]である[[大統領]]は、[[国民]]の直接選挙により選出され、かつては任期は6年で3選が禁止されていたが、2010年に大統領の任期を5年に短縮する代わりに再選制限が撤廃された。[[首相]]と[[閣僚]]は大統領が任命する。\n\n{{See also|ジブチの大統領一覧|ジブチの首相一覧}}\n\n[[国民議会 (ジブチ)|議会]]は[[一院制]]で、定数65議席。議員は国民の直接選挙で選出され、任期は5年である。\n\nジブチは[[1992年]]の新憲法制定以来、[[複数政党制]]を導入しているが、2013年の選挙までは[[進歩人民連合]] (RPP)を中心とする与党連合が全議席を独占し、事実上の一党支配が続いていた。同年の選挙で初の与野党対決が実現し、進歩人民連合を中心とし、[[統一民主回復戦線]] (FRUD)や[[国民民主党 (ジブチ)|国民民主党]] (PND)などを含む大統領多数連合が55議席を獲得、[[民主共和同盟]] (ARD)や[[民主改革開発運動]] (MRDD) などを中心とする野党連合である国民解放連合が9議席を獲得した。2018年の選挙では、大統領多数連合が57議席、野党連合が7議席を獲得した[http://archive.ipu.org/parline-f/reports/1089.htm 2019年10月6日閲覧]。\n\n{{See also|ジブチの政党一覧}}\n\n最高[[司法]]機関は[[最高裁判所]]である。\n\n== 地方行政区分 ==\n[[ファイル:Map of Djibouti in Japanese.png|thumb|ジブチの地図。]]\n{{Main|ジブチの地方行政区画}}\n\nジブチは、5つの州と1つの市に分かれている。そして、さらに15の地区に区分される。\n\n* [[ジブチ市]]\n* [[アリ・サビエ州]]\n* [[アルタ州]]\n* [[ディキル州]]\n* [[オボック州]]\n* [[タジュラ州]]\n\n=== 主要都市 ===\n{{Main|ジブチの都市の一覧}}\n主要な都市は[[ジブチ市]](首都)、[[アリ・サビエ]]、[[タジュラ]]がある。ジブチ市は総人口90万人の国家で52万人(2014年)の人口を抱え、国内では突出した大都市となっている[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p279 二宮書店 平成28年1月10日発行]。\n\n== 地理 ==\n[[File:Satellite image of Djibouti in November 2001.jpg|thumb|ジブチの衛星写真。]]\n[[File:DjiboutiLacAssal2.jpg|300px|thumb|[[アッサル湖]]近くを行く[[ラクダ]]の列。湖で採れる塩は古代から貴重な資源である。]]\n{{Main|ジブチの地理}}\n狭義のアフリカ[[大地溝帯]]の北端に位置する。[[アデン湾]]に望み、海沿いは平野が広がり、西部には高原が広がる。最高地点は北部のエリトリアおよびエチオピアとの国境三重会合点に位置する[[ムーサ・アリ山]] (標高2028m) である。最低地点は[[アッサル湖]]の標高マイナス170mで、アフリカで最も低い。国土の全域が[[乾燥帯]]気候であり、沿岸部や内陸低地は[[砂漠気候]]、山岳地帯は[[ステップ気候]]となっている。年間降水量は130mm程度しかないが、一方で特に沿岸部において湿度は非常に高くなっている[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.265、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。\n\n国土のかなりの部分は岩石砂漠であるが、中央部には大バラ砂漠と呼ばれる土[[砂漠]]が存在する[「ジブティの砂漠緑化100景――もうひとつのアフリカガイド」p16 東京農大沙漠に緑を育てる会編 東京農業大学出版会 2000年5月18日第1版第1刷]。地表の流水はほぼ存在せず、植生は基本的に[[ワジ]]の周辺やわずかな[[オアシス]]などに限られるが、タジュラ市の北の標高1,500mほどの地帯には[[ダイの森]](Forêt de Day)と呼ばれる[[森林]]地帯が[「ジブティの砂漠緑化100景――もうひとつのアフリカガイド」p24 東京農大沙漠に緑を育てる会編 東京農業大学出版会 2000年5月18日第1版第1刷]、[[タジュラ湾]]沿いの海岸には[[マングローブ]]林が存在する[「ジブティの砂漠緑化100景――もうひとつのアフリカガイド」p45 東京農大沙漠に緑を育てる会編 東京農業大学出版会 2000年5月18日第1版第1刷]。[[1991年]]11月から[[東京農業大学]]が[[ジブチ農業省]]と共にジブチ国内で[[砂漠緑化]]事業を行っていた[[[#東京農大 砂漠に緑を育てる会(2000)|東京農大 砂漠に緑を育てる会(2000:2-3)]]]。[[塩湖]]としては国土中央部のアッサル湖のほかに、国土の西南端には[[アッベ湖]]が存在する。周辺のアファル人は[[キャラバン]]を組んでこれらの塩湖から採取される[[塩]]を交易し、貴重な現金収入を得ていた[[[岡倉登志]]「コラム1 アファル人の塩の隊商」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、34-35頁。]。\n\n== 経済 ==\n[[File:Djibouti Ville.jpg|thumb|250px|首都[[ジブチ市]]]]\n\n[[国際通貨基金|IMF]]の推計によると、[[2013年]]のジブチの[[国内総生産|GDP]]は14億5千万ドルである。一人当たりのGDPは1,593ドルで世界平均の約15%に留まるが、隣接する[[エチオピア]]や[[エリトリア]]が500ドル台なのと比べると高い水準にある。通貨の[[ジブチ・フラン]]は[[アメリカ合衆国ドル]]と完全[[固定相場制]]を取っており、また外貨規制が存在せず交換が自由であることはジブチ経済の強みの一つとなっている[http://djiboutiembassy.jp/djibouti-info/ 「ジブチについて」駐日ジブチ共和国大使館 2019年10月6日閲覧]。\n\n=== 貿易 ===\nジブチは、[[ジブチ港]]の貿易と[[ジブチ・エチオピア鉄道]]の収益に依存する典型的な[[中継貿易]]国家である。ジブチ港はエチオピアの海上貿易のほとんどを担っている。かつてエリトリアがエチオピア領だった時代は同国内の[[アッサブ]]港が貿易港として開発されたためジブチの重要性はやや減じていたが、それでも1991年の時点でエチオピアの輸出の50%、輸入の25%はジブチを経由していた[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.266、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。さらに1998年に勃発した[[エチオピア・エリトリア国境紛争]]によって両国の国交は断絶し、再びジブチ港の重要性は高まった。エチオピア貿易以外でも、紅海の入り口に存在する要衝であるため港湾サービスの需要は大きい。長年[[自由港]]として機能しており、2006年以降は湾岸諸国や中国からの多額の投資が流入した[http://djiboutiembassy.jp/djibouti-info/ 「ジブチについて」駐日ジブチ共和国大使館 2019年10月6日閲覧]。2010年代に入ってから中国の経済的進出が著しく、2016年には老朽化が進んでいたジブチ・エチオピア鉄道が電化の上[[アディスアベバ・ジブチ鉄道]]として開業し[https://www.afpbb.com/articles/-/3103487「エチオピアにアフリカ初の電気鉄道が開通、中国が出資・建設」AFPBB 2016年10月6日 2019年10月7日閲覧]、2018年にはアフリカ最大の自由貿易区である{{仮リンク|ジブチ国際自由貿易区|en|Djibouti Ports & Free Zones Authority#International Free Trade Zone}}が一部完成した[https://www.afpbb.com/articles/-/3181478?cx_part=search 「ジブチに「アフリカ最大」の自由貿易区が一部完成、翻る中国国旗」AFPBB 2018年7月6日 2019年10月7日閲覧]。\n\n=== 軍事基地 ===\nその他、建国以前からフランス軍が大規模な基地を置いており、この駐留による利益も経済の大きな部分を占めている[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.269、朝倉書店 ISBN 4254166621 ][「東部・南部アフリカ」(ベラン世界地理体系10)p36 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2019年6月10日初版第1刷]。要衝にあり、インフラがある程度整っている上に政治的にも周辺諸国に比べれば比較的安定しているために、周辺で国際的な軍事介入が必要となった場合の拠点として使用されることが多く、1991年の[[湾岸戦争]]や1992年-1995年の[[国連ソマリア活動]]などでは輸送拠点となった[「ビジュアル データ・アトラス」p395 同朋舎出版 1995年4月26日初版第1刷]。[[ソマリア沖の海賊]]が活発化すると、フランス以外の国家も続々とジブチに基地を設け、その利用料収入もジブチ経済にとって重要なものとなった[https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44406 「米国が危機感、アフリカの小国に中国が軍事基地設置」JPpress 北村淳 2015.7.30 2019年10月7日閲覧]。\n\n=== その他産業 ===\n[[第一次産業]]の従事者は多いものの、自然環境の厳しさなどの要因から、農業は未発達で食料自給率は極めて低い。農業人口は約12万人、国民の25%程を占めるものの、可耕地面積は国土の0.5%に当たる100,60ヘクタールほどであり、食料自給率も約3%しかない[[[#高橋(2000)|高橋(2000:32-33)]]]。鉱業はほぼ存在せず、わずかにアッサル湖などの塩湖やタジュラ湾で生産される塩と、わずかな[[石灰]]が存在するのみである[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.270、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。2013年度の輸出は1.2億ドル、輸入は5.6億ドルであり、貿易相手国としては輸出はエチオピアが最も大きく総輸出の35%を占め、フランスの20%が続く。輸入はフランスが30%を占め、アラブ首長国連邦が18%で続く[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p280 二宮書店 平成28年1月10日発行]。\n\n== 交通 ==\n交易立国であるジブチにおいて、[[ジブチ港]]はまさしく国の基礎であり、多額の投資が行われ整備されている[https://www.phaj.or.jp/distribution/lib/world_watching/Africa/Africa008b.pdf 「world watching 110 紅海地域のロジスティクス拠点を目指すジブチ港」井上聰史「港湾」2009年7月号 2019年10月7日閲覧]。2017年にはジブチ港の10km西側に新港区であるドラレ多目的港が開港した[http://djiboutiembassy.jp/2017/06/inauguration-of-modern-multipurpose-port/ 「現代式の多目的港の開業」2017/06/28 駐日ジブチ共和国大使館 2019年10月7日閲覧]。\n\n大規模な港湾に比べ、陸上交通は整備が進んでいない。主要貿易相手国であるエチオピアとの間には国道と鉄道が1本ずつ走っている。主要ルートとなっている国道はジブチ市から南西に走り、ムールドで北西へと向きを変えてガラフィでエチオピアへと抜けるが、整備されたエチオピア国内の道路と異なりジブチ国内の国道は荒れた状態となっており、アディスアベバ・ジブチ間の所要時間は20時間程度となっている[http://www.jpmac.or.jp/img/research/pdf/B201940.pdf 「アフリカの角における港湾選択と政治状況」松田琢磨 日刊CARGO 201902 2019年10月7日閲覧]。これに対し鉄道は、1902年に開通したジブチ・エチオピア鉄道がジブチ市からまっすぐ南西に、アリ・サビエを通ってデウェレでエチオピアへと抜けており、長らくメインの輸送ルートとなっていたものの老朽化が進んで道路輸送がメインとなっていた[[[岡倉登志]]「コラム16 アジス・アベバ=ジブチ鉄道」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、365頁。]。これを改善するため、2016年には完全電化のアディスアベバ・ジブチ鉄道が開業し、両国首都間の所要時間は8時間にまで短縮された[http://www.jpmac.or.jp/img/research/pdf/B201940.pdf 「アフリカの角における港湾選択と政治状況」松田琢磨 日刊CARGO 201902 2019年10月7日閲覧]。\n\n航空に関しては、ジブチ市の[[ジブチ国際空港]]から周辺諸国に航空便が発着しているほか、[[オボック空港]]など地方都市にいくつかの小規模な空港が存在する。\n\n== 軍事 ==\n{{main|ジブチの軍事}}\n現在も[[フランス軍]]が駐留している[陸海空軍は部隊として駐留、ジャンダルムリ(Gendarmerie)は連絡要員を置く。]。ジブチ港に[[フランス海軍]]基地を設けるとともに、[[フランス陸軍]]は、[[第5海外混成連隊 (フランス軍)|第5海外混成連隊]]1個[[連隊]]を派遣し、[[フランス空軍]]は[[ミラージュ2000]][[戦闘機]]及び、ごく少数の輸送機・ヘリコプターを派遣することによりジブチの防空任務を行っている。\n{{main|ジブチ駐留フランス軍}}\n\n[[対テロ戦争]]の一環として、[[ドイツ]]の[[シュトゥットガルト]]に司令部を持つアメリカ地域[[統合軍 (アメリカ軍)|統合軍]]である[[アメリカアフリカ軍]]隷下の[[CJTF HOA]]([[:en:Combined Joint Task Force - Horn of Africa|アフリカの角共同統合任務部隊 (Combined Joint Task Force - Horn of Africa)]])\nの司令部及び隷下の各部隊が駐留しており、これはアフリカで唯一の恒久的な米軍基地である。また、[[第150合同任務部隊]]の拠点の一つになっている。\n\nこのほか[[イタリア軍]]も基地を設けている[{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASK896WZMK89UHBI03L.html|title=中国基地 世界にらむ/東アフリカ・ジブチ|work=|publisher=『[[朝日新聞]]』朝刊|date=2017年8月15日}}]。\n\n=== 海賊問題と日中の海外基地 ===\n近年、ソマリア沖・アデン湾で急増・多発している「[[ソマリア沖の海賊]]」問題は国際社会にとって重大な脅威となっている。海賊行為の対処のための活動では、日本の[[自衛隊]]も「[[海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律]]」に基づき、2017年2月時点で[[P-3|P-3C]]哨戒機2機と隊員約170人が派遣されている。当初は米軍、[[アタランタ作戦|欧州連合(EU)部隊]]の協力を得て活動していたが、2011年7月7日、自衛隊の海外拠点がジブチ国際空港近くに開設された。自衛隊にとっては事実上初の海外[[基地]]となる。この拠点は海賊対策のほか、ジブチ軍駐屯地に出向いての兵士への道路整備[[建設機械|重機]]の操作指導などアフリカ諸国との軍事交流にも使われている。警備強化のため2017年度、施設敷地は15haと3ha拡張される計画である[\n{{Cite news|url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/kakushin/list/CK2017020902000130.html\n |title=【核心】海賊激減なのに拡張 ジブチの自衛隊「海外基地」\n |work=|publisher=[[東京新聞]]\n |date=2017-02-09}}]。\n\n[[2015年]]1月18日、現地を訪問した[[防衛大臣]]・[[中谷元]]が海賊対策だけでなくテロ対策など幅広い活動が出来るように法整備を進める考えを示した。\n\n[[2015年]]2月末には、これらの国際的な海賊対策を行う国連加盟国合同軍[[第151合同任務部隊]]の司令官として、日本人(海自)が着任する事が発表された。戦前の旧日本海軍時代を含めても日本国籍の人物が欧米諸国やアジア各国が参加する多国籍艦隊の指揮を任された事はほとんどなく、事実上史上初の日本人国際部隊司令官だといえる。\n\nかねてから[[セーシェル]]などアフリカに軍事拠点を設けることを検討し[\n{{Cite news|url=http://jp.wsj.com/public/page/0_0_WJPP_7000-360162.html\n |title=中国、セーシェルでの海軍プレゼンスを検討\n |work=|publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]\n |date=2011-12-14\n |accessdate=2018-08-21}}][\n{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1203X_S1A211C1FF1000/\n |title=中国海軍、インド洋に足場 セーシェルと協力\n |work=|publisher=[[日本経済新聞]]\n |date=2011-12-12\n |accessdate=2018-08-21}}]、国のシンボルである{{仮リンク|ジブチ人民宮殿|en|People's Palace, Djibouti City}}と大統領府[\n{{Cite news|url=https://idsa.in/issuebrief/port-de-djibouti-chinas-first-permanent-naval-base-in-the-indian-ocean_msingh_220216\n |title=Port de Djibouti: China’s First Permanent Naval Base in the Indian Ocean\n |work=|publisher=idsa\n |date=2016-02-22\n |accessdate=2018-07-24}}][\n{{cite web |url=http://www.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/1038215.pdf\n |title=China’s Military Support Facility in Djibouti: The Economic and Security Dimensions of China’s First Overseas Base\n |format=PDF\n |accessdate=2018-07-24}}]などを建設してジブチと強い関係を構築してきた[[中華人民共和国]]も海賊対策([[中華人民共和国のソマリア沖海賊対策]])やアフリカにおける[[国際連合平和維持活動|PKO]]の補給・休息を理由として、ジブチに[[中国人民解放軍]]初の海外基地を開設した[\n{{Cite news|url=http://thediplomat.com/2017/07/china-officially-sets-up-its-first-overseas-base-in-djibouti/\n |title=China Officially Sets Up Its First Overseas Base in Djibouti\n |work=|publisher=The Diplomat\n |date=2017-07-12}}]。この「[[ジブチ保障基地]]」開設を宣言した2017年7月11日に、駐留部隊を載せた[[071型揚陸艦|揚陸艦「井崗山」]]と[[半潜水艇]]「東海島」の2隻が[[湛江|広東省湛江]]を出港。8月1日にジブチ国防相らを招いて進駐式を開いた[\n{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/DA3S13067282.html\n |title=中国、初の国外軍事拠点/ジブチ、PKOなど後方支援\n |work=|publisher=『[[朝日新聞]]』朝刊\n |date=2017年8月2日}}]。中国の基地は約36haと自衛隊より広く、高さ10m程度の[[塀]]や監視塔で防備されている[\n{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASK896WZMK89UHBI03L.html\n |title=中国基地 世界にらむ/東アフリカ・ジブチ\n |work=|publisher=『[[朝日新聞]]』朝刊\n |date=2017年8月15日}}]。基地に隣接する[[ドラレ港]]では中国企業が開発に携わっており[\n{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/world/35117518.html\n |title=変化する中国の国防戦略<上> 財政支援通じてアフリカに進出\n |work=|publisher=[[CNN]]\n |date=2018-04-29\n |accessdate=2018-08-29}}]、同港の親会社の株式は[[招商局集団]]が所有することから隣接する基地と同様の中国の対アフリカ戦略を担ってるとする見方もある[\n{{Cite news|url=https://www.sankei.com/world/news/180111/wor1801110014-n5.html\n |title=人民解放軍、ジブチに拠点 隠された思惑に気付かず中国の“浸入”を許す四国の1・3倍程度の小国\n |work=|publisher=[[産経ニュース]]\n |date=2018-01-11\n |accessdate=2019-01-07}}]。\n\n中国と日本もアメリカと同様に基地を恒久化している[\n{{Cite news|url=https://jp.sputniknews.com/opinion/201810225488620/\n |title=アフリカの自衛隊拠点恒久化海賊対策、対中、独立への試み?\n |work=|publisher=Sputnik\n |date=2018-10-22\n |accessdate=2019-02-23}}]。\n\n== 国際関係 ==\n=== 日本との関係 ===\n*在留日本人数 - 32人(2018年1月現在)[[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/djibouti/data.html#section6 外務省 ジブチ基礎データ]]\n*在日ジブチ人数 - 11人(2017年6月現在)[[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/djibouti/data.html#section6 外務省 ジブチ基礎データ]]\n\n== 国民 ==\n=== 民族 ===\n{{bar box\n|title=民族構成(ジブチ) \n|titlebar=#ddd\n|float=right\n|bars=\n{{bar percent|[[イッサ人]]([[ソマリ人]])|orange|60}}\n{{bar percent|[[アファル人]](エチオピア系)|blue|35}}\n{{bar percent|その他|black|5}}\n}}\n\n構成民族は、[[ソマリ人]]系の[[イッサ人]]が60%、エチオピア系の[[アファル人]]が35%であり、[[フランス人]]、[[アラブ人]]、[[イタリア人]]やアファル人以外のエチオピアの民族など、その他が5%となっている[。イッサ人はジブチ市をはじめとする南部に、アファル人はタジュラ市をはじめとする北部に主に居住する][「東部・南部アフリカ」(ベラン世界地理体系10)p35 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2019年6月10日初版第1刷]。イッサ人とアファル人の対立から、[[1990年代]]に内戦が起こった。\n\n=== 宗教 ===\n人口の94%が[[ムスリム]]([[イスラム教]])、6%が[[キリスト教]]となっている[。\n\n=== 言語 ===\n[[フランス語]]と[[アラビア語]]が[[公用語]]であるが、現地住民の間においては[[ソマリ語]]と[[アファル語]]が、それぞれ広く使われている][http://djiboutiembassy.jp/djibouti-info/ 「ジブチについて」駐日ジブチ共和国大使館 2019年10月7日閲覧]。\n\n=== 教育 ===\n{{main|{{仮リンク|ジブチの教育|en|Education in Djibouti}}}}\n2003年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は67.9%(男性:78%、女性:58.4%)である[[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/dj.html CIA World Factbook \"Djibouti\"]2013年7月3日閲覧。]。2007年の教育支出はGDPの8.4%だった[。[[2007年]]のジブチの[[就学率]]は男性が29.0パーセント、女性が21.9パーセントと世界的に見ても低い水準である][[http://hdrstats.undp.org/en/countries/data_sheets/cty_ds_DJI.html 国連開発計画・人間開発報告書2009年版]{{en icon}},2009-11-14閲覧。]。2016年の就学率は男女とも約80%である[https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/07africa/infoC72200.html 「諸外国・地域の学校情報 ジブチ」日本国外務省 平成28年12月 2019年10月7日閲覧]。教育制度は小学校5年・中学校4年・高校が3年または4年・大学が4年であり、義務教育は小学・中学校の9年間である[https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/07africa/infoC72200.html 「諸外国・地域の学校情報 ジブチ」日本国外務省 平成28年12月 2019年10月7日閲覧]。\n\nまた、[[高等教育]]機関は近年まで存在していなかったが、[[2006年]]に[[ジブチ大学]]が開学した[http://djiboutiembassy.jp/djibouti-info/ 「ジブチについて」駐日ジブチ共和国大使館 2019年10月7日閲覧]。\n\n== 文化 ==\n[[File:A Somali man.jpeg|thumb|180px|伝統的な帽子を被った[[ソマリ人]]の男性。]]\nソマリア系のイッサ人やエチオピア系のアファル人等各民族にそれぞれ独自の文化や習慣がある。\n\n[[カート (植物)|カット]]を噛む習慣がある[[[#東京農大 砂漠に緑を育てる会(2000)|東京農大 砂漠に緑を育てる会(2000:68)]]]。\n\n=== 食文化 ===\n街のレストランでは[[フランスパン]]が出される[[[#東京農大 砂漠に緑を育てる会(2000)|東京農大 砂漠に緑を育てる会(2000:69)]]]。食料自給率が低いため、農産物や青果のほとんどをエチオピアやソマリアから輸入している[[[#東京農大 砂漠に緑を育てる会(2000)|東京農大 砂漠に緑を育てる会(2000:66)]]]。\n\n=== 祝祭日 ===\n{| class=\"wikitable\"\n|+ 西暦に基づく祝祭日\n!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考\n|-\n|1月1日 || [[元日]] || ||\n|-\n|5月1日 || [[メーデー]] || Fête du Travail ||\n|-\n|6月27日 || [[独立記念日]] || Fête de l'Indépendance ||\n|}\n{| class=\"wikitable\"\n|+ [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]に基づく祝祭日\n!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考\n|-\n|[[ムハッラム]]1日||ヒジュラ暦新年|| ||\n|-\n|ラビーウ=ル=アウワル12日||[[ムハンマド]]生誕祭|| ||\n|-\n|ラジャブ27日||ムハンマド昇天祭|| ||\n|-\n|シャウワール1日|| [[イード・アル=フィトル|断食明けの祭り]] || ||\n|-\n|ズー=ル=ヒッジャ10日|| [[イード・アル=アドハー|犠牲祭]] || ||\n|}\n\n官公庁はこれらの祝日のほか毎週金曜日が休日となる[[http://www.jica.go.jp/seikatsu/pdf/Africa/Djibouti-p.pdf JICA基本情報](PDF),2009-06-28閲覧。]。\n\n== 著名な出身者 ==\n* [[アーメド・サラ]] - 男子[[マラソン]]選手\n* [[アヤンレ・スレイマン]] - 男子[[中距離走]]選手\n\n== 脚注 ==\n{{脚注ヘルプ}}\n{{Reflist|2}}\n\n== 参考文献 ==\n* {{Cite book|和書|author=[[岡倉登志]] |translator= |editor=岡倉登志編著 |others= |chapter=第49章 内戦回避のための独立――ジブチの独立とアファル人 |title=エチオピアを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ68 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版第1刷 |date=2007-12-25 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn= 9784750326825 |volume= |page= |pages=351-356 |url= |ref=岡倉(2007)}}\n* {{Cite book|和書|author=[[高橋悟]] |translator= |editor= |others= |chapter= |title=砂漠よ緑に甦れ――ジブティ共和国十年の熱き戦い |series= |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版 |date=2000-05-18 |publisher=[[東京農業大学出版会]] |location= |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |ref=高橋(2000)}}\n* {{Cite book|和書|author=東京農大 砂漠に緑を育てる会編 |translator= |editor= |others= |chapter= |title=ジブティの砂漠緑化100景――もうひとつのアフリカガイド |series= |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=第2版 |date=2000-11-01 |publisher=[[東京農業大学出版会]] |location= |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |ref=東京農大 砂漠に緑を育てる会(2000)}}\n* {{Cite book|和書|author=[[吉田昌夫]] |translator= |editor= |others= |chapter= |title=アフリカ現代史II──東アフリカ |series=世界現代史14 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=2版1刷発行 |date=1990-02-10 |publisher=[[山川出版社]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-634-42140-2 |volume= |page= |pages= |url= |ref=吉田(1990)}}\n\n== 関連項目 ==\n{{Commons&cat|Djibouti|Djibouti}}\n* [[ジブチ関係記事の一覧]]\n* [[ジブチの通信]]\n* [[ジブチの交通]]\n* [[日本とジブチの関係]]\n** [[刈谷市]] - フレンドシップ相手国に指定されている\n\n== 外部リンク ==\n* 政府\n** [http://www.spp.dj/ ジブチ共和国大統領府] {{fr icon}}\n** [http://www.djiboutiembassy.jp/ 駐日ジブチ大使館] {{ja icon}}\n* 日本政府\n** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/djibouti/ 日本外務省 ジブチ] {{ja icon}}\n\n{{アフリカ}}\n{{OIC}}\n{{OIF}}\n{{Country-stub}}\n{{DJI-stub}}\n{{DEFAULTSORT:しふち}}\n[[Category:ジブチ|*]]\n[[Category:共和国]]\n[[Category:フランコフォニー加盟国]]"}
+{"title": "コモロ", "text": "{{Otheruseslist|主権国家|マヨット島を含めた地理的なコモロ諸島|コモロ諸島|日本の地名|小諸市}}\n{{基礎情報 国\n | 略名 =コモロ\n | 日本語国名 =コモロ連合\n | 公式国名 ='''{{Lang|fr|Union des Comores}}'''(フランス語)
'''{{Lang|zd|Udzima wa Komori}}'''(コモロ語)
'''{{Lang|ar|الاتحاد القمر}}'''(アラビア語)\n | 国旗画像 =Flag_of_the Comoros.svg\n | 国章画像 =[[ファイル:Coat_of_arms_of_Comoros.svg|100px|コモロの国章]]\n | 国章リンク =([[コモロの国章|国章]])\n | 標語 =''{{Lang|fr|Unité - Justice - Progrès}}''
([[フランス語]]: 統一、正義、進歩)\n | 位置画像 =Comoros (orthographic projection).svg\n | 公用語 =[[コモロ語]]、[[アラビア語]]、[[フランス語]]\n | 首都 =[[モロニ]]\n | 最大都市 =モロニ\n | 元首等肩書 =[[コモロの大統領|大統領]]\n | 元首等氏名 =[[アザリ・アスマニ]]\n | 首相等肩書 ={{仮リンク|コモロの副大統領|label=副大統領|en|Vice President of the Comoros}}\n | 首相等氏名 ={{ill2|ムスタドラネ・アブドゥ|en|Moustadroine Abdou}}\n | 面積順位 =169\n | 面積大きさ =1 E9\n | 面積値 =2,170\n | 水面積率 =極僅か\n | 人口統計年 =2008\n | 人口順位 =164\n | 人口大きさ =1 E5\n | 人口値 =676,000\n | 人口密度値 =300\n | GDP統計年元 =2008\n | GDP値元 =1,780億[IMF Data and Statistics 2009年7月19日閲覧([http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=72&pr.y=14&sy=2008&ey=2008&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=632&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=])]\n | GDP統計年MER =2008\n | GDP順位MER =173\n | GDP値MER =5億\n | GDP統計年 =2008\n | GDP順位 =175\n | GDP値 =7億\n | GDP/人 =1,154\n | 建国形態 =[[独立]]
- 宣言
- 承認\n | 建国年月日 =[[フランス]]より
[[1975年]][[7月6日]]
1975年\n | 通貨 =[[コモロ・フラン]]\n | 通貨コード =KMF\n | 時間帯 =(+3)\n | 夏時間 =なし\n | 国歌名 =Udzima wa ya Masiwa\n | ISO 3166-1 = KM / COM\n | ccTLD =[[.km]]\n | 国際電話番号 =269\n | 注記 =\n}}\n'''コモロ連合'''(コモロれんごう、{{lang|fr|Union des Comores}})、通称'''コモロ'''は、[[インド洋]]の[[コモロ諸島]]の[[グランドコモロ島]](ンジャジジャ島)、[[アンジュアン島]](ヌズワニ島)、[[モヘリ島]](ムワリ島)で構成される[[国家]]。コモロ政府はフランス領[[マヨット|マヨット島]](マオレ島)の領有権も主張している。海を隔てて西には[[モザンビーク]]があり、東南には[[マダガスカル]]がある。首都である[[モロニ]]は[[グランドコモロ島]](ンジャジジャ島)に位置している。\n\n[[1975年]]7月6日、[[フランス]]から独立したものの頻繁に[[クーデター]]が発生し現在においても世界最貧国の1つであり、度重なる政治危機から経済発展が進んでいない。近海ではたびたび[[シーラカンス]]が捕獲される。\n\n== 国名 ==\n正式名称はフランス語で {{lang|fr|Union des Comores}}。通称 {{lang|fr|Comores}}(コモール)。\n\nアラビア語で {{lang|ar|الاتحاد القمري}}。公式の英語表記は {{lang|en|Union of the Comoros}}。通称 {{lang|en|Comoros}}(コモロズ)。\n\n日本語の表記は'''コモロ連合'''。通称'''コモロ'''。\n\nコモロはアラビア語の {{lang|ar|قمر}}(カマル、月という意味)のなまったものである。\n\n[[1975年]]から[[1978年]]までは、'''コモロ共和国''' ({{lang|fr|République des Comores}})、1978年から[[2001年]]までは、'''コモロ・イスラム連邦共和国''' ({{lang|fr|République fédérale islamique des Comores}}) という国名だった。\n[[画像:Seal of the Comoros (1975-1978).svg|thumb|180px|1975から1978年までの国章]]\n\n== 歴史 ==\n=== 独立前 ===\nコモロに初めてやってきた人々については諸説あるが、おそらく[[マレー人]][田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.197、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]または[[バントゥー系]]民族[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著、花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社、2001年8月10日、ISBN 978-4560058428 p29]と考えられている。6世紀頃にはマレー系の居住が確認されており、[[バナナ]]や[[ココヤシ]]、[[カヌー]]など多くの文化をコモロにもたらした[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著、花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社、2001年8月10日、ISBN 978-4560058428 p30]。その後、[[10世紀]]ごろからは[[アラブ人]]が移住しイスラム化が進むとともに、[[ザンジバル]]島やケニア海岸と同じ[[スワヒリ]]文化が栄えた。[[1500年]]にはポルトガル人がこの島に上陸したもののすぐに姿を消した[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著、花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社、2001年8月10日、ISBN 978-4560058428 p33]。\n\n[[17世紀]]に入ると複数のイスラム系の小国家が興ったが、18世紀後半にはマダガスカルの海賊の襲撃を度々受けた[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著、花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社、2001年8月10日、ISBN 978-4560058428 p39]。[[1841年]]には[[フランス]]が[[マホレ島]]を占領し、その後フランスは近隣諸島に影響を強めていき、[[1886年]]にはフランスが全コモロ諸島を[[保護領]]化した[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.198、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。\n\n1952年には議会が置かれ、徐々に権限を拡大していった[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著、花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社、2001年8月10日、ISBN 978-4560058428 p55-56]。1958年にはそれまでマヨット島の[[ザウジ]]に置かれていた首都をグランドコモロ島のモロニに移転することが議決され、1960年には遷都が開始されたが、この過程で遷都に反対するマヨット島はほかの三島に対する反発を強め、対立が激化していった[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著、花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社、2001年8月10日、ISBN 978-4560058428 p81-82]。1960年代後半からはコモロでも自治拡大および独立運動が盛んになってきたが、マヨットでは他島に対する反発からフランス帰属が支持を得るようになっていった。1974年には独立に対する[[国民投票]]が実施され、3島では独立賛成派が多数を占めたものの、マヨットではフランス領残留派が勝利した[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著、花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社、2001年8月10日、ISBN 978-4560058428 p62]。この結果を受け、フランスはコモロの独立を了承したものの、各島でコモロ新憲法に対する投票を行うよう決定した[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.198、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。\n\n=== 独立と傭兵の跳梁 ===\nしかし3島側はこの決議を受け入れず、[[1975年]][[7月6日]]には 「'''コモロ国'''」としてフランスから一方的に独立を宣言し、[[アーメド・アブダラ]]が大統領に就任した。コモロ政府側はマヨット島も新国家に含まれるものとして宣言を行ったものの、マヨット側はこれを受けて直ちにフランス残留を宣言し、この時点で分裂は決定的なものとなった[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著、花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社、2001年8月10日、ISBN 978-4560058428 p63]。[[国際連合]]はコモロ側の主張を支持しフランスを非難したものの、翌1976年にはマヨットは住民投票を行い、改めてフランス残留を決定した[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.198、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。\n\n一方、独立したコモロ政府はすぐに政治的動乱に見舞われた。独立して1ヶ月もたたない1975年8月3日に、[[社会主義者]]の[[アリ・ソイリ]]が[[クーデター]]を起こし、アブダラ政権を倒した[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.198、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。アブダラは地盤のアンジュアン島に逃れたものの、ソイリは白人傭兵[[ボブ・ディナール]]らを雇い入れてアブダラを追放し[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著、花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社、2001年8月10日、ISBN 978-4560058428 p115]、3島を完全に掌握した。ソイリ政権は急進的な改革路線を取り、旧弊の廃止や公務員の追放、政府の簡素化を行い、政治警察を組織して厳しい取り締まりを行った。この路線はすぐに破綻し、政治経済の停滞により社会的緊張は極度に高まった[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p106-114]。\n\n[[1978年]]、国外にいたアーメド・アブダラがボブ・ディナールを雇い入れ、クーデターでソイリ政権を崩壊させた。ソイリは殺害され、大統領に復帰したアブダラは新憲法を採択し、「'''コモロ・イスラム連邦共和国'''」に国号を変更した。アブダラ政権は[[一党独裁制]]を敷いて反対派を抑圧し、また経済も一層悪化したためクーデターが幾度も試みられたが、すべてディナールと傭兵たちによる大統領警護隊によって退けられた。しかしディナールらの専横は激しくなる一方で、アブダラは傭兵たちの排除を試みるようになった。この結果、[[1989年]]には大統領警護隊がアブダラ大統領を襲撃し、[[暗殺]]してしまった[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.198、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。\n\nこの傭兵たちのクーデターに対しフランスは軍事的な圧力をかけ、ディナールと傭兵らは国外へと出国し、翌1990年には大統領選挙が行われて最高裁判所長官の[[モハメド・ジョハル]]が大統領に就任した。ジョハル政権は[[1992年]]に新憲法を採択して[[複数政党制]]を導入したが、権力基盤は不安定でクーデター未遂がここでも数度発生し、政情不安は収まらなかった。この情勢を受け、追放されていたディナールが[[1995年]]に傭兵隊を率いて再び侵攻し、ジョハルを拘束して権力を握ったものの、即座にフランスが軍事介入を行って傭兵隊を降伏させた。ジョハルは大統領に復帰したものの、同月レユニオンに療養に出かけた際に首相がクーデターを起こして暫定政権を樹立し、結局は追放された[片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、373ページ ISBN 4-7947-0523-9]。\n\n===分離運動と連合政府の成立===\n暫定政権はすぐに大統領選挙の実施に取りかかり、[[1996年]]には[[モハメド・タキ]]が選挙で勝利して大統領に就任した。しかしタキもまた経済問題を解決することができず、また出身であるグランドコモロ島優遇政策をとったため、[[1997年]]にはついにアンジュアン島及びモヘリ島が独立を宣言すると同時に、フランスに再植民地化を嘆願する状況となった[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p177-178]。これに対しタキはアンジュアン島に鎮圧軍を差し向けたものの敗北し、また全閣僚を解任して独裁を進めたが[片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、478ページ ISBN 4-7947-0523-9]、[[1998年]]に急死した。{{仮リンク|タジディン・マソウンデ|en|Tadjidine Ben Said Massounde|label=タジディン}}が大統領代理に就任したものの、翌[[1999年]]にはクーデターが勃発し、[[アザリ・アスマニ]]大佐が政権を掌握した[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p179-180]。\n\n[[2001年]]には[[フォンボニ協定]](コモロ和解に関するOAU枠組合意)の署名がおこなわれて新憲法が採択され、「'''コモロ連合'''」に国号が変更された。このとき、連合大統領は3島から輪番制で任命されることとなった。[[2002年]]の大統領選挙ではグランドコモロ島からアザリ大佐が当選し、[[2006年]]の大統領選挙ではアンジュアン島の[[アフメド・アブドラ・モハメド・サンビ]]が当選した[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/comoros/data.html 「コモロ基礎データ」日本国外務省 令和元年9月9日 2019年10月13日閲覧]。しかしアンジュアン島政府はコモロ当局に反発し、独自に自島の大統領選挙を実施したため中央政府との関係が悪化し、[[2008年]]にはアンジュアン島に[[アフリカ連合]]の部隊が武力介入して同島の支配権をコモロ政府に奪還した[https://www.afpbb.com/articles/-/2369618?cx_part=search 「コモロ連合軍とAUが合同でアンジュアン島に進攻」AFPBB 2008年3月25日 2019年10月13日閲覧]。これを受け、[[2009年]]には各島の自治権の縮小と連合政府の権限強化、サンビ大統領の任期1年延長を柱とする憲法改正が国民投票で承認された。[[2011年]]にはモヘリ島から[[イキリル・ドイニン]]大統領が選出され、[[2016年]]にはグランドコモロ島からアザリ・アスマニ大統領が就任。2018年には大統領再任許可を柱とする憲法改正が国民投票で承認され、2019年にはアザリ大統領が再選された[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/comoros/data.html 「コモロ基礎データ」日本国外務省 令和元年9月9日 2019年10月13日閲覧]。\n\n== 政治 ==\nコモロは[[共和制]]、[[大統領制]]、[[連邦|連邦制]]をとる立憲国家である。現行[[憲法]]は[[2001年]][[12月23日]]に制定([[2009年]][[5月]]に改正)されたもの。\n\n現行憲法の制定当初は連合を構成するグランドコモロ島、アンジュアン島、モヘリ島の3島には独自の自治政府と大統領がおり、ほぼ完全な内政自治権を与えられていた。その一方で連合政府は[[外交]]、[[国防]]、[[通貨]]政策など、連合全体にわたる事柄のみを処理する合議機関であり、相対的に権限は弱かった。しかし[[2009年]][[5月]]に実施された[[国民投票]]で憲法が改正され、各島自治政府の大統領は知事へと降格し、更に連合政府の権限が強化された。\n\n連合政府の[[コモロの大統領|大統領]]は[[元首|国家元首]]であり、3島から輪番制で選出される。任期は5年。[[内閣]]に相当する'''閣僚評議会'''のメンバーは大統領により任命される。かつては{{仮リンク|コモロの首相一覧|label=首相|en|List of heads of government of the Comoros}}職も存在したが、[[2002年]][[4月15日]]に廃止された。\n\n[[立法府]]は[[一院制]]で、正式名称は'''コモロ連合議会'''(AUC)。定数は33議席で、うち9名は各島の地方議会が3名ずつ選出する。AUC議員の任期は5年である[「コモロ連合」『世界年鑑2016』([[共同通信社]]、2016年)314頁。]。\n\nコモロは[[複数政党制]]が名実共に機能している。小党乱立の傾向があるが、各島の自治権維持による[[連邦主義]]を唱える[[自治諸島陣営]](CdIA)、連合政府の権限強化による[[中央集権]]を目指す[[コモロ再生会議]](CRC)の2党が有力である。その他には[[イスラム主義|イスラーム主義]]の[[正義国民戦線]](FNJ)なども存在する。\n\n司法府の最高機関は5名の裁判官から成る最高裁判所。最高裁判所裁判官は連合政府の大統領が2名、AUCが2名を任命し、残る1名は各島の地方議会とコモロの歴代大統領による合議で選ばれる。\n\n首都のモロニがあるグランドコモロ島の支配に反発し、[[1997年]]からアンジュアン島とモヘリ島で分離独立の動きがあったが、連邦再編と各島の自治権拡大を謳った新憲法が採択され、'''コモロ連合'''への国名改称とともに、現在では両島ともコモロに留まる意向を示している。しかし連合政府の権限強化を謳った[[2009年]]の憲法改正の際には、再び各島の間で対立が発生した。\n\n軍事については小規模な陸軍と警察を保有している。また、フランスと安全保障条約を締結しており、海上の防衛についてはフランスが行っており、小規模な部隊が駐屯している。長年フランス人傭兵の[[ボブ・ディナール]]が護衛隊長という職務を濫用して実権を握り、度重なるクーデターの根源と化していたが、1995年にフランス側が拘束したことによりその勢力は排除された。\n\n== 地方行政区分 ==\n[[ファイル:Cn-map.png|thumb|コモロの地理]]\n{{Main|コモロの行政区画}}\n[[File:Moroni Capital of the Comores Photo by Sascha Grabow.jpg|thumb|left|首都[[モロニ]]の浜辺]]\n\nコモロは事実上、アンジュアン島(ンズワニ島)、グランドコモロ島(ンジャジジャ島)、モヘリ島(ムワリ島)の3島により構成されており、それぞれの島に自治政府がある。コモロ政府はこの他に[[マヨット島]]も自国を構成する島の1つと主張しているが、実際にはマヨット島はフランスの[[海外県]]となっており、コモロの統治は及んでいない。[[2001年]]制定の連合憲法下では、連合を構成する3島には独自の自治政府と大統領が置かれ、それぞれが大幅な自治権を持っていた。しかし[[2009年]]の連合憲法改正に伴い、各島の自治権は縮小され、自治政府の大統領は知事へと改称された。\n{{Clearleft}}\n\n===主要都市===\n{{Main|コモロの都市の一覧}}\n最大の都市は首都で、グランドコモロ島の主都でもあるモロニである。これに次ぐ都市はアンジュアン島の主都である[[ムツァムドゥ]]と、モヘリ島の主都である[[フォンボニ]]である。\n\n== 地理・地質 ==\nコモロは、[[コモロ諸島]]における4つの主な島のうち3つで構成されている。残りの1つはフランス領の[[マヨット|マヨット島]]であるが、コモロ連合はこの島の領有権も主張している。諸島は[[インド洋]]西部にあり、[[アフリカ大陸|アフリカ]]と[[マダガスカル島]]の間にある。コモロ諸島はすべて火山島であり、なかでもグランドコモロ島の最高峰である[[カルタラ山]](Le Karthala。標高2,361m)は活火山である[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.196、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。カルタラ山は数十年に一度の噴火を繰り返しており、2005年にも噴煙を10km以上も噴き上げる大規模な噴火が起きた[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/monthly_report/2005y.pdf 「2005年12月 平成17年12月 地震・火山月報(防災編) - 気象庁」2019年10月18日閲覧]。\n\n3島の地形と植生はそれぞれ明確に異なる。グランドコモロ島は最も広く標高が高いが、活発な火山活動のため火山灰でできた土壌の透水性が非常に高く、降水量が多いにもかかわらず河川が一切存在しない。このため土壌浸食は抑えられているものの、水源はわずかな地下水に頼らざるを得ない[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p20-22]。アンジュアン島は起伏の激しい地形をしており、数多くの河川が存在するものの、高い人口圧によって高地の森林伐採と耕地化が進み、土壌浸食と水量減少が深刻な状態となっている[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p24-26]。モヘリ島は標高が最も低くなだらかな地形をしており、高地は森林に覆われており多くの河川が存在する[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p23-24]。\n\nコモロは全域が[[サバナ気候]](Aw)に属し、明確な[[雨季]]と[[乾季]]が存在する。5月から10月が乾季で[[冬]]に当たり、11月から4月が雨季で[[夏]]に当たる。降水量は地域により差があるものの基本的に非常に多く、年間降水量はモロニで約2800mmであり[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p272 二宮書店 平成28年1月10日発行]、カルタラ山の一部では8700mmにまで達する。気温は平均26℃で変動が小さい。日照時間は長いが湿度も高い[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p12-13]。\n\n== 経済 ==\n[[通貨]]は[[コモロ・フラン]]である。一人あたり[[国民所得]]はわずか760ドル(2017年)にすぎず[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/comoros/data.html 「コモロ基礎データ」日本国外務省 令和元年9月9日 2019年10月15日閲覧]、[[後発開発途上国]]の一つである。ほぼ[[農業]]しか産業がない状況にもかかわらず、人口密度は1㎢あたり344人(2015年)と非常に高く、しかも人口増加率も非常に高いため、人口過剰が深刻な問題となっている。政府は輸出産物の多様化や観光振興に取り組むが、外国からの援助および在外コモロ人からの送金に頼る状況である[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p272 二宮書店 平成28年1月10日発行]。\n\n農業は[[プランテン・バナナ]]、[[キャッサバ]]、[[豆]]類、[[パンノキ]]、[[タロイモ]]などを組み合わせた小規模の自給農業が主である[「東部・南部アフリカ」(ベラン世界地理体系10)p184 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2019年6月10日初版第1刷]。植民地時代はバンバオ植民地会社をはじめとするフランスの農園企業が島のかなりの土地を占有し[[プランテーション]]を経営していたが、独立前夜の1960年代以降こうした農園企業はほぼ撤退し、大農園も衰退の一途をたどった[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p130-131]。3島とも土地は非常に肥沃であるが、グランドコモロ島の農業用水不足やアンジュアン島の土壌流出、さらには農法の未発達などの問題を抱え、非常に生産性が低く食糧自給ができないため、[[コメ]]などの主要食糧を輸入している[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.202、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。中でもコメの輸入は2013年には総輸入の10.2%を占め、石油に次いで第2位の輸入品目となっており[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p272 二宮書店 平成28年1月10日発行]、経済をさらに圧迫している。\n\n主要輸出品は[[香料]]で、2013年には[[クローブ]]が総輸出の48.4%、[[バニラ]]が20.2%、[[イランイラン]]などの精油が11.4%と、香料のみで輸出の80%を占めている[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p272 二宮書店 平成28年1月10日発行]。こうした香料生産植物は植民地時代の農園企業によって持ち込まれたが、企業の撤退以降投資や樹木の更新がなされず、生産量は減少傾向にある[https://www.afpbb.com/articles/-/3046166 『「シャネルN°5」に危機?原料の花の栽培が衰退 コモロ』AFPBB 2015年4月22日 2019年10月18日閲覧]。島嶼国ではあるが[[漁業]]は未発達である[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/comoros/data.html 「コモロ基礎データ」日本国外務省 令和元年9月9日 2019年10月15日閲覧]。工業はほぼ農産物加工のみ。2013年には輸出が2500万ドル、輸入が2億8500万ドル[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p272 二宮書店 平成28年1月10日発行]と大幅な入超となっており、主食であるコメの輸入額だけで総輸出額を超える状況である。\n\n=== 交通 ===\nコモロ最大の[[空港]]はモロニ北郊のハハヤにある[[プリンス・サイード・イブラヒーム国際空港]]であり、他2島への国内便のほか、国際線も発着している[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.197、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。このほか、アンジュアン島北部のワニ[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p24]と、モヘリ島北岸のバンダル・エス・サラーム[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p23]に空港が存在する。\n\nコモロは島嶼国家であるが、海運はそれほど発達していない。主要港はモロニとムツァムドゥである。以前は大型船の入港ができる港が存在しなかったが、1985年にムツァムドゥ港が深水港として整備されて大型船入港が可能となった[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.197、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]。一方で首都港であるモロニ港は目立った改修が行われず、大型船の接岸は不可能である[https://dlca.logcluster.org/display/public/DLCA/2.1.1+Comoros+Port+of+Moroni 「Comoros Port of Moroni」Logistics Capacity Assessment 2016/04/25 2019年10月17日閲覧]。この海運インフラの不足は、コモロの経済に大きな悪影響を及ぼしている。\n\n== 国際関係 ==\nコモロの東に浮かぶ[[マヨット]]島はコモロ諸島に属し、コモロ3島と言語・宗教・文化・歴史その他を共有しており、政治的にもフランス領コモロの一部として同一の政治的区分を構成していた。しかし1958年にコモロ領の首都をマヨット島のザウジからグランドコモロ島のモロニに移転することが決議されて以降、マヨットとグランドコモロとの対立が表面化し、最終的には1974年の住民投票におけるマヨット島での独立反対派の勝利とそれを受けてのフランスの介入、そして1975年のコモロ3島独立とマヨット島のフランス帰属決定を招くこととなった。コモロは独立以降一貫してマヨットの自国帰属を主張し、それは[[コモロの国旗]]などでも示されているものの、実際には政情不安と経済混乱が続くコモロに対し、マヨットはフランス本国からの強力な援助の元でコモロよりはるかに良好な経済状況となっており[「幻想の終焉 コモロにおける分離独立運動」(アフリカレポートNO26)p6 花渕馨也 アジア経済研究所 1998年3月]、マヨット内でコモロ復帰を求める声はほとんど存在しない。フランスもマヨットの統治体制を徐々に強化しており、2011年には住民投票の結果を受けて正式にフランスの[[フランスの海外県・海外領土|海外県]]に昇格したことで、両地域の政治的統合はさらに遠のくこととなった[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_27-1/RitsIILCS_27.1pp159-174HIRANO.pdf 「国民国家と植民地主義 最後の海外県マイヨットを手がかりに」(立命館言語文化研究27巻1号)p166 平野千果子 立命館大学国際言語文化研究所 2015年10月 2019年10月17日閲覧]。\n\n旧[[宗主国]]であるフランスとは、独立直後にマヨット島の帰属を巡って激しい対立があった[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p100]ものの、1978年に軍事・経済協力協定を結んで以降は同国の強い影響下にある[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p272 二宮書店 平成28年1月10日発行]。フランスはコモロの最大援助国であり、2015年にはコモロが受け取った政府開発援助の20.2%がフランスからの援助だった[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/comoros/data.html 「コモロ基礎データ」日本国外務省 令和元年9月9日 2019年10月18日閲覧]。\n\n=== 日本との関係 ===\n*在留日本人数 - 3人(2018年6月現在)[[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/comoros/data.html#section6 外務省 コモロ基礎データ]]\n*在日コモロ人数 - 2人(2018年6月現在)[[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/comoros/data.html#section6 外務省 コモロ基礎データ]]\n\n== 国民 ==\n[[ファイル:Grande Comore-Man.jpg|thumb|180px|グランドコモロ島の男性]]\n[[ファイル:Moroni Mosque Photo by Sascha Grabow.jpg|thumb|right|180px|イスラム教のモスク]]\n===人口===\nコモロの人口は急速に増大し続けている。1866年にマヨットも含めた4島で6万5000人だった人口は、1958年には4島で19万2000人、1986年には3島で43万1000人[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p119-121]、1994年には53万人[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.197、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]、2015年には77万人に達した[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p272 二宮書店 平成28年1月10日発行]。人口密度はどの島も非常に高いが、開発の進んでいないモヘリ島がやや低く、アンジュアン島が最も高い。このため、アンジュアン島やグランドコモロ島からモヘリ島への人口移動が活発に起きている[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p121-122]。\n\n古くから人口過剰が指摘されており、さらに悪化の一途をたどっているため、コモロからは古来より多数の移民が国外へと流出している。植民地時代には近傍のマダガスカル北部への移民が最も多く、特に[[マジュンガ]]市などではかなりのコモロ人が居住していたが、1976年の暴動によりかなりの人々がコモロへと帰還せざるを得なくなった[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p107-108]。しかしその後もマダガスカルに居住するコモロ人は多く、さらに[[タンザニア]]や[[ケニア]]などの近隣諸国やフランスには大きなコモロ人のコミュニティが存在する[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p80]。独立後、コモロの政治・経済混乱によってこの動きはさらに加速した。この新移民の波が主に目指したのはフランス領にとどまったマヨット島であり、大量の移民流入を防ぐために1994年にフランス政府は両地域間の移動に[[ヴィザ]]取得を義務づけた[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_27-1/RitsIILCS_27.1pp159-174HIRANO.pdf 「国民国家と植民地主義 最後の海外県マイヨットを手がかりに」(立命館言語文化研究27巻1号)p166 平野千果子 立命館大学国際言語文化研究所 2015年10月 2019年10月17日閲覧]ものの移民の波は続いており、不法移民船舶の難破で死者が相次いでいる[https://www.afpbb.com/articles/-/2267163?cx_part=search 「インド洋沖で密航中の移民船が沈没、17人死亡」AFPBB\n2007年8月14日 2019年10月17日閲覧]。\n\n===民族===\nコモロには、おそらく最古の居住者である[[マレー人]]および[[バントゥー系]]のほか、[[アラブ人]]やシラジ人、[[マダガスカル人]]など多くの民族が来訪し、混血が進んでコモロ人という民族が生まれた。住民のルーツこそ多種多様であるものの、現代においてはコモロの住民は、コモロ人が97.1%(2000年)を占めており[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p272 二宮書店 平成28年1月10日発行]、ほぼ単一民族国家となっている。\n\n===言語===\n公用語は[[コモロ語]]、[[アラビア語]]、[[フランス語]]の3言語である[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/comoros/data.html 「コモロ基礎データ」日本国外務省 令和元年9月9日 2019年10月16日閲覧]。国民のほとんどが日常語として使用する言語はコモロ語であり、3島間の方言差はあるものの相互理解はなんとか可能である[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p69]。コモロ語は[[スワヒリ語]]の近縁の言語であるがアラビア語からの借用要素がより強いものであり[田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.197、朝倉書店 ISBN 4254166621 ]、またスワヒリ語との相互理解は不可能である[エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ著 花渕馨也訳「コモロ諸島」白水社 2001年8月10日 ISBN 978-4560058428 p69]。また、教育においては3言語とも教授言語ではあるが、主に用いられる言語はフランス語である[https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/07africa/infoC71600.html 「諸外国・地域の学校情報 コモロ連合」日本国外務省 平成29年11月 2019年10月16日閲覧]。\n\n===宗教===\n住民の98.4%(2005年)は[[イスラム教]]を信仰しており[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p272 二宮書店 平成28年1月10日発行]、[[2009年]]の憲法改正により[[国教]]の地位を与えられた。[[スンナ派]]の住民が多数派だが、近年、イランのコモロへの経済進出により[[シーア派]]のムスリムも増えている。\n\n===教育===\n教育制度は[[小学校]]6年、[[中学校]]4年、[[高校]]3年であり、[[義務教育]]は小学校6年間のみである[https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/07africa/infoC71600.html 「諸外国・地域の学校情報 コモロ連合」日本国外務省 平成29年11月 2019年10月16日閲覧]。[[大学]]は存在しない。[[識字率]]は77.8%(2015年)である[「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p272 二宮書店 平成28年1月10日発行]。\n\n== 文化 ==\n{| class=\"wikitable\"\n|+ 祝祭日\n!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考\n|-\n|[[7月6日]] || 独立記念日 || {{lang|fr|Fête de l'Indépendance}} ||\n|}\n\n== 脚注 ==\n{{Reflist}}\n\n== 関連項目 ==\n\n* [[コモロ関係記事の一覧]]\n* [[エール・コモロ・インターナショナル]]\n\n== 参考文献 ==\n{{節スタブ}}\n\n== 外部リンク ==\n; 政府\n* [http://www.beit-salam.km/ コモロ連合大統領府] {{fr icon}}\n* [http://www.auc.km/ コモロ連合議会] {{fr icon}}\n; 日本政府\n* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/comoros/ 日本外務省 - コモロ]\n\n{{Commons&cat|Comoros|Comoros}}\n{{アフリカ}}\n{{OIC}}\n{{OIF}}\n{{Country-stub}}\n{{KM-stub}}\n{{Authority control}}\n{{DEFAULTSORT:こもろ}}\n[[Category:コモロ|*]]\n[[Category:共和国]]\n[[Category:島国]]\n[[Category:連邦制国家]]\n[[Category:フランコフォニー加盟国]]"}
+{"title": "東ティモール", "text": "{{基礎情報 国\n | 略名 =東ティモール\n | 日本語国名 =東ティモール民主共和国\n | 公式国名 =Republika Demokratika Timor Lorosa'e (テトゥン語)
\n'''{{Lang|pt|República Democrática de Timor-Leste}}''' (ポルトガル語)\n | 国旗画像 =Flag of East Timor.svg\n | 国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of East Timor.svg|100px|東ティモールの国章]]\n | 国章リンク =([[東ティモールの国章|国章]])\n | 標語 =''{{Lang|pt|Unidade, Acção, Progresso}}''
(ポルトガル語: 統一、行動、前進)\n | 位置画像 =Timor Leste (orthographic projection).svg\n | 公用語 =[[テトゥン語]]、[[ポルトガル語]]\n | 首都 =[[ディリ]][{{Cite news \n | title = 東ティモール独立15年 経済自立 道遠く 若者の半数失業 ASEAN加盟熱望\n | newspaper = [[中日新聞]]\n | date = 2017-05-24\n | author = 清水健太郎\n | publisher = 中日新聞社\n | page = 夕刊 2\n }}]\n | 最大都市 =ディリ\n | 元首等肩書 =[[東ティモールの大統領|大統領]]\n | 元首等氏名 =[[フランシスコ・グテレス]]\n | 首相等肩書 =[[東ティモールの首相|首相]]\n | 首相等氏名 =[[タウル・マタン・ルアク]]\n | 面積順位 =154\n | 面積大きさ =1 E10\n | 面積値 =15,007\n | 水面積率 =極僅か\n | 人口統計年 =2008\n | 人口順位 =153\n | 人口大きさ =1 E6\n | 人口値 =1,133,000\n | 人口密度値 =68\n | GDP統計年元 =2018\n | GDP値元 =30億9,000万[{{Cite web|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2019/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=50&pr.y=1&sy=2017&ey=2024&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=537&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CNGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=|title=World Economic Outlook Database, April 2019|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2019-04|accessdate=2019-9-14}}]\n | GDP統計年MER =2018\n | GDP順位MER =163\n | GDP値MER =30億9,000万\n | GDP統計年 =2018\n | GDP順位 =162\n | GDP値 =66億5300万\n | GDP/人 =5,241\n | 建国形態 =[[独立]]
- 宣言
- 主権回復(事実上の独立)\n | 建国年月日 =[[ポルトガル]]より
[[1975年]][[11月28日]]
[[インドネシア]]より
[[2002年]][[5月20日]][\n | 通貨 =[[アメリカ合衆国ドル]]\n | 通貨コード =USD\n | 時間帯 =(+9)\n | 夏時間 =なし\n | 国歌名 =故国\n | ISO 3166-1 = TL / TLS\n | ccTLD =[[.tl]]\n | 国際電話番号 =670\n | 注記 =註1: かつては.TP\n}}\n'''東ティモール民主共和国'''(ひがしティモールみんしゅきょうわこく)、通称'''東ティモール'''は、[[アジア]]([[東南アジア]])地域に位置する[[共和制]][[国家]]。[[1999年]][[8月30日]]に[[国際連合|国連]]の主導で独立についての[[住民投票]]を実施。[[インドネシア]]の占領から[[2002年]][[5月20日]]に独立した][([[国際法]]上は[[ポルトガル]]より独立)。[[21世紀]]最初の独立国である。[[ポルトガル語諸国共同体]]加盟国。\n\n[[島国]]であり、[[小スンダ列島]]にある[[ティモール島]]の東半分と[[アタウロ島]]、[[ジャコ島]]、[[飛地]][[オエクシ=アンベノ|オエクシ]]で構成されている。南方には、[[ティモール海]]を挟んで[[オーストラリア]]があり、それ以外はインドネシア領[[東ヌサ・トゥンガラ州]]([[西ティモール]]を含む)である。\n\n== 国名 ==\n正式名称は {{lang|x-tetum|Republika Demokratika Timor Lorosa'e}}([[テトゥン語]]: レプブリカ・デモクラティカ・ティモール・ロロサエ)、{{lang|pt|República Democrática de Timor-Leste}}([[ポルトガル語]]:レプーブリカ・デモクラーティカ・ド・ティモール・レスト)。略称は、{{lang|x-tetum|Timor Lorosa'e}}(テトゥン語)、{{lang|en|Timor-Leste}} (ポルトガル語)。\n\n公式の[[英語]]表記は {{lang|en|Democratic Republic of Timor-Leste}}、略称は {{lang|en|East Timor}}。\n\n[[日本語]]の表記は'''東ティモール民主共和国'''。通称、'''東ティモール'''。ティモールの部分は、'''チモール'''とも表記される(近年では「ティモール」の表記が一般的である)。ちなみに、現地の発音は、「ティ」と「チ」の中間音。\n\n国名は、「ティモール島の東部」という意味である。「ティムール (timur)」は、[[マレー語]]・[[インドネシア語]]で「東」を意味する。テトゥン語の「ロロ」は「太陽」、「サエ」は「出る」、「ロロサエ」は「日の出」またはその方角(すなわち「東」)を意味する。ポルトガル語の「レステ」も「東」を意味する。\n\n== 歴史 ==\n{{main|{{仮リンク|東ティモールの歴史 (東ティモール民主共和国)|en|History of East Timor|label=東ティモールの歴史}}}}\n\n=== 成立 ===\nポルトガルの植民地になるはるか昔、紀元前2000年ごろパプア系語族が島の東部へ移住していき、ずっと時代が下って紀元10世紀ごろ[[オーストロネシア語族]]が流入してきたと伝えられている。さらに紀元前3000年ごろと同2000年ごろの 2度にわたって、インド=マレー系エスニックグループが移住してきたとの説もある][山崎功「白檀をめぐるティモールのおいたち」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 16ページ]。\n\n=== ポルトガル植民地 ===\n{{main|ポルトガル領ティモール}}\n[[ファイル:Lesser coat of arms of Portuguese Timor.svg|thumb|left|100px|[[ポルトガル領ティモール]]の国章]]\nティモール島は[[16世紀]]に[[ポルトガル]]によって[[植民地]]化された。その後[[オランダ]]が進出し、一時はポルトガルがこれを撃退したが、[[1859年]]に[[西ティモール]]とソロール島を[[オランダ]]に割譲したことで、ティモール島は東西に分割された({{仮リンク|リスボン条約 (1859年)|de|Vertrag von Lissabon (1859)|label=リスボン条約}})。この境界については[[1893年]]にポルトガルとオランダ間で細部の改正が行われ、[[1904年]]に[[ポルトガル=オランダ条約]](1908年批准)で国境を直線的分断し、[[1913年]][ Schwartz (1994), p. 199.](または[[1914年]][Deeley, Furness, and Schofield (2001) ''The International Boundaries of East Timor'' p. 8])に確定した。\n\n1911年から翌年にかけて、収奪の厳しさに耐えかねてリウライ(マヌファヒ小国王)のドン・ドンボアベントゥラが反乱を起こした。戦死者3,424人、負傷者1万2,567人を出した。さらに、1959年にピケケ県知事誘拐・蜂起事件が亡命インドネシア人と東ティモール人らによって引き起こされた。150人の死者が出たとの説もある[山崎功「近代ナショナリズムと「植民地」支配」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 20-22ページ]。\n\nポルトガルが中立を守った[[第二次世界大戦]]時には、当初はオランダ軍と[[オーストラリア軍]]が保護占領し、{{仮リンク|ティモール島の戦い|en|Battle of Timor}}のあと[[オランダ領東インド]]地域と合わせて[[日本軍]]が占領したが、[[日本]]の敗戦により[[オーストラリア]]軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活し、[[1949年]]に[[インドネシア]]の一部として西ティモールの独立が確定したあともポルトガルによる支配が継続した。これに対し、人口の中で圧倒的多数を占める地元住民は独立志向を強めたが、[[アントニオ・サラザール]]首相などの「[[エスタド・ノヴォ]]体制」により抑圧された。\n\n[[1974年]]にポルトガルで左派を中心とした[[カーネーション革命]]が起こり、植民地の維持を強く主張した従来の保守独裁体制が崩壊すると、東ティモールでも独立への動きが加速し、反植民地主義のティモール社会民主協会(ASDT、9月に[[東ティモール独立革命戦線]]FRETILIN(フレティリン)と改称)が即時完全独立を要求[若い活動家を中心に識字教室や保健プログラムを村落ごとに実施、自主独立の精神を高揚させた。]、ポルトガルとの関係維持のティモール民主同盟(UDT)[植民地政庁の役人やポルトガル人教会の支持を得て保守層を代弁した。]、インドネシアとの統合を主張するアポデディ[インドネシアの支援を受けて武装化した。]の3つが政党として旗揚げした[松野明久「ポルトガルでもインドネシアでもなく」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 35-38ページ]。この動きは、東ティモールの領有権を主張し、[[反共主義]]を国是とするインドネシアの[[スハルト]]政権にとっては容認できず、反フレティリンの右派勢力を通じた介入を強化した。\n\n=== インドネシアによる占領 ===\n{{main|{{仮リンク|インドネシア占領下の東ティモール|en|Indonesian occupation of East Timor}}}}\n[[ファイル:East Timor Demo.jpg|thumb|right|インドネシアからの独立デモ]]\n[[1975年]]11月28日、右派勢力と連携したインドネシア軍が西ティモールから侵攻を開始する中、フレティリンが首都ディリで'''東ティモール民主共和国'''の独立宣言を行う。11月29日、インドネシア軍が東ティモール全土を制圧し、併合を承認する「バリボ宣言」を出した(国連はこれを認めず)。12月7日、東ティモールに対する全面侵攻「スロジャ作戦」を開始。12月12日、[[国連安全保障理事会総会]]が、インドネシアの即時撤退を求める決議可決。[[1976年]]、インドネシアが27番目の州として併合宣言を行った。[[国連総会]]ではこの侵攻と占領を非難する決議がただちに採択されたが、[[日本|日]]・[[ヨーロッパ|欧]]・[[アメリカ合衆国|米]]・[[オーストラリア|豪]]など西側の有力諸国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上黙認した。\n\n[[1977年]]、インドネシア軍が包囲殲滅作戦を展開。スハルト政権は東ティモールの抵抗に対して激しい弾圧を加えたため、特に占領直後から1980年代までに多くの人々が殺戮や飢餓により命を落とした。インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言われている。1991年、平和的なデモ隊にインドネシア軍が無差別発砲し、400人近くを殺した[[サンタクルス事件]]は、住民の大量殺戮事件として世界的に知られることになった。また、官吏や教員などを派遣して徹底した「インドネシア化」も推進した。フレティリンの軍事部門であるファリンテルは民族抵抗革命評議会(CRRN)の主要メンバーとなり、[[シャナナ・グスマン]]が議長になったが、インドネシア政府はグスマンを逮捕し、抵抗運動を抑え込んだ。[[1996年]]12月、[[ノーベル平和賞]]が現地カトリック教会の[[ベロ司教]]および独立運動家の[[ジョゼ・ラモス=オルタ]]に贈られた。\n\n[[1998年]]にインドネシアでの民主化運動でスハルト政権が崩壊すると、後任の[[ユスフ・ハビビ|ハビビ]]大統領は東ティモールに関し特別自治権の付与を問う住民投票を実施することで旧宗主国のポルトガルと同意した。\n\n=== 国連の暫定統治と独立後の平和構築活動 ===\n{{main|{{仮リンク|東ティモールの国連の暫定統治|en|United Nations Transitional Administration in East Timor}}}}\n1999年5月、インドネシア、ポルトガルと国連、東ティモールの住民投票実施の枠組みに関する合意文書に調印(ニューヨーク合意)。6月、[[国際連合東ティモール・ミッション]](UNAMET)が派遣される。8月30日、独立に関する住民投票が行われた(投票率98.6%)。9月4日に発表された投票結果では、自治拒否78.5%で、特別自治権提案が拒否されたことで独立が事実上決定。9月7日、インドネシア治安当局は東ティモールに非常事態宣言を発令し、国軍5,500人を増兵しインドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使って破壊と虐殺を行う。9月12日、インドネシアが国連平和維持軍の受け入れを容認し、[[オーストラリア軍]]を主力とする[[多国籍軍]]([[東ティモール国際軍]]、INTERFET)が派遣された([[東ティモール紛争]])。その結果、暴力行為は収拾したが、多くの難民が西ティモールに逃れ、あるいは強制的に連れ去られたりした。10月には、[[国際連合東ティモール暫定行政機構]](UNTAET)が設立、2002年の独立まで率いた。\n\nその後の制憲議会選挙ではフレティリンが圧勝し、大統領には[[シャナナ・グスマン]]、首相には[[マリ・アルカティリ]]が選出され、[[2002年]][[5月20日]]に独立式典を行った。独立後、国連は[[国際連合東ティモール支援団]](UNMISET)を設立、独立後の国造りの支援を行った。この中で、日本の[[自衛隊]]も[[国連平和維持活動]](PKO)として[[自衛隊海外派遣|派遣]]され、国連と協力して活動を行った。2005年には、国連の平和構築ミッション、UNOTIL(国連東ティモール事務所)が設立された。\n\n=== 独立後の混乱 ===\n{{main|{{仮リンク|2008年の東ティモール暗殺未遂事件|en|2008 East Timorese assassination attempts}}}}\n[[2006年]]4月、西部出身の軍人約600人が昇級や給料で東部出身者との間で差別があるとして待遇改善と差別の廃止を求め抗議し、[[ストライキ]]を起こしたが、政府はストライキ参加者全員を解雇した(国軍は2,000人ほどしかいない)。これを不服とした参加者側が5月下旬に蜂起、国軍との間で戦闘が勃発した。ところが、鎮圧に赴いた警察や国軍の一部がスト参加者に同調して反旗を翻し、警察署を襲撃して死者が出たため、怯えた警察官が職務放棄。また若者を中心に暴徒化してディリは混乱した。治安維持が不可能となった政府は[[5月24日]]にオーストラリア・[[マレーシア]]・[[ニュージーランド]]・[[ポルトガル]]に治安維持軍の派遣を要請し、翌日には東ティモールへの利権を確保することを意図したオーストラリア軍が早速展開し、その後4か国による治安維持が行われた。\n\nこの背景として東部住民と西部住民の軋轢や、若者の失業率の高さが挙げられている。また、アルカティリ首相の独善的姿勢や国連の活動終了が早すぎた可能性も指摘されている。\n\nオーストラリア軍は反乱軍を指揮する少佐と接触し、少佐の武装解除命令によって6月半ばに蜂起は終結したが、暴徒の方は反政府デモとなり、グスマン大統領の忠告によって、アルカティリ首相は辞任に追い込まれた。ディリは半ば戦場と化し、住民のほとんどは難民となって郊外へ脱出した。治安維持軍によって年内に暴動は鎮圧されたが、オーストラリア政府の支援による[[警察]]の再建など、治安の回復には時間がかかると思われる。\n\n暴動を受け、同年8月には[[国際連合東ティモール統合ミッション]](UN Integrated Mission in Timor-Leste:UNMIT)が設立。平和構築ミッションから、再び平和維持活動へと逆戻りした。\n\n[[2007年]][[1月13日]]、[[フランス]]とともに[[東南アジア友好協力条約]](TAC))に締結した。この条約は[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)加盟と[[東アジアサミット]]参加への条件とされており、締結国間の主権尊重と内政不干渉、紛争の平和的解決を謳うものである。東ティモールは2007年内のASEAN加盟を目指していたが、国内事情の混乱もあって実現しなかった。その後、2011年にASEAN加盟を申請し、2017年時点でも交渉中である[{{Cite news|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/data.html#section3|title=東ティモール民主共和国 基礎データ|work=|publisher=日本国外務省ホームページ|accessdate=2017-8-2}}]。\n\n[[2007年]][[8月8日]]、与党フレティリンが下野し、グスマン連立政権発足の前後より、フレティリンの熱狂的な支持者が暴徒化し、首都ディリなどで民家などへの放火や投石が多発している。また8月10日には、東部のバウカウ県で国連平和維持活動に携わる[[国際連合|国連]]警察の車列が発砲を受け、車両1台が燃やされた。ビケケ県では子ども1人が暴動に巻き込まれ死亡、数日の間に100名以上の逮捕者が出た。バウカウ・ビケケ両県は、フレティリン支持者が多い。8月12日には、国連警察、東ティモール警察、多国籍治安部隊(おもに豪軍)、東ティモール国軍により暴動は沈静化した。\n\n[[2008年]][[2月11日]]、ラモス=オルタ大統領やグスマン首相が2006年の国軍反乱以降に反政府勢力となった{{仮リンク|アルフレド・レイナド|en|Alfredo Reinado}}少佐指揮の武装集団に襲撃された。この際にレイナドは死亡し、ラモス=オルタは重傷を負ったがオーストラリアの病院での治療により一命を取り留めた。ラモス=オルタ大統領は4月17日に職務に復帰し、襲撃事件に伴う非常事態令も5月8日に解除された。国連によるUNMITは[[2009年]]も延長されたが、同年3月には国家警察への権限移譲が開始され、混乱は徐々に収束しつつある[{{Cite web|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/data.html|title=東ティモール民主共和国基礎データ|publisher=外務省|date=2013-10-28|accessdate=2014-10-12}}]。\n\nこの一連の独立に至る記録が、2013年に[[ユネスコ記憶遺産]]に登録された[[http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/flagship-project-activities/memory-of-the-world/register/full-list-of-registered-heritage/registered-heritage-page-6/on-the-birth-of-a-nation-turning-points/ UNESCO Memory of the World Archives]]。\n\n== 政治 ==\n[[ファイル:Gouverneurspalast klein 2002.jpg|200px|left|thumb|国会議事堂]]\n\n国家[[元首]]の[[大統領]]は、主として象徴的な役割を果たすにすぎないが、立法に対する拒否権を持つ。国民の選挙によって選ばれ、任期は5年。行政府の長である[[首相]]は、議会での選出後、大統領が任命する。現在は第3代大統領の[[タウル・マタン・ルアク]]が1期目を務めている。\n\n立法府は、[[一院制]]の[[国民議会 (東ティモール)|国民議会]]で、定数は、52以上65以下の範囲で法律によって定められる。現在は65。\n\nただし、第1期のみは特例として88議席。議員は、国民の選挙によって選出され、任期は5年。2007年6月30日に行われた選挙では、東ティモール独立革命戦線(フレティリン)が21議席、東ティモール再建国民会議(CNRT)が18議席、ティモール社会民主連合と社会民主党の統一連合が11議席、民主党が8議席、ほかに3つの政党・統一連合が計7議席を獲得し、東ティモール再建国民会議を中心とする反フレティリン連立政権樹立が合意された。[[東ティモールの政党]]も参照のこと。\n\n独立後のフレティリンは左派色を薄め、資本主義国との関係を重視している。独立直後の2002年7月には[[ポルトガル語諸国共同体]]に加盟している。また、インドネシアとの外交関係の安定も志向し、[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)へのオブザーバー資格獲得や正式加盟も模索しているが、独立戦争以来の諸問題の解決が多く残り、経済的な格差も大きいため、まだ正式な加盟交渉には至っていない。\n\n2006年6月23日、シャナナ・グスマン大統領から辞任を求められていたアルカティリ首相が辞任を表明した。26日、アルカティリ首相は、グスマン大統領に正式に辞表を提出し受理された。首相が首都ディリ市内の公邸で辞任表明を読み上げると市民は歓迎し、騒乱の収拾・事態正常化への期待を高めた。7月8日、グスマン大統領は、前首相の後任に[[ノーベル平和賞]]受賞者の[[ジョゼ・ラモス=オルタ]]前外相兼国防相を任命した。前首相の与党のフレティリンが推したダ・シルバ農相を第一副首相に、デ・アラウジョ保健相を第二副首相に起用する。\n\n2006年7月14日、オルタ内閣の就任宣誓式が首都ディリで行われ、同内閣が正式に発足した。14閣僚のうち6人が新任で、残りの6人は前内閣からの再任である。国防相はオルタ首相自身が務める。オルタ首相の任期は来年5月の総選挙まで。オルタ首相は施政方針演説で、アジアの最貧国である東ティモールの経済をインフラ建設などを通じ底上げし、復興を目指すと表明した。\n\n[[2007年]][[4月9日]]、[[2007年東ティモール大統領選挙|東ティモール大統領選挙]]が行われた。これは2002年独立以後初めての国政選挙となった。登録有権者数は約52万人。独立運動指導者で[[ノーベル平和賞]]受賞者の[[ラモス・オルタ]]首相(シャナナ・グスマン大統領(当時)に支持されている)、旧与党・[[東ティモール独立革命戦線]](フレティリン)のフランシスコ・グテレス(通称ル・オロ)国会議長、野党・民主党のフェルナンド・ラマサ党首ら8人が立候補したが、[[4月18日]]、選挙管理委員会は過半数を得た候補がいなかったとして、1位のグテレスと2位のオルタ両候補による決選投票を実施すると発表した。得票率はそれぞれ27.89%、21.81%で、投票率は81.79%だった。[[5月9日]]、決選投票が行われ、即日開票作業が行われた。そして、ラモス・オルタが制し、[[5月20日]]に第2代大統領に就任した。\n\n[[2007年]][[6月30日]]に行われた[[2007年東ティモール国民議会選挙|議会選挙]]では、グスマン党首率いる[[東ティモール再建国民会議]](CNRT)が18議席を獲得し、議会第2党に躍進。[[東ティモール独立革命戦線]]はかろうじて第1党であったが、65議席中21議席と大幅に議席を減らした。これは前大統領シャナナ・グスマンがCNRTを結成して選挙に挑んだからにほかならない。ラモス・オルタ大統領は与野党による挙国一致内閣を目指したが、フレティリンの[[マリ・アルカティリ]]書記長はこれに異を唱えた。いったんはその考えを受け入れたが、CNRT率いる野党連合とフレティリンは、何週間も論争を繰り返したが合意には至らなかった。これにより、ラモス・オルタ大統領は、反フレティリン野党連合(37議席)による連立政権を組閣することを決断。8月6日にグスマン党首を首相に指名し組閣を指示、8月8日にグスマンは首相に就任した。これに対して、首相は第1党から出すと定めた東ティモールの憲法に違反するとして、アルカティリが法的手段で闘うと述べ、首相就任宣誓式出席をボイコット、フレティリンはラモス・オルタ大統領の決定を非難した。そのうえ、議長もフレティリンではなく、連立を組んだ民主党のアラウジョ党首が就任した。しかし、連立政権は反フレティリンで一致しているだけで、初代大統領として国の混乱を招いた責任は免れないというグスマンへの個人批判を述べるものもいるという側面もある。連立政権はCNRT、社会民主党、民主党等4党。副首相にグテレス。外相に社会民主党幹部のダコスタ。なお、グテレスはフレティリン反主流派。議会選挙では「フレティリン改革派」を組織し、CNRT支援に回った。\n\n== 地方行政 ==\n[[ファイル:2015 East Timor, administrative divisions - de - monochrom.tif|500px|thumb|[[東ティモールの行政区画]]]]\n[[ファイル:East Timor map mhn.jpg|thumb|300px|[[ティモール島]]の地図]]\n{{main|東ティモールの行政区画}}\n\n全13県。国土の北部沿岸を中心とする'''ディリ地方'''、島の東端部の'''バウカウ地方'''、国土の中央部の'''サメ地方'''、インドネシアとの境界線付近の'''マリアナ地方'''、飛び地である'''[[オエクシ=アンベノ|オエクシ]]地方'''に大きくグループ分けされる。\n; ディリ地方\n: [[ディリ県]] - ([[ディリ]])\n: [[マナトゥト県]] - ({{仮リンク|マナトゥト|en|Manatuto}})\n: [[リキシャ県]] - ({{仮リンク|リキシャ (東ティモール)|en|Liquiçá|label=リキシャ}})\n; バウカウ地方\n: [[バウカウ県]] - ({{仮リンク|バウカウ|en|Baucau}})\n: [[ヴィケケ県]] - ({{仮リンク|ヴィケケ|en|Viqueque}})\n: [[ラウテン県]] - ([[ロスパロス]])\n; サメ地方\n: [[アイナロ県]] - ({{仮リンク|アイナロ|en|Ainaro}})\n: [[アイレウ県]] - ({{仮リンク|アイレウ|en|Aileu}})\n: [[マヌファヒ県]] - ({{仮リンク|サメ (東ティモール)|en|Same (East Timor)|label=サメ}})\n; マリアナ地方\n: [[エルメラ県]] - ({{仮リンク|グレノ|en|Gleno}})\n: [[コバリマ県]] - ({{仮リンク|スアイ|en|Suai}})\n: [[ボボナロ県]] - ([[マリアナ (東ティモール)|マリアナ]])\n; オエクシ地方\n: [[オエクシ県]] - ({{仮リンク|パンテ・マカッサル|en|Pante Macassar}}):[[飛び地]]\n\n== 地理と自然 ==\n{{Main|ティモール島}}\n東ティモールは[[環太平洋火山帯]](環太平洋造山帯)の一部で[[小スンダ列島]]に属する[[ティモール島]]の東部に位置しており、全土の約6割は山岳地帯となっている。最高峰は2,963メートルの[[タタマイラウ山]](ラメラウ山)。高温多湿の熱帯性気候下だが、[[乾季]]と[[雨季]]の区別がある。動植物の[[固有種]]が多数存在し、北部海岸には[[サンゴ礁]]が発達している。\n\n==対外関係と軍事==\n{{main|{{仮リンク|東ティモールの国際関係|en|Foreign relations of East Timor}}|{{仮リンク|東ティモール国防軍|en|Timor Leste Defence Force}}}}\n独立して日が浅い小国であるため、隣国インドネシアをはじめとする東南アジア諸国、オーストラリアのほか、この地域に大きな影響力を持つ日本、[[中華人民共和国|中国]]、[[アメリカ合衆国]]との良好な関係を築き、国家としての存立と発展を目指している。ASEAN加盟は2017年時点で実現していないが、アラウジョ首相は「我々は準備ができている」「ポルトガル語諸国共同体の議長国として多くの国際会議を主催した」として、早期加盟を目指す方針を示している[{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170802/k00/00m/030/084000c|title=東ティモール首相 ASEAN早期加盟に意欲|work=|publisher=[[毎日新聞]]ニュース|date=2017年8月1日}}]。\n\n独立直後は日本からの[[政府開発援助]](ODA)が大きな役割を果たしたが、近年は中国が経済支援や[[インフラストラクチャー|インフラ整備]]で急速に存在感を増している[{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170802/k00/00m/030/086000c|title=東ティモール 中国の存在感高まる…首都に人・モノ・金|work=|publisher=[[毎日新聞]]ニュース|date=2017年8月1日}}]。対中接近の背景には、経済を支えるティモール海の既存[[油田]]が数年内に枯渇するとの危機感がある。2016年には[[中国海軍]]艦艇が初めて首都ディリに寄港した[{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGKKZO2027420023082017FF1000/|title=東ティモール独立15年 豪州と溝、中国が存在感 石油枯渇にらみ投資期待|work=|publisher=『[[日本経済新聞]]』朝刊|date=2017年8月23日}}]。\n\nオーストラリアとは後述のように、ティモール海の資源権益をめぐる紛争を抱える。\n\n2001年に{{仮リンク|東ティモール国防軍|en|Timor Leste Defence Force}}を創設しており、[[陸軍]](兵力1,250人)と[[海軍]](兵力80人)を保有する[{{Cite news|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/data.html#section3|title=東ティモール民主共和国 基礎データ|work=|publisher=日本国外務省ホームページ|accessdate=2017-8-2}}]。\n\n== 経済 ==\n\n[[ファイル:Dili and Atauro Island.jpg|thumb|left|首都[[ディリ]]]]\n[[ファイル:Timor Lorosa'e centavo coin -2.JPG|thumb|補助通貨のセンタボ]]\n[[通貨]]に関しては[[アメリカ合衆国ドル|アメリカドル]]による{{仮リンク|通貨代替|en|Currency substitution}}(ドラリゼーション)が行われているが、[[通貨の補助単位|補助通貨]]として[[東ティモール・センターボ|センタボ]]という単位の[[硬貨]]が流通している。\n\n[[国際通貨基金|IMF]]によると、[[2018年]]の[[GDP]]は31億ドル。1人あたりのGDPは2,435ドルである。 [[2011年]]に[[アジア開発銀行]]が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす[[貧困層]]は77万人と推定されており、国民の過半数を占めている[[http://www.adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150318083921/http://adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf |date=2015年3月18日 }}]。[[国際連合]]による基準に基づき、[[後発開発途上国]]に分類されている[[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/ohrlls/ldc_teigi.html 外務省 後発開発途上国]]。\n\n[[ファイル:East Timor Export Treemap 2010.png|thumb|色と面積で示した東ティモールの輸出品目(2010年)]]\nポルトガル領時代は、[[アンゴラ]]や[[モザンビーク]]などのほかの植民地同様、工業化がまったく進まず、自給自足的な農業に依存した貧困状態だった。インドネシアによる統治が始まると社会資本の整備が緩やかに進んだが、[[1999年]]の住民投票で独立支持派が勝利するとインドネシア併合維持派の民兵が首都[[ディリ]]を破壊し、経済は壊滅状態に陥った。しかし、[[2006年]]の混乱後は経済成長が始まり、[[2007年]]から2011年にかけては平均12.1%にも達する高いGDP成長率を記録した。一方で、このGDPの伸びの大半は[[石油]]収入によるものであり、経済の多角化を図ることが目標とされている[{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/np/sec/pn/2011/pn1131.htm|title=IMF Executive Board Concludes 2010 Article IV Consultation with the Democratic Republic of Timor-Leste|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2011-03-08|accessdate=2014-10-12}}]。\n\n石油・[[天然ガス]]による収入は2011年時点で実にGDPの8割に達しており、IMFは東ティモールの経済を「世界でもっとも石油収入に依存した経済」と評している。石油以外の主要産業は農業で、米やトウモロコシ、[[コーヒー豆]]などが生産されている。コーヒーは[[フェアトレード]]商品として人気がある。かつての独立闘争の影響が残り、米やトウモロコシの主食は近隣諸国からの輸入に依存している。\n\n[[ファイル:Timor Gap map.PNG|thumb|300px|ティモール・ギャップ。赤色の海域が東ティモールの領域、黄色の海域がオーストラリアの領域、ピンク色の海域が共有領域である。]]\n\n石油は南方のティモール海の海底[[油田]]より産出されている。隣国で、東ティモールへの影響力を獲得しようとしているオーストラリアとの境界線確定が課題だが、東ティモール側はインドネシア政府が結んだ境界線の見直しを求め、交渉は難航している。しかし、確定とは別に両国共同石油開発エリア (JPDA:{{lang|en|Joint Petroleum Development Area}}) を定め ([[:en:Timor Gap Treaty|Timor Gap Treaty]], [[:en:Sunrise International Unitization Agreement|Sunrise International Unitization Agreement]], [[:en:Timor Sea Treaty|Timor Sea Treaty]])、収入の90%を東ティモールに、10%をオーストラリアに渡すこととなった。2007年からは原油採掘に伴う税収や[[ロイヤルティー]]収入が計上され ([[:en:Treaty on Certain Maritime Arrangements in the Timor Sea|Treaty on Certain Maritime Arrangements in the Timor Sea]])、その収入を集約するために東ティモール政府が設立した「石油基金」(2010年末時点で約69億ドル[http://www.laohamutuk.org/Oil/PetFund/Reports/PFQR10q4en.pdf])を利用した国家予算が計上できるようになっている。最初の事業はグレーターサンライズ・ガス田開発である。\n\nまた、2009年3月にはグスマン首相が日本を訪問し、日本の[[麻生太郎]]首相との間で「日本と東ティモールとの間の共同プレスステートメント」を発表した。その中で日本は無償資金援助を東ティモールに対して行い、東ティモールの円滑なASEAN加盟を支援することを表明した。\n\n== 国民 ==\n\n=== 民族 ===\n住民は[[メラネシア人]]が大部分である。その他[[華僑]]([[客家]])、[[印僑]]([[インド系移民]])、[[メスティーソ|ハーフカスト]]([[ポルトガル人]]とメラネシア人の[[混血]])、ごく少数の[[カーボベルデ]]などアフリカ系の移民などが存在する。\n[[ファイル:Sprachen Osttimors-en.png|thumb|250px|東ティモールの言語分布]]\n\n=== 言語 ===\n{{Main|東ティモールの言語状況}}\n言語は[[テトゥン語]]と[[ポルトガル語]]が[[公用語]]である[法律の正文はポルトガル語で、一部がテトゥン語に翻訳されている]。現在は、{{仮リンク|マカサエ語|en|Makasae language}}や{{仮リンク|ファタルク語|en|Fataluku language}}などの[[パプア諸語]]([[トランス・ニューギニア語族|トランスニューギニア語族]])とテトゥン語や{{仮リンク|マンバイ語|en|Mambai}}などの[[オーストロネシア語族]]が中心に話されている[山崎功「白檀をめぐるティモールのおいたち」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 16ページ]。そのほか、インドネシア統治期に教育を受けた30 - 40歳代を中心に[[インドネシア語]]が使われている。現在は世代間で使用できる言語が異なっていることが問題となっている[外務省広報資料 わかる!国際情勢 vol.36 21世紀初の独立国、東ティモールの現状と課題[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/data.html]]。東ティモールは独立時の2002年から[[ポルトガル語諸国共同体]](CPLP)に加盟している。\n\n=== 宗教 ===\n[[ファイル:キリスト像.JPG|thumb|ディリ郊外ファツカマ岬のキリスト像]]\n{{Main|東ティモールの宗教}}\n[[キリスト教]]の信徒が国民の99.1%を占めており、アジアでは[[フィリピン]]と並びキリスト教信仰が盛んな国である。キリスト教徒の大半は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に属し、それ以外は[[プロテスタント]]諸派に属している。キリスト教以外の宗教の信徒の構成比は、[[イスラム教]]が0.7%、その他[[ヒンドゥー教]]、[[仏教]]、[[アニミズム]]などとなっている。インドネシア統治時代の1992年推計ではイスラム教徒が人口の4%を占めていたとされるが、独立によりインドネシア政府の公務員などが東ティモールから退去し、イスラム教徒の比率は大幅に低下した。一方、独立運動を精神面で支え続けたカトリック教会への信頼は高まった。\n\n== 文化 ==\n[[ファイル:Man in traditional dress, East Timor.jpg|thumb|180px|伝統的な衣装に身を包んだ東ティモールの男性]]\n{{Main|東ティモールの文化}}\n\n=== 音楽 ===\n{{Main|東ティモールの音楽}}\n{{節スタブ}}\n\n=== 祝祭日 ===\n{| class=\"wikitable\"\n|+\n!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考\n|-\n|[[1月1日]]\n|[[元日]]\n| \n| \n|-\n|3月〜4月\n|聖金曜日\n| \n|''イースター前の金曜日''\n|-\n|3月〜4月\n|[[イースター]]\n| \n|''移動祝日''\n|-\n|[[5月20日]]\n|[[独立記念日]]\n| \n|2002年\n|-\n|[[8月15日]]\n|聖母被昇天祭\n| \n| \n|-\n|[[8月30日]]\n|住民投票記念日\n| \n|[[1999年]]\n|-\n|[[9月20日]]\n|解放記念日\n| \n|1999年のINTERFET(国連平和維持活動隊)による解放を記念\n|-\n|[[11月1日]]\n|[[諸聖人の日]]\n| \n| \n|-\n|[[11月12日]]\n|サンタクルス記念日\n| \n|[[サンタクルス事件]]の日\n|-\n|[[12月8日]]\n|[[無原罪の御宿り]]\n| \n| \n|-\n|[[12月25日]]\n|[[クリスマス]]\n| \n| \n|}\n\n== スポーツ ==\nポルトガルやインドネシアの統治を受けた歴史的経緯から、[[サッカー]]が盛んである。[[国際サッカー連盟]](FIFA)は東ティモール国内に1万5,500人のサッカー選手がおり(うち登録選手は500人)、10の国内クラブが存在するとしている[FIFA.com内の東ティモール基本情報(英語、2009年12月13日閲覧)[http://www.fifa.com/associations/association=tls/countryInfo.html]]。東ティモールサッカー連盟(FFTL)は2002年に設立され、2003年3月には[[サッカー東ティモール代表]]にとって初の公式戦([[AFCアジアカップ]]の[[AFCアジアカップ2004 (予選)|2004年大会予選]])が実施された。最初の試合は2003年3月21日に[[サッカースリランカ代表|スリランカ]]に2-3で敗れ、続く3月23日には[[サッカーチャイニーズタイペイ代表|チャイニーズタイペイ]](台湾)に0-3で敗れた。FFTLは2005年9月12日にFIFA加盟が認められ、現在は[[アジアサッカー連盟]](AFC)にも加盟している。国内リーグとして[[東ティモール・サッカーリーグ]]がある。\n\n東ティモール代表が参加する公式戦は徐々に増加している。アジアカップは前述の2004年大会では予選に参加したが、[[AFCアジアカップ2007 (予選)|2007年大会予選]]には棄権し、AFC内の[[FIFAランキング]]下位のチームが参加する[[AFCチャレンジカップ]]にも参加していない。一方、[[東南アジアサッカー選手権]]には2004年から参加し、2008年には[[サッカースリランカ代表|スリランカ]]に2-2で引き分けて同チーム史上初の[[国際Aマッチ]]での[[勝ち点]]を獲得、2012年に[[サッカーカンボジア代表|カンボジア]]に勝利して同じく初勝利を記録した。また、[[FIFAワールドカップ]]の予選には[[2010 FIFAワールドカップ・アジア予選|2010年大会予選]]から参加。2010年大会予選・[[2014 FIFAワールドカップ・アジア予選|2014年大会予選]]は1次予選でそれぞれ[[サッカー香港代表|香港]]・[[サッカーネパール代表|ネパール]]に敗れ敗退したものの、[[2018 FIFAワールドカップ・アジア予選|2018年大会予選]]では[[サッカーモンゴル代表|モンゴル]]を破って初めて1次予選を突破した(2次予選は0勝2分6敗で敗退)。2013年時点の[[FIFAランキング]]では180位前後で、いわゆる「最弱国」のひとつとみなされている。\n\nスポーツ全体を統轄する組織としては、2003年にオリンピックの[[国内オリンピック委員会]](NOC)である東ティモールオリンピック委員会が結成され、[[国際オリンピック委員会]](IOC)や[[アジアオリンピック評議会]](OCA)に参加した。国が独立準備中だった[[2000年シドニーオリンピック]]ではNOC設立前だった東ティモールの選手に対して[[2000年シドニーオリンピックの個人参加選手団|個人参加]]の特例が認められ、次の[[夏季オリンピック]]となった[[2004年アテネオリンピック]]では[[オリンピックの東ティモール選手団|東ティモール選手団]]としての初参加が実現した。ただし、今までにオリンピックで東ティモール選手団がメダルを獲得したことはない。また、2003年からは[[東南アジア競技大会]]に参加し、2005年には[[武術]]で3つの銅メダルを獲得した[OCA NOCS Timor Leste [http://www.ocasia.org/NOCs/NocCountries.aspx?Nocs=43]]。\n\n== 脚注 ==\n{{脚注ヘルプ}}\n=== 注釈 ===\n{{Reflist|group=\"注釈\"}}\n=== 出典 ===\n{{Reflist|colwidth=30em}}\n{{Reflist|2}}\n\n== 参考文献 ==\n{{節スタブ}}\n* {{cite book |last=Schwarz |first=A. |year=1994 |title=A Nation in Waiting: Indonesia in the 1990s |publisher=Westview Press |isbn=1-86373-635-2}}\n\n== 関連項目 ==\n{{ウィキポータルリンク|東南アジア|[[ファイル:SE-asia.png|45px|Portal:東南アジア]]}}\n* [[西ティモール]]\n* [[東ティモール関係記事の一覧]]\n* {{仮リンク|ティモール・ギャップ|en|Timor Gap}}\n* [[ポルトガル語諸国共同体]]\n\n== 外部リンク ==\n{{wikisource|東チモールを承認した件|東チモールを承認した件|[[外務省]][[告示]]文}}\n{{Commons&cat|East Timor|East Timor}}\n; 政府\n:* [http://www.pm.gov.tp/welcome.htm 東ティモール首相府・内閣府] {{en icon}}\n:* [https://web.archive.org/web/20111013181113/http://www.mfac.gov.tp/ 東ティモール外務・協力省] {{en icon}}\n:\n; 日本政府\n:* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/ 日本国外務省 - 東ティモール] {{ja icon}}\n\n{{アジア}}\n{{CPLP}}\n{{Normdaten}}\n----\n\n''このページは[[プロジェクト:国|ウィキプロジェクト 国]]のテンプレートを使用しています。''\n\n{{デフォルトソート:ひかしていもおる}}\n[[Category:東ティモール|*]]\n[[Category:共和国]]\n[[Category:島国]]\n[[Category:2002年に成立した国家・領域]]"}
+{"title": "アルバニア", "text": "{{基礎情報 国\n | 略名 =アルバニア\n | 日本語国名 =アルバニア共和国\n | 漢字表記 =阿爾巴尼亜共和国\n | 公式国名 ='''{{Lang|sq|Republika e Shqipërise}}'''\n | 国旗画像 =Flag of Albania.svg\n | 国章画像 =[[ファイル:Albania state emblem.svg|80px|アルバニアの国章]]\n | 国章リンク =([[アルバニアの国章|国章]])\n | 標語 =Ti Shqipëri, më jep nder, më jep emrin Shqipëtar \n | 位置画像 =Europe-Albania.svg\n | 公用語 =[[アルバニア語]]\n | 首都 =[[ティラナ]]\n | 最大都市 =ティラナ\n | 元首等肩書 =[[アルバニアの大統領|大統領]]\n | 元首等氏名 ={{ill2|イリール・メタ|en|Ilir Meta}}\n | 首相等肩書 ={{ill2|アルバニアの首相|en|Prime Minister of Albania|label=首相}}\n | 首相等氏名 ={{ill2|エディ・ラマ|en|Edi Rama}}\n | 面積順位 =143\n | 面積大きさ =1 E10\n | 面積値 =28,748\n | 水面積率 =4.7%\n | 人口統計年 =2013\n | 人口順位 =133\n | 人口大きさ =1 E6\n | 人口値 =3,011,405\n | 人口密度値 =104\n | GDP統計年元 =2013\n | GDP値元 =1兆3,445億[{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=914&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=42&pr.y=9|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-10-18}}]\n | GDP統計年MER =2013\n | GDP順位MER =125\n | GDP値MER =127億\n | GDP統計年 =2013\n | GDP順位 =117\n | GDP値 =295億\n | GDP/人 =10,596\n | 建国形態 =[[独立]]
- 日付\n | 建国年月日 =[[オスマン帝国]]から
[[1912年]][[11月28日]]\n | 通貨 =[[レク (通貨)|レク]]\n | 通貨コード =ALL\n | 時間帯 =+2\n | 夏時間 =+3\n | 国歌 =[[旗への賛歌|国旗への賛歌]]\n | ISO 3166-1 = AL / ALB\n | ccTLD =[[.al]]\n | 国際電話番号 =355\n | 注記 =\n}}\n[[File:Butrint_-_Ancient_amphitheatre_(by_Pudelek).JPG|thumb|300px |アルバニアの最南端にある[[世界遺産]]の[[ブトリント]]遺跡。
\n {{Location map | Albania#Europe | float = center | relief = 1 | 300px | caption = アルバニアと[[首都]][[ティラナ]]の位置。}} ]]\n'''アルバニア共和国'''(アルバニアきょうわこく、{{lang-sq|Republika e Shqipërise}})、通称'''アルバニア'''は、[[東ヨーロッパ]]の[[バルカン半島]]南西部に位置する[[共和制]][[国家]]。[[首都]]は[[ティラナ]]。\n\n西は[[アドリア海]]に面し、対岸は[[イタリア]]である。北は[[モンテネグロ]]、北東は[[コソボ]](コソボを独立国と認めない立場からすれば[[セルビア]])、東は[[北マケドニア]]、南は[[ギリシャ]]と[[国境]]を接する。\n\n[[宗教]]の信者数は[[オスマン帝国]]支配等の歴史的経緯から、[[ムスリム|イスラム教徒]]である国民が大半を占めるが、信仰形態は非常に[[世俗主義|世俗的]]である[イスラム教において[[ハラール]]([[食のタブー]])とされる[[イスラム教における飲酒|飲酒]]をしたり、[[豚肉#豚肉のタブー|豚肉]]を食べたりする者も珍しくない。井浦伊知郎『アルバニアインターナショナル』参照。]。また、[[キリスト教]]の[[正教会]]や[[カトリック教会|カトリック]]の信者も少なくない。なお、[[欧州]]で唯一の[[イスラム協力機構]]正規加盟国である。\n[[画像:Coat of arms of Albania (1992-1998).svg|thumb|right|150px|1992年 - 1998年の国章]]\n[[画像:Latin (usually Albanian) Merchant Flag 1453-1793.svg|thumb|right|150px|{{FIAV|historical|}}[[オスマン帝国]]時代アルバニア系人の旗(1453–1793)]]\n\n== 国名 ==\n正式名称はアルバニア語で'''Republika e Shqipërise'''({{IPA-sq|ɾɛpuˈblika ɛ ʃcipəˈɾiːs}} レプブリカ・エ・シュチパリセ)、通称は'''Shqipëri'''(不定形)/'''Shqipëria'''(定形)({{IPA-sq|ʃcipəˈɾi, ʃcipəˈɾiːa|}} シュチパリ、シュチパリア)。\n\n公式の英語表記は'''Republic of Albania'''({{IPA-en|rɪˈpʌblɪk əv ælˈbeɪniə, ɔːlˈbeɪniə|}} リパブリク・オヴ・エルベイニア、オールベイニア)、通称は'''Albania'''(エルベイニア、オールベイニア)。\n\n日本語の表記は'''アルバニア共和国'''、通称は'''アルバニア'''。[[国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]は、'''阿爾巴尼亜'''。\n\nシュチパリアとは[[アルバニア語]]で「[[鷲]]の国」を意味し、[[アルバニア人]]が鷲の子孫であるという伝説に由来する。これに対し、他称の「アルバニア」は[[ラテン語]]の「albus(白い)」が語源とされ、語源を同じくする[[アルビオン]]と同様アルバニアの地質が主に[[石灰岩]]質で白いことから「白い土地」と呼んだことに由来する。\n\n== 歴史 ==\n{{Main|アルバニアの歴史}}\n古代には[[イリュリア]]と呼ばれた。[[紀元前1000年]]頃から、[[インド・ヨーロッパ語族]]に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人が住むようになった。イリュリア人は南方の[[古代ギリシア]]文化の影響を受け、またいくつかの[[古代の植民都市#古代ギリシアの植民地|ギリシャ植民地]]が建設された。\n\n[[紀元前2世紀|前2世紀]]には[[ローマ帝国]]の支配下となり、東西ローマの分裂においては[[東ローマ帝国]]に帰属した。\n\n=== オスマン帝国領時代 ===\n{{Main|{{仮リンク|オスマン帝国統治下のアルバニア|en|Ottoman Albania}}}}\n[[14世紀]]以降、東ローマ帝国の衰退とともに、幾つかの国に支配された後、[[オスマン帝国]]による侵攻が始まる。[[スカンデルベク]]により、一時的に侵攻は阻止され、独立が守られるが、[[1478年]]にはオスマン帝国の完全支配下に入った。以降、400年間にわたるオスマン帝国支配の下、アルバニアにおける風俗や風習は多大な影響を受けることとなった。特に[[地主]]をはじめとする支配階級による[[キリスト教]]から[[イスラーム教]]への改宗が相次いだため、同じオスマン帝国支配下にあった[[ブルガリア]]等とは異なり、現在アルバニア人の半数以上が[[ムスリム]]であるといわれる(もっとも、アルバニア人の多くはキリスト教徒から改宗した出自のためか、現在も家に[[イコン]]画を飾る風習など、[[正教会]]や[[カトリック教会|カトリック]]との共通点を多く持つ)。\n\n[[File:Principality of Albania.svg|thumb|left|220px|提案された[[アルバニア公国]]の国境線([[1912年]] - [[1914年]])]]\n長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から「[[アルバニア人]]」意識の形成が遅れたが、[[19世紀]]末には[[民族]]意識([[ナショナリズム]])が高揚し、[[1878年]]の[[プリズレン連盟]](アルバニア国民連盟、[[プリズレン]]は現在の[[コソボ]]にある都市の名)結成以降は民族運動が相次いだ。\n\n=== 独立 ===\n{{Main|アルバニア公国|アルバニア共和国 (1925年-1928年)|アルバニア王国 (近代)}}\n[[第1次バルカン戦争]]の後、[[1912年]]に[[イスマイル・ケマル]]らがオスマン帝国からの独立を宣言する。しかし、[[列強]]に独立は認められたものの、国境画定の際に[[コソボ]]など独立勢力が「国土」と考えていた地の半分以上が削られた(「[[大アルバニア]]」を参照)。[[1914年]]に[[ドイツ帝国]]の[[貴族]]ヴィート公子[[ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィート|ヴィルヘルム・ツー・ヴィート]]を[[公]]に迎え、[[アルバニア公国]]となったものの、[[第一次世界大戦]]で公が国外に逃亡したまま帰国しなかったため、[[無政府状態]]に陥った。\n\n[[1920年]]には[[君主]]不在のまま[[摂政]]を置く形で政府は再建されたが、その後も政情は不安定であり、[[1925年]]には[[共和国]]宣言を行い[[ゾグー1世|アフメド・ゾグー]]が[[大統領]]に就任した([[アルバニア共和国 (1925年-1928年)|アルバニア共和国]])。\n\nその後、ゾグーは[[1928年]]に王位について[[ゾグー1世]]を名乗り、再びアルバニアには[[君主政]]の[[アルバニア王国 (近代)|アルバニア王国]]が成立した。\n\n[[1939年]][[4月7日]]、アルバニアに上陸した[[イタリア軍]]は簡単な戦闘の後、\n全土に[[進駐]]し[W.チャーチル、佐藤亮一訳『第二次世界大戦 1』(河出文庫版)P248.]、ゾグーは王妃と共に[[亡命]]した([[イタリアのアルバニア侵攻]])。[[イタリア王国]]との[[同君連合]]という形で[[国王]]には[[イタリア王|イタリアの国王]]が即位し、親伊派の[[傀儡政権]]が置かれた。[[第二次世界大戦]]時の[[1940年]]にはイタリアによるギリシャ侵攻([[ギリシャ・イタリア戦争]]、[[ギリシャの戦い]])によって南部の各地域が激戦地となった。翌1941年には、イタリアは同じ[[枢軸国]]である[[ナチス・ドイツ]]などとともに、アルバニア北隣の[[ユーゴスラビア侵攻|ユーゴスラビアに侵攻]]。[[独ソ戦]]も始まり、バルカン半島全体が戦場となった。[[1943年]]にイタリアが[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に[[イタリアの降伏|降伏]]すると、アルバニアは[[ドイツ軍]]によって占領された。\n\n=== 社会主義時代 ===\n{{Main|アルバニア社会主義人民共和国}}\n[[1944年]]11月29日、{{仮リンク|アルバニアのパルチザン|en|Albanian resistance during World War II}}と[[ソビエト連邦]]軍による全土解放が行われ、[[アルバニア共産党]]を中心とした[[社会主義]]臨時政府が設立された。\n\n[[1946年]]には王政廃止と[[アルバニア人民共和国]]設立を宣言、[[エンヴェル・ホッジャ]]を首班とする[[共産主義]]政権が成立した。[[1948年]]、アルバニア共産党は[[アルバニア労働党]]と改名した。同年、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]が[[コミンフォルム]]を脱退したことに伴い、ユーゴスラビアと[[断交]]した。\n\nホッジャ政権は[[1961年]]以降、[[スターリン批判]]を行ったソビエト連邦を「[[修正主義]]」と名指しで非難し、ソ連も[[ニキータ・フルシチョフ]]が第22回[[ソ連共産党]]大会においてアルバニアを批判するも、出席していた[[中華人民共和国]]の[[周恩来]]はアルバニアを擁護し、[[中ソ対立|中ソの路線の違いが鮮明]]になる。\n[[image:Mao Zedong and Enver Hoxha.jpg|thumb|[[毛沢東]]と[[エンヴェル・ホッジャ]]]]\nソ連と対立していた中華人民共和国に接近して大規模な援助を受け、この時期の[[アルバニア軍]]は、兵士が[[人民服]]に類似した[[軍服]]を着用し、中国製の[[56式自動歩槍]]とそのコピーの[[ASh-78]]を制式小銃に採用して[[59式戦車]]や[[J-6 (航空機)|J-6]]戦闘機なども配備されるなど、当時のワルシャワ条約機構軍を構成する周辺諸国と比較しても異様な軍隊となる。[[1968年]]には[[ワルシャワ条約機構]]を脱退すると、実質的にソ連を[[仮想敵国]]とした極端な軍事政策を取った。[[領土問題]]を抱えていた隣国ユーゴスラビアとも、[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]大統領を「[[チトー主義]]者」であると規定し、激しく対立していた。国民ほとんどに行き渡る量の銃器を保有する[[国民皆兵]]政策は、現在の治安状態に暗い影を落としている。また[[1967年]]に中国の[[文化大革命|プロレタリア文化大革命]]に刺激されて「[[国家無神論|無神国家]]」を宣言、一切の宗教活動を禁止した。更に、[[1976年]]からは国内全土に[[コンクリート]]製の[[トーチカ]]([[石灰石]]は国内で自給できる数少ない鉱産資源のひとつである)を大量に建設し、国内の武装体制を強めた。ホッジャの在任中、50万以上のトーチカが建設され、現在でも国内に僅かに残っている。1970年代には[[核戦争]]を想定して、ティラナ東方の山腹に部屋106室、広さ2,685平方メートルの大型[[核シェルター]]が建設された[{{Cite news\n|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3032532?ctm_campaign=pcpopin|title=独裁者の核防空壕を一般公開、観光資源に アルバニア|work=AFPBBNews|publisher=[[フランス通信社]]|date=2014-11-24|accessdate=2014-12-23}}]。一方で農業や教育を重視して[[識字率]]を5%から98%に改善して[[食料自給率|食糧の自給]]も達成していた[40 Years of Socialist Albania, Dhimiter Picani]。同年、国号を「[[アルバニア社会主義人民共和国]]」へ改称した。\n\n[[1976年]]に[[毛沢東]]主席の死によって中国で文化大革命が終息し、[[1978年]]に[[鄧小平]]が[[改革開放]]路線に転換するとホッジャは中国を批判した({{仮リンク|中ア対立|en|Sino-Albanian split}})。当時の経済状況から決して多くなかった中国の援助もなくなり、[[1980年代]]には、欧州の[[最貧国]]とまで揶揄されるに至った。当時の[[西欧]]各国の左派政党が採択していた[[ユーロコミュニズム]]路線や隣国ユーゴスラビアのチトー主義、更に社会主義国でも同様の独自路線を行っていた[[ルーマニア]]や[[北朝鮮]][Enver Hoxha, \"Reflections on China II: Extracts from the Political Diary\", Institute of Marxist-Leninist Studies at the Central Committee of the Party of Labour of Albania,\" Tirana, 1979, pp 516, 517, 521, 547, 548, 549.]すらも批判したホッジャは「アルバニアは世界唯一の[[マルクス・レーニン主義]]国家である」と宣言し[Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. II. Tirana: 8 Nëntori Publishing House.][Vickers, Miranda (1999). The Albanians: A Modern History. New York: I.B. Tauris & Co Ltd. p. 203. p. 107]、事実上アルバニアの[[鎖国]]とも言える状況[『[[NHK特集]] 現代の鎖国アルバニア』([[日本放送出版協会]]、1987年)]を招いた。体制の引き締めを狙って政府高官の[[粛清]]も行われ、ホッジャに次ぐナンバー2の権力の地位にあった[[メフメット・シェフー]]首相は、1981年不可解な自殺を遂げている。\n\n上記のように国際的な孤立を深める一方で、「[[ホッジャ主義]]」と呼ばれる独自の理論を掲げたアルバニア労働党とその支持者たちは、主に[[第三世界]]の左派において大きな位置を占めていた[[毛沢東主義]]者に対して、[[イデオロギー]]的に勝利することに成功した。[[日本共産党(左派)]]、[[ブラジル共産党]]、[[コロンビア人民解放軍]]のようにホッジャの思想に共鳴し、一時的ながら[[毛沢東主義]]より[[転向]]する勢力も現れた。\n\n[[1989年]]から全国的に反政府[[デモ]]が続発し、ホッジャの後継者の[[ラミズ・アリア]]が[[1990年]]から徐々に開放路線に転化を開始した。当時の情勢については「[[ソ連崩壊]]」「[[東欧革命]]」「[[ユーゴスラビア紛争]]」も参照。\n\nなおこの間に、それまで外交関係がなかった[[日本国]]との[[国交]]を[[1981年]]に樹立している。\n\n=== アルバニア共和国 ===\n[[1991年]]に国名を「'''アルバニア共和国'''」に改称した。アリアは経済の開放とともに[[政党]]結成を容認したが、国内の混乱を抑えられず、[[1992年]]の総選挙によって、戦後初の非共産政権が誕生した。民主化後の[[サリ・ベリシャ]]政権は、共産主義時代の残滓の清算や[[市場主義経済]]の導入、外国からの援助導入などを政策化し、国際社会への復帰を加速させた。しかし、市場主義経済移行後の[[1990年代]]に[[無限連鎖講|ネズミ講]]が流行し、[[1997年]]のネズミ講の破綻で、国民の3分の1が全財産を失い、もともと脆弱を極めたアルバニアの経済は一瞬で破綻した({{仮リンク|アルバニアのネズミ講|en|Pyramid schemes in Albania}})。多くの市民が抗議のために路上に繰り出し、詐欺から国民を守ることができなかった政府への不満から暴徒化し、これによって政権が転覆し、無秩序状態となるという[[暴動]]が発生した([[1997年アルバニア暴動]])。暴動の発生を受け、暴動収束のための妥協案として同年中に総選挙が実施され、[[アルバニア労働党]]を前身とする[[アルバニア社会党]]が与党となり、一応の沈静化を見せたものの、未だ尾を引いているともいわれている。\n\n[[2005年]]9月の総選挙で民主党が56議席を確保し比較第一党となり、18議席を確保した国民戦線、4議席の環境農民党・2議席の人権党連合と連立を組んで民主党のサリ・ベリシャを再び政権に送り込んだ。社会党は42議席を獲得し、最大野党となった。\n\n[[2007年]]の大統領選出は立候補が無く、5回期限が延長された。サリ・ベリシャは、大統領選挙を直接選挙制にすべきだとの声明を出したが、2007年の大統領選挙には間に合うものではなかった。社会党党首の[[エディ・ラマ]]は総選挙を行った上で民意を反映すべきだとしたが、世論はこれを支持しなかった。\n\n結局、民主党副議長の[[バミール・トピ]]と社会党前党首の{{仮リンク|ファトス・ナノ|en|Fatos Nano}}が立候補を表明した。これに対して、社会党はナノを支持せず、欠席戦術を用いた。トピがいずれの選挙でも勝利したものの、得票数が84に満たないために就任できなかった。また、第3回の選挙には、民主同盟党の[[ネリタン・セカ]]が出馬し、打開への期待からか32票を得た。第4回の選挙に際して、議会空転を終結させるため、ナノは立候補を取りやめ、トピを支持した。その結果、出席90名、得票85票でバミール・トピは大統領に選出された。この後、ファトス・ナノは社会党を離党し、連帯行動党を結党した。\n\n[[2009年]][[4月28日]]、ベリシャ首相は[[プラハ]]を訪問し、[[欧州連合]] (EU) 議長国[[チェコ]]の[[ミレク・トポラーネク]]首相にEU加盟を申請した。[[2014年]][[6月]]よりEU加盟候補国。\n\n== 政治 ==\n{{Main|{{仮リンク|アルバニアの政治|en|Politics of Albania}}}}\n=== 行政 ===\n[[ファイル:Sali Berisha and Yasuo Fukuda 20080205 1.jpg|thumb|200px|アルバニア[[首相]][[サリ・ベリシャ]](左)と日本の[[内閣総理大臣]][[福田康夫]](右)([[2008年]][[2月5日]]、[[総理大臣官邸]]にて)]]\n[[元首|国家元首]]は[[アルバニアの大統領|大統領]]で、任期は5年、[[議会]]の60%以上の賛成を獲得することによる[[間接選挙]]によって選出される。また、[[首相]]は大統領により任命され、[[閣僚]]は首相の推薦の下で大統領が指名するが、最終的に議会からの承認も得る必要がある。\n\n=== 立法 ===\n[[立法府]]たる[[アルバニア議会]]は、[[一院制]]で任期4年、全140議席である。うち、100議席は[[小選挙区制]]、40議席は[[比例代表制]]によって選出される[[小選挙区比例代表併用制]]。\n\n=== 政党 ===\n[[アルバニア労働党]]([[1991年]]に[[アルバニア社会党|社会党]]に党名変更)が[[冷戦]]期を通じて一党独裁を行う[[共産主義]]体制だったが、[[1990年]]より[[東欧革命|東欧民主化]]の影響を受けて、対外開放や複数政党制の導入などの民主化を始めた。1991年の初総選挙では社会党が連立によって政権を維持したものの、翌[[1992年]]3月の総選挙で[[アルバニア民主党]]を中心とした勢力が大勝利を収めた。これを受けて、第一書記から大統領となった[[ラミズ・アリア]]はその職を辞任。民主党の[[サリ・ベリシャ]]が第2代大統領として選出された。[[1996年]]に再選。\n\n[[1997年]]1月国民の大半が加入していたねずみ講会社の破産を原因として[[1997年アルバニア暴動|アルバニア暴動]]が発生。6月の議会選挙の結果を受け、7月に[[サリ・ベリシャ]]は辞任。社会党の[[レジェプ・メイダニ]]を大統領として、社会党政権が成立した。[[2001年]]の総選挙では社会党は73議席を獲得し、6割を確保できなかったため、大統領には民主党の[[アルフレッド・モイシウ]]が就任したが、依然として社会党内閣が続いた。\n\n現在、アルバニアには[[アルバニア社会党]]、[[アルバニア民主党]]、[[緑の党 (アルバニア)|緑の党]]、[[社会民主党 (アルバニア)|社会民主党]]、[[人権党連合 (アルバニア)|人権党連合]]など十数の[[政党]]がある。\n\n[[2012年]]にはギリシャの[[極右]]政党「[[黄金の夜明け (ギリシャ)|黄金の夜明け]]」とつながりがあるとされ、[[コソボ]]との[[国家連合|連合国家]]形成を主張する極右政党「[[赤黒連合]]」が結成された。2013年6月の総選挙で同党は、投票総数の0.59%にあたる1万196票を得たが、議席の獲得はできなかった。\n\n=== 外交 ===\n{{main|{{仮リンク|アルバニアの国際関係|en|Foreign relations of Albania}}}}\n鎖国状態から対外開放に転じた1990年代以降、[[先進国|先進諸国]]や[[国際機関]]との関係拡大を進めてきた。2009年に[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟し、EU加盟を目標としている。フランスやオランダ、デンマークなどはバルカン半島諸国がEUに加盟することで移民が西欧諸国に流入しやすくなり、移民反対を掲げる政党が増長しかねないという懸念からアルバニアや[[北マケドニア]]の加盟交渉入りに反対し続けたものの、2020年2月に[[欧州委員会]]が加盟交渉の改革案を提示したことでフランスなどが態度を軟化させ、同年3月24日に加盟交渉入りすることが決定した[{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57194850V20C20A3FF8000/|title=EU、英抜きで再拡大へ バルカン諸国の加盟交渉で合意|work=日経電子版|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2020-03-26|accessdate=2020-03-26}}]。\n\nヨーロッパの中ではアドリア海対岸の隣国イタリアとの経済的結びつきが強く、主要な貿易相手国の一つである。[[アメリカ合衆国]]には政府レベル、国民世論ともに強い親近感を抱いている[[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/albania/data.html アルバニア共和国(Republic of Albania)基礎データ]日本国[[外務省]](2019年11月9日閲覧)]。2019年11月には、[[ペルシア湾]]で[[イラン]]などを警戒するアメリカ主導の有志連合に参加した[[https://www.asahi.com/articles/ASMC81R7ZMC8UHBI003.html 「イラン包囲網」米主導の船舶護衛活動開始 日本見送り][[朝日新聞デジタル]](2019年11月8日)2019年11月9日閲覧]。\n\nアルバニア人が多数を占めるコソボの国造りと、コソボ[[国家の承認|承認]]国を増やすための支援を行っている[。\n\n{{節スタブ}}\n\n== 地方行政区分 ==\n{{main|アルバニアの州|アルバニアの基礎自治体}}\nアルバニアは12の州 (qark)、61の基礎自治体 (komuna) に分けられる。\n\n== 地理 ==\n{{Main|{{仮リンク|アルバニアの地理|en|Geography of Albania}}}}\n[[ファイル:Albania-map-ja.jpeg|right|thumb|320px|アルバニアの地図。]]\nアルバニアの国土は最大で南北が約340km、東西が150kmである。海岸部の[[平野]]以外は起伏があって山がちな地形が多く、国土の約7割が海抜高度300m以上である。[[モンテネグロ]]、[[セルビア]]、[[マケドニア共和国]]との国境地帯には[[ディナル・アルプス山脈|ディナラ・アルプス]]山系の2000m級の山々が列を成しており、一番高い山はディバル地区にあるコラビ山で、2,753メートルに達する。\n\n海岸付近の低地は典型的な[[地中海性気候]]で降雪は珍しいが、内陸部の高地は[[大陸性気候]]で冬には大量の降雪がある。年間降水量は1,000mmを超える。[[夏]]の最高気温は30℃以上となるが、[[冬]]の最低気温は海岸部で0℃、内陸部で-10℃以下となる。また、国土の北西はモンテネグロにまたがりバルカン半島最大の湖である[[シュコダル湖]](約360[[平方キロメートル|平方キロ]])に面しており、南東部には[[オフリド湖]]、[[プレスパ湖]]がある。オフリド湖が源の[[ドリン川]]が約280kmにわたって国内を流れ、[[シュコドラ州]]で数本の水流に別れて[[アドリア海]]に注いでいる。国土の約40%が[[森林]]で、[[ブナ]]や[[マツ|松]]などが多い。\n\n=== 主要都市 ===\n{{Main|アルバニアの都市の一覧}}\n首都のティラナ以外の主要な都市としては[[ドゥラス]]、[[エルバサン]]、[[シュコドラ]]、[[ギロカストラ]]、[[ヴロラ]]、[[コルチャ]]、ブローラ、サランダなどがある。\n\n== 経済 ==\n{{Main|{{仮リンク|アルバニアの経済|en|Economy of Albania}}}}\n[[File:Tirana Skanderbeg Square.jpg|thumb|left|アルバニア最大の都市である首都[[ティラナ]]]]\n\n[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]のアルバニアの[[国内総生産|GDP]]は127億ドルである。一人当たりGDPは4,565ドルで、これは世界平均の40%ほどの水準だが、[[バルカン半島]]では最下位に位置している]。\n\n上述したように、アルバニアは第二次世界大戦後に米ソ両陣営と距離を置き、[[1978年]]から完全な鎖国状態となった。経済は低調で、長年欧州最貧国の扱いを受けていた。国民は皆貧しく、ある意味では平等な状態にあった。\n\n[[1990年代]]に[[市場経済]]が導入された際には、投資会社という名目で[[ネズミ講|ねずみ講]]が蔓延した。ねずみ講は通常、新規参入者がいなくなった時点で資金が集まらなくなり、配当ができなくなることによって破綻する。しかしアルバニアの場合、集めた資金で[[武器]]を仕入れ、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]の紛争当事者へ売り払うことによって収入を得、配当を行っていた[『アルバニア:「国民平等に貧しい」と「ねずみ講バブル」の関係』2008年3月6日付配信 [[日経ビジネス]]オンライン]。他に、国民の半分がはまったと言われるまでにねずみ講が蔓延した理由としては、[[社会主義国|社会主義国家]]で[[鎖国]]状態であったために、国民に市場経済の金融・経済についての教育が行われず、国民が「投資とはこんなものだ」と思い、ねずみ講の危険性に気づかなかったことも挙げられる。また、武器の購入を通じて[[麻薬]]などの[[組織犯罪]]([[アルバニア・マフィア]])とも深く関わりを持つこととなり、[[汚職]]が蔓延した。ねずみ講投資会社は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結とともに破綻した。\n\nその後は経済回復を続け、2000年に[[世界貿易機関]](WTO)加盟。税制改革や、外資を呼び込もうと誘致活動を行っている。外資の誘致については、[[インフラストラクチャー]]が脆弱であることが課題となっている。例えばアルバニアの[[電力]]は山がちな地形を生かした[[水力発電]]が支えており、水力で総発電量の98.8%を占めている。この水力については、施設の老朽化による電力不足が課題となっている。しかし近年では新規の水力発電所の建設、送電線網の更新が進み、2017年頃からは長期の[[停電]]のような事態は都市部、地方を含めて起きにくくなっている。\n\nホッジャを首班とする[[独裁政治|独裁政権]]下では、国民は渡航規制、外国書物及び放送の規制を強いられており国民にとっては海外の文化や情報を得る手段は無に等しかった。1990年以降の市場開放により、同じ[[ヨーロッパ]]に属する隣国イタリアの名物である[[ピザ]]や、[[バナナ]]といった果物を初めて知ったという国民もいた[[[佐藤和孝]]著『戦場でメシを食う』([[新潮社]])第三章「アルバニア-世界でもっとも孤立した国」]。\n\nユーロ圏への貿易、ギリシャ、イタリアへの出稼ぎが多くユーロ圏の経済に大きく影響を受ける構造である。\n\n=== 農業 ===\n{{Main|{{仮リンク|アルバニアの農業|en|Agriculture in Albania}}}}\n[[File:Albania outside of Peshkopi.jpg|220px|thumb|right|アルバニアの農家]]\nアルバニアは山がちな地形にも関わらず、国土に占める[[農地]]面積が25.5%と高い。伝統的に[[農業]]従事者の比率が高く、政府は農業以外の産業確立に苦心してきた。\n\n1940年時点における農業人口の比率は85%であったが、1989年には55%、2004年時点では21%まで下がった。なお、農業人口の減少は同国の経済体制の変化にも原因がある。\n\n1946年に創設された[[集団農場]]は成長を続け、1973年には全ての農場が集団化(社会主義化)された。しかしながら1991年に集団農業を放棄したことで、生産額が1年間に20%低下し、一時的に大打撃を受けている。その後、農業生産は持ち直し、労働生産性が向上した。\n\n主な生産品目は主食の[[コムギ|小麦]]、生産額は2004年時点で30万トンである。その他の麦や、[[トウモロコシ]]や[[ジャガイモ]]の生産も盛ん。[[地中海性気候]]に適した[[オリーブ]]や[[ブドウ]]、[[桃]]、[[ザクロ]]、[[クルミ]]、[[レモン]]、[[メロン]]、[[オレンジ]]、[[スイカ]]も生産している。\n\n[[食糧自給率]]については、1995年時点では95%と発表されていたが、2003年時点では[[輸入]]に占める最大の品目が食料品(輸入の19.6%)となっている。\n一方、近年では農産物加工品の輸出も盛んになりつつある。\n\n=== 鉱業 ===\n[[File:Mallakastra-oil.jpg|thumb|[[マラカスタル県]]の[[油田]]]]\n鉱物資源はある[平野英雄「アルバニアの金属資源」『地質ニュース』531号 1998年11月 pp.43-51[http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1998/11/98_11_05.pdf PDF]]が、長年の鎖国政策や、近年の社会的混乱によってインフラが乏しいため、生産は低調である。\n\n典型的なのが[[クケス|クケス市]]など3カ所の[[鉱山]]から採掘されている同国第一の鉱物資源[[クロム|クロム鉱]]である。第二次世界大戦直前の1938年時点ではわずか7000トンだったクロム鉱の採掘量は、[[1970年代]]には世界第3位に達し、[[1987年]]には108万トンまで伸びた。しかし、1991年には50万トンに、2003年には9万トンまで落ち込んでいる。同じ傾向は[[銅|銅鉱]](1991年に至る5年間で銅鉱の産出量が半減)、[[ニッケル]]についても見られる。\n\n有機鉱物は、品位の低い[[亜炭]]、[[原油]]、[[天然ガス]]を産出する。[[塩]]、[[石灰岩]]の生産も見られる。[[天然アスファルト]]は生産量こそ少ないものの、アルバニアの特産品として知られている。\n\n=== 工業 ===\n工業は、[[輸出]]については衣類を中心とした軽工業が主体である。繊維自体の生産は小規模であり、布・皮からの衣服の加工、[[縫製]]が主となる。アルバニアの輸出に占める工業製品の割合は82.6%(2003年)に達する。品目別に見ると衣類34.2%、靴などに用いる皮革26.1%であり、輸出工業品目の過半数を占める。この他の工業製品としては鉄鋼、[[卑金属]]が輸出に貢献している。\n\n輸出相手国は、イタリアとの関係が深い(輸出の74.9%がイタリア向け)。イタリアの繊維産業と深く結びついた工業形態となっていることが分かる。イタリア企業向けの[[コールセンター]]が起業されるなど海外向けのサービス業の発展が近年では顕著である。\n\n=== 観光 ===\n2010年頃から南部の海岸地帯を中心に観光業の発展が著しいものとなっている。特にブローラ県ではホテル、リゾートマンションが多数建設され、夏季には多くの国内外の観光客で賑わう。国民の多くが非常に世俗的なイスラム教徒であるため、レストランでのアルコールおよび豚肉料理の提供には制限はなく、内外の観光客で賑わっている。ビーチバー、カフェ、ストリップ劇場も多数営業し、イタリア、中国、ごくわずかながら日本といった海外からの直接投資も始まっている。観光業が経済的なエンジンの一つとなりつつある。\n\n== 交通 ==\n{{main|{{仮リンク|アルバニアの交通|en|Transport in Albania}}}}\n道路インフラの整備が進められており、首都圏では高速道路、環状道路の整備はほぼ完了した。主要な都市を結ぶ高速道路網も整備も進められており、一部の区間では通行できるようになっている。ラマ首相のイニシアチブにより2018年より空港のある首都圏と南部の観光地帯を結ぶ高速道路の建設が本格化した。\n\n=== 鉄道 ===\n{{Main|{{仮リンク|アルバニアの鉄道|en|Rail transport in Albania}}}}\n{{節スタブ}}\n\n=== 空運 ===\n{{Main|アルバニアの空港の一覧}}\n{{節スタブ}}\n\n== 国民 ==\n{{Main|{{仮リンク|アルバニアの人口統計|en|Demographics of Albania}}}}\n=== 住民 ===\n[[アルバニア人]]が大部分であるが、国土の北部と南部では言語や風習に差異がある。南部には[[ギリシャ人]]などもいる他、国境付近には[[マケドニア人]]や[[モンテネグロ人]]もいる。\n\n=== 言語 ===\n{{Main|{{仮リンク|アルバニアの言語|en|Languages of Albania}}}}\n[[アルバニア語]]が[[公用語]]であるが、北部の[[ゲグ方言]]と南部の[[トスク方言]]に別れ、[[標準語]]はトスク[[方言]]に基づいている。歴史的な理由により[[イタリア語]]を話せる高齢者が多い。[[義務教育]]過程での[[英語]]教育が導入されており若年層のほとんどは英語を話す。南部の[[サランダ]]を中心とした地域に住むギリシャ系住民の間では、なまりの強い[[ギリシャ語]]を話す人々もいる。\n\n=== 宗教 ===\n{{Main|{{仮リンク|アルバニアの宗教|en|Religion in Albania}}|[[国家無神論]]|アルバニアのイスラム教|{{仮リンク|アルバニアにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Albania}}}}\n[[File:07Tirana Et'hem beu Mosque03.jpg|thumb|left|160px|[[ティラナ]]の[[ジャーミア・エトヘム・ベウト]]]]\nアルバニアの宗教を語る上で[[1967年]]の共産党政府が「[[無神論|無神]]国家(無神論国家)」を宣言したことが取り上げられる。マルクス・レーニン主義を国是とする国家では旧ソビエト連邦の首都[[モスクワ]]における[[救世主ハリストス大聖堂]]の爆破(1931年)や中華人民共和国の[[文化大革命]](1966-76年)など宗教弾圧は見られた。しかし、これらの国々であっても、宗教の弾圧は徹底されず、(一定の制限はあるが)寺院も宗教団体も存在して、信仰と宗教活動は容認されてきた。\n\n{{bar box\n|title=宗教構成(アルバニア)\n|titlebar=#ddd\n|float=right\n|bars=\n{{bar percent|[[イスラム教|イスラーム教]]|green|70}}\n{{bar percent|[[アルバニア正教会]]|lightblue|20}}\n{{bar percent|[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]|blue|10}}\n}}\n{{bar box\n|title=宗教構成(アルバニア、ワトソン研究所の調査より)\n|titlebar=#ddd\n|float=right\n|bars=\n{{bar percent|特になし|gray|70.12}}\n{{bar percent|[[正教会|東方正教会]]|lightblue|10.33}}\n{{bar percent|[[イスラム教|イスラーム教(スンニ派)]]|green|9.43}}\n{{bar percent|[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]|blue|8.09}}\n{{bar percent|[[ベクタシュ教団|ベクタシズム]]([[スーフィズム|イスラム神秘主義]]の一つ)|red|1.27}}\n{{bar percent|[[プロテスタント]]|brown|0.6}}\n{{bar percent|その他|black|0.7}}\n}}\n\nしかし、アルバニアは国内での激しい宗教対立を背景に1967年、共産圏では初めて、内外に「[[国家無神論|無神国家]]」を宣言した。これは国民全てがいずれの宗教も信仰しておらず、そのため国内にはいかなる宗教団体および宗教活動は存在しないという宣言である。この世界に類を見ない強力な宗教の弾圧と排除が特筆すべきものになったのは、当時のアルバニアの指導者[[エンヴェル・ホッジャ]]が過激な[[スターリニズム|スターリン主義者]]であったことと、アルバニアの国土面積と人口が旧ソ連や中国に比べて極めて小さかったこと、1970年代から鎖国体制に入ったことなどによる。そのため1970年代の鎖国体制以降、アルバニア国外では、アルバニアではどのような宗教が信仰されているのか、どのような宗教活動が行われているのかは、不明という状態となった。\n\n1990年、[[信教の自由]]が認められた。現在では多くの人々が穏健で世俗的な[[ムスリム]][2と同じ]、[[正教徒]]、[[カトリック教会|カトリック]]であり、異なる宗教の信者間での結婚にいかなる制約もない。異教徒同士のカップルも少なくない。公式のデータは右記の通りである。\n\n一方、最近では、信仰する宗教が特に無いという人々が多数派を占めていると言われている。\n[[ワトソン・インスティテュート]]([[:en:Watson Institute|ワトソン研究所]])の[[2004年]]度レポート『アルバニアにおける移民と民族集団-シナジーと相互依存』[[http://www.watsoninstitute.org/bjwa/archive/11.1/Essays/Barjarba.pdf 『アルバニアにおける移民と民族集団-シナジーと相互依存』(ワトソン・インスティテュート(Watson Institute))]'''(英語)''']でのデータは以下の通り。また、[[アメリカ合衆国]]の[[国務省]]が出した[[2007年]]度レポート『国際的な宗教の自由』[[http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2007/90160.htm アメリカ国務省『国際的な宗教の自由』'''(英語)''']]でも、国民は無宗教が多数派である事が述べられており、ワトソン研究所の調査と同じ形となっている。\nただし、[[イラク戦争]]以後、若者のごく一部に戒律的なイスラム教への回帰も散見されるようになってきた。\n\n== 文化 ==\n{{Main|{{仮リンク|アルバニアの文化|en|Culture of Albania}}}}\n[[File:A traditional male folk group from Skrapar.JPG|thumb|220px|伝統的な男性フォークグループ([[スクラパル県]])。]]\n[[File:Ismail Kadare.jpg|thumb|220px|[[アルバニア文学]]の作家、[[イスマイル・カダレ]]。]]\n[[File:Berat.jpg|thumb|220px|[[世界遺産]]、[[ベラト]]。]]\n長期にわたる[[オスマン帝国]]の支配の影響から、「[[アルバニア人]]」という民族意識の形成とそれに基づく民族文化の育成が遅れた。[[アルバニア語]]の学校教育は[[1887年]]に初めて開始され、その頃から民族意識高揚による「アルバニア・ルネサンス運動」が起きた。\n\n第二次世界大戦後の共産主義政権は、[[共産主義]]のイデオロギー的影響を強く受けながらも、強力な[[民族主義]]的立場で国民の[[啓蒙]]と文化水準向上に関する政策を展開した。地中海周辺の諸民族と比べ、比較的に温厚で忍耐強いと言われるが、[[家父長制]]的な伝統の要素が社会に残っており、[[フェミニズム|女性の地位向上運動]]が続いている。\n\n=== 食文化 ===\n{{Main|[[アルバニア料理]]}}\n{{節スタブ}}\n\n=== 文学 ===\n{{Main|{{仮リンク|アルバニア文学|en|Albanian literature}}}}\n* [[イスマイル・カダレ]]\n{{節スタブ}}\n\n=== 世界遺産 ===\n{{Main|アルバニアの世界遺産}}\nアルバニア国内には、[[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が2件存在する。\n\n=== 祝祭日 ===\n{| class=\"wikitable\"\n|+ 祝祭日\n! 日付 !! 日本語表記 !! 現地語表記 !! 備考\n|-\n| [[1月1日]]、[[1月2日]] || [[元日]] || Viti i Ri ||\n|-\n| [[3月22日]] || 新年の日([[春分]]の日) || Nevruz ||\n|-\n| 移動祝日 || [[カトリック教会|カトリック]]の[[復活祭]] || Pashkët Katolike || 日付は[[復活祭]]参照。\n|-\n| 移動祝日 || [[正教会]]の[[復活大祭|復活祭]] || Pashkët Ortodokse || 日付は[[復活祭]]参照。\n|-\n| [[5月1日]] || [[メーデー]] || Një Maji ||\n|-\n| [[10月19日]] || [[マザー・テレサ]]の日 || Dita e Nënë Terezës ||\n|-\n| [[11月28日]] || [[独立記念日]] || Dita e Pavarësisë ||\n|-\n| [[11月29日]] || 解放記念日 || Dita e Çlirimit ||\n|-\n| [[12月25日]] || [[クリスマス]] || Krishtlindje ||\n|-\n| [[イスラム暦]]による || [[犠牲祭]] || Bajrami i Vogël || 移動祭日\n|-\n| イスラム暦による || [[イド・アル=フィトル|ラマダーン明け大祭]] || Bajrami Madh || 移動祭日\n|-\n|}\n\n\n== 著名な出身者 ==\n{{main|アルバニア人の一覧}}\n* [[スカンデルベク]]\n* [[エンヴェル・ホッジャ|エンヴェル・ホジャ]] - 政治家\n* [[ゾグー1世]] - 大統領、アルバニア国王\n* [[イスマイル・カダレ]] - 文学者\n* [[ジョン・ベルーシ]]、[[ジェームズ・ベルーシ]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の俳優。アルバニア系移民の子孫。\n* [[トマス・シマク]](表記はThomas SimakuまたはToma Simaku) - 作曲家。ルトスワフスキ国際作曲賞を準優勝と優勝、セロツキ国際作曲賞を優勝した人物で国際的に著名。\n\n== 本文注 ==\n{{脚注ヘルプ}}\n{{Reflist}}\n\n== 参考文献 ==\n* 井浦伊知郎『アルバニアインターナショナル──鎖国・無神論・ネズミ講だけじゃなかった国を知るための45カ国』([[社会評論社]]、2009年8月)ISBN 4-7845-1111-3。\n\n== 関連項目 ==\n* [[大アルバニア]]\n* [[アルバニア決議]]\n* [[飛田秀一]] - 在[[金沢]]アルバニア名誉[[総領事館]][[名誉総領事]]\n* [[シナン・レイース]]\n\n== 外部リンク ==\n{{Commons&cat|Albania|Albania}}\n; 政府\n* [http://www.president.al/ アルバニア大統領府] {{sq icon}}{{en icon}}\n\n; 日本政府\n* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/albania/index.html 日本外務省 - アルバニア] {{ja icon}}\n* [https://www.al.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在アルバニア日本国大使館] {{ja icon}}\n\n; 観光\n* [http://www.albaniantourism.com/ アルバニア政府観光局] {{sq icon}}{{en icon}}\n\n{{ヨーロッパ}}\n{{OIC}}\n{{CEFTA}}\n{{OIF}}\n{{Normdaten}}\n\n{{DEFAULTSORT:あるはにあ}}\n[[Category:アルバニア|*]]\n[[Category:共和国]]\n[[Category:フランコフォニー加盟国]]"}
+{"title": "ボスニア・ヘルツェゴビナ", "text": "{{Otheruses|主権国家|その構成体|ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦}}\n{{基礎情報 国\n|略名 =ボスニア・ヘルツェゴビナ\n|日本語国名 =ボスニア・ヘルツェゴビナ
{{center|}}\n|公式国名 ='''{{Lang|bs|Bosna i Hercegovina}}''' (ボスニア語、クロアチア語)
'''{{Lang|sr|Босна и Херцеговина}}''' (セルビア語)\n|国旗画像 =Flag of Bosnia and Herzegovina.svg\n|国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of Bosnia and Herzegovina.svg|100px|ボスニア・ヘルツェゴビナの国章]]\n|国章リンク =([[ボスニア・ヘルツェゴビナの国章|国章]])\n|標語 =なし\n|位置画像 = Bosnia and Herzegovina (orthographic projection).svg\n|公用語 =[[ボスニア語]]、[[セルビア語]]、[[クロアチア語]]\n|首都 =[[サラエボ]]\n|最大都市 =サラエボ\n|元首等肩書 =[[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会|大統領評議会]]\n|元首等氏名 ={{仮リンク|シェフィク・ジャフェロヴィチ|en|Šefik Džaferović}}(議長)
[[ジェリコ・コムシッチ]]
{{ill2|ミロラド・ドディク|en|Milorad Dodik}}\n|首相等肩書 ={{ill2|ボスニア・ヘルツェゴビナの閣僚評議会議長|label=閣僚評議会議長|en|Chairman of the Council of Ministers of Bosnia and Herzegovina}}\n|首相等氏名 ={{ill2|ゾラン・テゲルティヤ|bs|Zoran Tegeltija}}\n|面積順位 =124\n|面積大きさ =1 E10\n|面積値 =51,129\n|水面積率 =極僅か\n|人口統計年 =2013\n|人口順位 =119\n|人口大きさ =1 E6\n|人口値 =3,531,000\n|人口密度値 =69\n|GDP統計年元 =2013\n|GDP値元 =264億[{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=963&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=34&pr.y=15|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-10-12}}]\n|GDP統計年MER =2013\n|GDP順位MER =110\n|GDP値MER =179億\n|GDP統計年 =2013\n|GDP順位 =108\n|GDP値 =371億\n|GDP/人 =9,563\n|建国形態 =[[独立]]
- 日付\n|建国年月日 =[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]より
[[1992年]][[3月1日]][[http://www.jcif.or.jp/report/world/140.pdf 公益財団法人国際金融情報センター - ボスニア・ヘルツェゴビナ] (2012年5月15日)]\n|通貨 =[[兌換マルク]]\n|通貨コード =BAM\n|時間帯 =+1\n|夏時間 =+2\n|国歌名 =インテルメツォ\n|ISO 3166-1 = BA / BIH\n|ccTLD =[[.ba]]\n|国際電話番号 =387\n|注記 =\n}}\n[[画像:Flag of Bosnia and Herzegovina (1992-1998).svg|thumb|200px|1992年-1998年の国旗]]\n[[画像:Coat of Arms of Bosnia and Herzegovina (1992-1998).svg|thumb|200px|1992年-1998年の国章]]\n'''ボスニア・ヘルツェゴビナ'''は、[[東ヨーロッパ]]の[[バルカン半島]]北西部に位置する[[共和国|共和制]][[国家]]。[[首都]]は[[サラエボ]]で、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]と[[スルプスカ共和国]]のふたつの構成体からなる[[連邦]]国家でもある。\n\nほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺で[[クロアチア]]、東側1辺で[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]と接する。[[ユーゴスラビア]]からの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐって[[ボシュニャク人]]、[[クロアチア人]]、[[セルビア人]]がそれぞれ民族ごとに分かれて[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]で戦った。\n\n== 国名 ==\n正式名称は、[[ボスニア語]]・[[クロアチア語]]で {{lang|bs|'''Bosna i Hercegovina'''}}('''ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ''')、[[セルビア語]]で {{lang|sr|'''Босна и Херцеговина'''}}('''ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ''')。\n\n公式の[[英語]]表記は、{{lang|en|''Bosnia and Herzegovina''}}。\n\n[[日本語]]の表記は '''ボスニア・ヘルツェゴビナ'''、または '''ボスニア・ヘルツェゴヴィナ'''。\n\n== 歴史 ==\n{{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史|en|History of Bosnia and Herzegovina}}}} \n\n=== 古代・中世 ===\n現在の[[ボスニア]]、[[ヘルツェゴビナ]]には当初[[インドヨーロッパ語族]]の[[イリュリア人]]が住んでいたが、[[紀元前1世紀]]に[[ローマ帝国]]の支配下に入った。その後、[[6世紀]]後半から[[スラヴ人]]が定住し始め、[[中世]]のころにはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、[[カトリック教会|カトリック]]と[[正教会]]の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々は[[ブルガリア]]から入ってきた[[ボゴミル派]]に救いを求める。[[12世紀]]後半には[[ボスニア王国]]がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。\n\n=== 近世(オスマン帝国統治時代) ===\n[[ファイル:Mostar Stari Most 2008 2.jpg|right|thumb|250px|[[モスタル]]の[[スタリ・モスト]]。ボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築のひとつ。]]\n[[15世紀]]後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域が[[オスマン帝国]]の支配下に入る。正統派の[[キリスト教]]勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのとき[[イスラム教]]に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。首都であるサラエボはオスマン帝国の{{仮リンク|ボスニア・エヤレト|en|Bosnia Eyalet|label=ボスニア州}}(1580–1867、Bosnia Eyalet)や{{仮リンク|ボスニア・ヴィライェト|en|Bosnia Vilayet|label=ボスニア州}}(1867–1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけて、オスマン帝国が[[ハプスブルク帝国]]、及び[[ヴェネツィア共和国]]と[[戦争]]を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。\n\n=== 近代(オーストリア=ハンガリー帝国統治時代) ===\n[[19世紀]]後半、オスマン帝国の衰退に伴い、[[バルカン半島]]は[[オーストリア・ハンガリー帝国]]と[[ロシア帝国]]の勢力争いの場となる。[[1831年]]に{{仮リンク|ボスニア蜂起|en|Bosnian uprising}}(1831–1833)。[[1875年]]に{{仮リンク|ヘルツェゴヴィナ蜂起 (1875年 - 1878年)|en|Herzegovina Uprising (1875–78)|label=ヘルツェゴヴィナ蜂起}}が起きると、この反乱を口火として{{仮リンク|モンテネグロ・オスマン戦争 (1876年 - 1878年)|en|Montenegrin–Ottoman War (1876–78)|label=モンテネグロ・オスマン戦争}}と[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]が起こった。戦後、ロシアの[[南下政策]]にオーストリアと[[イギリス]]が反対したことにより[[1878年]]に開かれた[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]によって、オーストリアは[[ボスニア]]、[[ヘルツェゴビナ]]、[[サンジャク (地名)|サンジャク]]のオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは[[1908年]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合|ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合]]した。このことが[[セルビア]]の[[大セルビア主義]]や、[[汎スラヴ主義]]を刺激し、[[第一次世界大戦]]の一因となる。第一次世界大戦後、[[サン=ジェルマン条約]] により[[オーストリア・ハンガリー帝国]]は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいて[[セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国]]が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。\n\n=== 第二次世界大戦 ===\n[[第二次世界大戦]]時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は[[ナチス・ドイツ]]の傀儡ファシスト国家である[[クロアチア独立国]]の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織[[ウスタシャ]]によって、セルビア人は[[ユダヤ人]]、[[ロマ]]、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義者[[チェトニク]]によって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、[[フォチャ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|フォチャ]]をはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な[[民族浄化]]の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、[[イタリア王国|ファシスト・イタリア]]等に対して、多民族混成の抵抗組織として[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]が結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによる[[ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議]](AVNOJ)の第1回の会合は[[ビハチ]]で、第2回の会合は[[ヤイツェ]]で行われた。\n\n=== 社会主義時代 ===\n{{Main|ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国}}\n[[File:SocialistYugoslavia en.svg|thumb|left|[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]とその構成国]]\n[[Image:Breakup of Yugoslavia.gif|left|thumb|320px|[[ユーゴスラビア]]解体のプロセス]]\n[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦人民共和国]]が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとして[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国|ボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国]]が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、[[クロアチア社会主義共和国|クロアチア]]や[[セルビア社会主義共和国|セルビア]]などが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアが[[ソビエト連邦]]と決別してからは、ユーゴスラビア独自の[[自主管理社会主義]]が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。\n\nボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒([[ムスリム]])たちは多くの場面で[[セルビア人]]、[[クロアチア人]]、あるいは[[トルコ人]]と名乗っていたが、固有の民族「[[ボスニア人]]」としての扱いを求めていた。[[1974年]]にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「[[ムスリム人]]」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム([[ボシュニャク人]])のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。\n\n長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる[[東側諸国]]とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、サラエボはユーゴスラビアのロック・ポップスの一大拠点となった。一方、[[1984年]]には[[サラエボオリンピック]]が開催された。\n{{Clearleft}}\n\n=== ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 ===\n[[File:Evstafiev-bosnia-cello.jpg|thumb|right|250px|破壊された国立図書館で[[チェロ]]を演奏する[[:en:Vedran Smailović|ヴェドラン・スマイロヴィッチ]]([[1992年]]、[[サラエボ]])撮影、ミハイル・エフスタフィエフ]]\n{{Main|ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争}}\n[[1990年]]に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。[[1991年]]に[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[マケドニア共和国]]が相次いで[[ユーゴスラビア]]からの独立を宣言し、クロアチアでは[[クロアチア紛争]]が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備する動きも進んだ。\n\n[[正教会|正教徒]]主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、[[ムスリム|イスラム教徒]]中心の[[ボシュニャク人]](旧ムスリム人)や、[[カトリック教会|ローマ・カトリック教徒]]主体の[[クロアチア人]]はユーゴスラビアからの独立を望んだ(この3つの民族は互いに言語・文化の多くを同じくする一方、異なる宗教に属していた)。\n\n[[1992年]]、ボスニア政府はセルビア人が[[ボイコット]]する中で国民投票を強行し、独立を決定した。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。[[アリヤ・イゼトベゴヴィッチ]]大統領などの数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。クロアチア人による[[ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国|ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体]]や、セルビア人による[[スルプスカ共和国|ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体]]はそれぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。\n\nボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、[[ラドヴァン・カラジッチ]]を大統領とする「[[スルプスカ共和国|ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国]](スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月に[[ユーゴスラビア人民軍]]が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのまま[[スルプスカ共和国軍]]となった。また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、[[マテ・ボバン]]の指導のもと、「[[ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国]]」の樹立を宣言し、同国の軍として[[クロアチア防衛評議会]]を設立し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。\n\n2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う[[民族浄化]]が繰り広げられた。\n\n[[1994年]]にはアメリカの主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、また[[北大西洋条約機構|NATO]]による空爆などの軍事介入も行われた。[[1995年]]に[[国際連合]]の調停で和平協定[[デイトン合意]]に調印し、紛争は終結した。\n\n=== ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後 ===\n[[File:Srebrenica massacre memorial gravestones 2009 1.jpg|right|thumb|[[スレブレニツァ虐殺記念碑]]]]\nデイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナは[[ボシュニャク人]]([[ムスリム人]])とクロアチア人主体の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]と、セルビア人主体の[[スルプスカ共和国]](セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を[[上級代表事務所]](OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊([[平和安定化部隊]]、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。選挙では民族主義政党が勝利し、民族間対立によって政治が行き詰まり、国外から派遣される[[ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表]]の強権発動によって政治的困難を打破せざるを得ない事態もたびたび起こっている。\n\n[[2004年]]6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮しSFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からは[[欧州連合|EU]]の部隊である[[欧州連合部隊 アルテア]](EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。アルテアは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点で約2,200名となっている。\n\n[[2013年]][[10月1日]]から[[10月15日]][本来は半年前に実施予定だったが、民族に関する質問方法をめぐって意見がまとまらなかった経緯がある。]に掛けて、独立後初の[[国勢調査]]が行われることになった(質問項目は主に誕生日、生まれた場所、職業、学歴など)。過去に[[2001年]]と[[2011年]]にも実施しようとしたものの、民族間の対立に伴い実現しなかった。国勢調査の実施は今後のEU加盟や政策立案のために必要不可欠ではあるものの、民族構成によって政府の主要ポストや公務員の数を振り分ける[これまでは、独立前の1991年に旧ユーゴスラビア時代に行われた国勢調査を基に配分されていた。]など国の根幹に関わるため、政治利用されるばかりか危うい民族バランスの均衡が崩れる可能性もはらんでいる。事実、この国勢調査を利用し、各勢力が自民族に有利に働くため、教会・モスクにいる聖職者を通じて働きかけと称した誘導を行うといった事態も見受けられた。また各民族が働きかけた不正行為も明らかになった。一方で、民族の色分けや少数民族差別(主にユダヤ人やロマ)を嫌った人々による[[コスモポリタニズム]]の胎動がどこまで進行しているのかもポイントになっていた[{{Cite news|date=2013-10-15|url=http://mainichi.jp/select/news/20131016k0000m030010000c.html|title=ボスニア:紛争後初の国勢調査 「民族色分け」で揺れる|work=[[毎日.jp]]|publisher=[[毎日新聞]]|accessdate=2013-11-03}}][{{Cite news|date=2013-10-22|url=http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2013/10/1022.html|title=「民族色分け」に揺れるボスニア・ヘルツェゴビナ|work=NHK ONLINE|publisher=[[日本放送協会]]|accessdate=2013-11-03}}]。国勢調査の結果は[[11月10日]]まで行われる不正調査の報告と修正を経て、[[2014年]]1月に判明する予定だが、非公式速報値では、人口は370万~380万程度で、ボシャニク人54%、セルビア人32.5%、クロアチア人11.5%、その他2%となった[{{Cite news|date=2013-10-30|url=http://doznajemo.com/2013/10/30/httpwp-mep3cnyx-jbk-2/|title=EKSKLUZIVNO O REZULTATIMA POPISA: Bošnjaci 54%, Hrvati 11,5%, Srbi 32,5%, Ostali 2%!?|work=doznajemo online magagine|publisher=|accessdate=2013-11-03}}]。\n\n== 政治 ==\n[[File:Zgrada Vijeća ministara BiH Sarajevo.JPG|thumb|首都[[サラエヴォ]]の政府ビル]]\n=== 国家元首 ===\n{{Main|ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会}}\n[[デイトン合意]]以降、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治は国際的監視の下に置かれている。3つの主要民族から1名ずつ選ばれた代表者によって構成される[[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会|大統領評議会]]が[[国家元首]]となる集団指導体制がとられている。大統領評議会の議長は8箇月ごとに輪番で交代し、議長は事実上のボスニア・ヘルツェゴビナの国家元首となる。\n\n=== 国際的監督 ===\n{{Main|上級代表事務所}}\nボスニア・ヘルツェゴビナには、[[デイトン和平合意]]に基いて国際社会の監督機関として主要国の代表者からなる'''和平履行評議会'''(PIC)が設置され、同評議会の下に'''上級代表事務所'''(OHR)が置かれている([[コソボ]]における[[国際文民事務所]](ICO)に相当)。上級代表事務所の長は[[ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表|上級代表]](HR)であり、デイトン和平合意を実施するに際して必要と認められるときは、直接立法権、人事介入権を含む強力な内政介入権(「ボン・パワー」)を発動できる。\n\n=== 議会 ===\n[[ボスニア・ヘルツェゴビナ議会|ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、および同国のそれぞれの構成体[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]および[[スルプスカ共和国]]には、それぞれ独自の議会がおかれている。また、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する10の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県|県]]にも、それぞれ独自の議会が設けられている。\n\n中央政府の議会は上・下院からなる二院制であり、上院の定数は15(各民族5議席)、下院の定数は42(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦28議席、スルプスカ共和国14議席)と民族別、国別に分かれた複雑なものとなっている[{{Cite web |date= |url=http://www.sangiin.go.jp/japanese/kokusai_kankei/oda_chousa/h22/pdf/3-4.pdf |title= ボスニア・ヘルツェゴビナにおける調査(平成22年度ODA調査資料)|format=PDF |publisher= 参議院|accessdate=2018-10-08}} ]。\n\n=== 選挙 ===\n中央政府とボスニア連邦では、[[2000年]]に実施された国政選挙によって、紛争勃発後初めて社会民主党を中心とする非民族主義政権が誕生した。しかし、[[2002年]]10月の国政選挙では非民族主義政権が伸び悩み、大統領評議会員選挙では3名とも民族主義政党出身者が当選するなど、結果的に民族主義勢力が伸張した。現在、政党はすべて民族ごとに結成されており、それぞれが民族的利益を主張するため、国政運営上の障害となっている。\n\n=== NATOおよびEUへの加盟構想 ===\nボスニア・ヘルツェゴビナは1992年5月22日に国連に加盟したが、その後の民族対立、内戦は悲惨であった。民族対立は完全に解消されたわけではないが、「欧州大西洋機構への統合」、即ち[[欧州連合]](EU)及び[[北大西洋条約機構]](NATO)加盟が民族を超えた共通の目的であり、ボスニア政府はこの目標に向かって国際社会の支援を得ながら諸改革に取り組んでいる。\n\n[[2000年]]12月、ボスニア・ヘルツェゴビナは[[ユーゴスラビア連邦共和国]]との間で正式な外交関係を樹立した。また警察改革や公共放送法の採択で進展があったため、EUは[[2005年]][[11月7日]]に[[安定化・連合協定]]締結交渉の開始を承認した。なお、EU加盟は3民族の共通目標[共通目標とされているが、これはボスニア内戦後、民族融和の進まない状況を考慮したEU側が働きかけたものである。][とされており、ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗にもそれが現れている。\n\n[[2016年]]2月、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はEUへの正式な加盟申請を行った。[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]において、ボスニア・ヘルツェゴビナの[[ドラガン・チョヴィッチ]][[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会|大統領評議会]](幹部会)議長が、EU議長国[[オランダ]]のクーンデルス外相に対して、申請の文書を手渡した。][[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201602/2016021500799&g=int 時事通信「ボスニア、EU加盟申請=独立宣言から24年」2016年2月15日]][[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160215/k10010410481000.html NHK(日本放送協会)NEWS WEB「ボスニア・ヘルツェゴビナがEUへ加盟申請」2016年2月15日]][[http://www.chunichi.co.jp/s/article/2016021501001841.html 中日新聞「ボスニア、EU加盟申請 旧ユーゴスラビア」2016年2月15日]][[http://jp.reuters.com/article/bosnia-eu-idJPL3N1BW3WU ロイター「EUがボスニアの加盟申請受理、長い道のりに一歩」2016年9月21日]][[https://jp.sputniknews.com/europe/201602151615701/ スプートニク日本「ボスニア・ヘルツェゴビナがEUへの加盟申請を提出」2016年2月15日]]\n\n* [[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会]]\n* [[ボスニア・ヘルツェゴビナの政党一覧]]\n\n== 地方行政区分 ==\n{{See also|ボスニア・ヘルツェゴビナの地方行政区画|ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県|スルプスカ共和国の地方行政区画}}\n[[ファイル:Map Bih entities.png|thumb|300px|[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]](青)、[[スルプスカ共和国]](赤)と[[ブルチコ行政区]](緑)]]\n[[1995年]]の[[デイトン合意]]の定めにより、[[クロアチア人]]および[[ボシュニャク人]]が主体の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]と、[[セルビア人]]が主体の[[スルプスカ共和国]]という二つの構成体(Entitet)によって構成される。両者が権利を主張して合意に至らなかった[[ブルチコ]]については、[[2000年]]の裁定によって独自の行政区「[[ブルチコ行政区]]」(Brčko distrikt)として、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の直轄地とされた。ブルチコは、憲法上はスルプスカ共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の双方に属するとされているが、双方ともブルチコに対する実際の行政権は排除されており、事実上「第3の構成体」となっている。\n\nボスニア・ヘルツェゴビナ連邦は、以下の10の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県|県]]から成っている[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦ではボスニア語、クロアチア語、セルビア語が憲法の定める公用語となっている。上記県名はボスニア語で書かれている。セルビア語での名称はボスニア語と同一であり、キリル文字を使って書かれる。また、クロアチア語での名称は「県」を「Kanton」ではなく「županija」とするなど、これとは若干異なっている]。それぞれの県の下には、最小の自治体である[[オプシュティナ]]が置かれている。\n# [[ウナ=サナ県]](Unsko-sanski kanton)\n# [[ポサヴィナ県]](Posavski kanton)\n# [[トゥズラ県]](Tuzlanski kanton)\n# [[ゼニツァ=ドボイ県]](Zeničko-dobojski kanton)\n# [[ボスニア・ポドリニェ県]](Bosansko-podrinjski kanton)\n# [[中央ボスニア県]](Kanton Srednja Bosna)\n# [[ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県]](Hercegovačko-neretvanski kanton)\n# [[西ヘルツェゴビナ県]](Zapadno-hercegovački kanton)\n# [[サラエヴォ県]](Kanton Sarajevo)\n# [[第十県]](Kanton 10)\n\n一方、スルプスカ共和国には県に相当する自治体はない。\n\n[[オプシュティナ]]はボスニア・ヘルツェゴビナで最小の自治体の単位であり、[[日本]]の[[市町村]]や[[イタリア]]の[[コムーネ]]、[[ドイツ]]の[[ゲマインデ]]などにほぼ相当する。それぞれのオプシュティナは独自の議会と市長、閣僚を持っている。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦には79、スルプスカ共和国には62のオプシュティナがある。\n\n== 地理 ==\n{{Main|{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴビナの地理|en|Geography of Bosnia and Herzegovina}}}} \n[[File:Bosnia and Herzegovina topographic map.svg|thumb|300px|ボスニア・ヘルツェゴビナの地形]]\n国土はおおよそ[[三角形]]の形をしている。歴史的に北中部は[[ボスニア]]、南部は[[ヘルツェゴビナ]]と呼ばれてきた。\n\n南部には[[海抜]]高度2,000mを超える[[山地]]が多い。[[アドリア海]]に沿って[[ディナル・アルプス]]([[:en:Dinaric Alps|Dinaric Alps]])が伸びており、国土の南西部は[[石灰岩]]による[[カルスト]]地形で乾燥している。南西の[[ネウム]]付近では、アドリア海に面して20キロメートル程の海岸線を持っているが、[[ネウム]]周辺に大きな[[港]]はない。ボスニア・ヘルツェゴビナは、海に面した国としては[[モナコ]]に次いで[[国の海岸線の長さ順リスト|世界で2番目に短い海岸線]]を持っている。\n\n国土の南部、ヘルツェゴビナ地方を[[ネレトヴァ川]]が貫き、クロアチア領を経て[[アドリア海]]へと注いでいる。また北部には[[サヴァ川]]が流れ、[[クロアチア]]との自然国境となっている。サヴァ川はその後セルビア領へと続き、[[ドナウ川]]に合流している。国土の北東にある、サヴァ川に面した町[[ブルチコ]]は、ボスニア・ヘルツェゴビナの陸上交通とドナウ川の水上交通路を結ぶボスニア・ヘルツェゴビナ最大の港町である。サヴァ川の支流[[ボスナ川]]は、サラエボ近郊の山中から流れ出し、北に向けて[[ゼニツァ]]、[[ドボイ]]、[[ボサンスキ・シャマツ]]を経てサヴァ川に合流している。このほかにサヴァ川の支流として[[ウナ川]]や[[ヴルバス川]]などがある。また、国土の東部には[[ドリナ川]]が流れ、[[セルビア]]との国境となっている。\n\n気候は、北部・[[ボスニア]]のサヴァ川流域を中心に[[大陸性気候]]、南部・[[ヘルツェゴビナ]]のネレドバ川河口部が[[地中海性気候]]となっている。ボスニアは概して温暖だが[[冬]]は非常に寒く、一方のヘルツェゴビナ(特に石灰岩地帯)は10月~1月の冬場にかけて[[雨]]が多く[[夏]]が非常に暑い。\n\n=== 主要都市 ===\n[[ファイル:Bosnia and Hercegovina map.png|thumb|350px|right|ボスニア・ヘルツェゴビナの地理]]\n; ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦\n* [[サラエボ]]\n* [[トゥズラ]]\n* [[ゼニツァ]]\n* [[モスタル]]\n* [[ビハチ]]\n* [[トラヴニク]]\n* [[キセリャク]]\n* [[ドボイ]]\n* [[ツァジン]]\n* [[ブゴイノ]]\n* [[ヴェリカ・クラドゥシャ]]\n* [[ネウム]]\n\n; スルプスカ共和国\n* [[バニャ・ルカ]]\n* [[プリイェドル]]\n* [[ビイェリナ]]\n* [[ボサンスキ・ブロド]]\n* [[トレビニェ]]\n\n; ブルチコ行政区\n* [[ブルチコ]]\n\n== 経済 ==\n[[File:Bosmal city center.jpg|thumb|left|首都[[サラエボ]]の街並み。]]\n[[2013年]]の[[GDP]]は約179億ドルであり、[[日本]]の[[鳥取県]]とほぼ同じ経済規模である[{{PDFlink|[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf 内閣府による県民経済計算]}}]。同年の一人当たりのGDPは4,620ドルである。経済的には、[[オスマン帝国]]の支配時代から[[農業]]に大きく依存する貧困な地域であり、[[ユーゴスラビア]]の成立後も[[マケドニア共和国]]に次ぐ経済後進共和国であった。[[穀物]]栽培に適当な土壌が多いことから、かつては[[豆]]・[[タバコ]]・[[ザクロ]]・[[ブドウ]]・[[オリーブ]]・[[イチジク]]・[[メロン]]などの農作物が栽培され、主要な[[ヒツジ|羊]]の飼育地でもあった。しかし、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]の影響から、農耕地の多くが現在使用できなくなっている。\n\n現在の主要産業は[[林業]]、[[鉱業]]、繊維業などである。林業では[[マツ|松]]・[[カヤ]]・[[ブナ]]などが産出され、鉱業では[[ボスニア]]で[[大理石]]・建築用の石材、及び[[鉄]]・[[石炭]]・[[銅]]・[[マンガン]]・[[鉛]]・[[水銀]]など多様な[[鉱物]]が、[[ヘルツェゴビナ]]では[[アスファルト]]・[[褐炭]]がそれぞれ生産される。しかし、失業率は48%([[2006年]]現在)とヨーロッパの中でもトップクラスであり、特に若年層の[[失業]]とインフォーマル経済による景気低迷が課題である。\n\n[[1992年]]の独立後、ボスニア政府は[[ユーゴスラビア・ディナール]]に代わる独自の[[通貨]]の導入を決定した。しかし、ボスニア内戦時には[[ボシュニャク人]]支配地域ではボスニア・ディナール、セルビア人支配地域ではユーゴスラビア・ディナール、クロアチア人支配地域では[[クーナ]]がそれぞれ使用され、統一通貨の実施は遅れた。[[1998年]]1月、ボスニア政府は新通貨として[[兌換マルク]]を発表した。\n{{Clearleft}}\n\n== 国民 ==\n\n\n=== 民族 ===\n{{bar box\n|title=民族構成(ボスニア・ヘルツェゴビナ)\n|titlebar=#ddd\n|float=right\n|bars=\n{{bar percent|[[ボシュニャク人]]|green|48}}\n{{bar percent|[[セルビア人]]|lightblue|37}}\n{{bar percent|[[クロアチア人]]|blue|14}}\n{{bar percent|[[ロマ]]他|red|1}}\n}}\n[[File:Bosanska Krupa Churches.JPG|thumb|[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]と[[イスラム教|イスラム]]、[[セルビア正教会]]が混在する街並み([[ボサンスカ・クルパ]])]]\n\n住民は[[ボシュニャク人]]が48%、[[クロアチア人]]が14%、[[セルビア人]]が37%などである。それぞれの民族の差異は主に宗教と歴史的経緯によるものであって、それ以外の言語・文化の面では3つの民族には大きな違いはない。それ以外の少数民族としては、[[ロマ]]などが住んでいる。\n\n元々この地域には、[[ボシュニャク人]]、[[セルビア人]]、[[クロアチア人]]が概ね拮抗する割合で暮していた。その為、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]が[[連邦制]]を実施する際、他の5つの共和国は主要民族に基づいて樹立されたのに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナは地域を基礎として樹立された。\n\n=== 言語 ===\n言語は、公用語が[[ボスニア語]]、[[クロアチア語]]、[[セルビア語]]である。それぞれボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の言語とされるが、これらの言語は19世紀から20世紀末にかけて[[セルビア・クロアチア語]]と呼ばれ、同一視されていた。多民族が混住するボスニア・ヘルツェゴビナでは、実際には、民族ごとに言語が異なることはなく、住民は民族の別に関わらず地域ごとの方言を話している。自らの話す言語に対する呼称の違いは、ほとんどの場合話者の民族自認に基づいている。[[セルビア語]]と[[ボスニア語]]は[[キリル文字]]と[[ラテン文字]]、[[クロアチア語]]は[[ラテン文字]]を用いる。\n\n=== 宗教 ===\nボシュニャク人の多くは[[イスラム教]]、クロアチア人の多くは[[キリスト教]]([[ローマ・カトリック]])、セルビア人の多くはキリスト教([[正教会]])である。\n\n[[メジュゴリエ]]では[[聖母の出現]]があったと主張されているが、[[バチカン]]はこれを公認しておらず、メジュゴリエの教会もローマ・カトリック教会に属するものではない。\n\n== 文化 ==\nボスニア・ヘルツェゴビナは比較的小さな国だが、[[オスマン帝国]]や[[オーストリア=ハンガリー帝国]]などの大国の一部になった事や複数の民族が混同していることから、豊富で多大な文化を持っている。\n\n[[トラヴニク]]出身の[[イヴォ・アンドリッチ]]は[[ノーベル文学賞]]を受賞している。\n=== 世界遺産 ===\n[[ファイル:Visegrad Drina Bridge 1.jpg|thumb|[[ソコルル・メフメト・パシャ橋]]。]]\nボスニア・ヘルツェゴビナ2つの[[世界遺産]]が登録されている。[[モスタル]]にある[[スタリ・モスト]](古い橋)の周辺と、[[ヴィシェグラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|ヴィシェグラード]]の[[ソコルル・メフメト・パシャ橋]]で、ともにボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築である。\n\n=== 祝祭日 ===\n{| class=\"wikitable\"\n|-\n!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考\n|-\n|[[1月1日]]、2日 ||[[元日]]|| ||\n|-\n|[[5月1日]]、2日 ||[[メーデー]]|| ||\n|}\n\n※ボスニア・ヘルツェゴビナでは国で統一した祝日の法律が存在しない。(イスラム教徒、セルビア人、クロアチア人の間で合意ができていないため。)\n\n== ギャラリー ==\n\n\nImage:Waterfall_in_Jajce_Bosnia.JPG|[[ヤイツェ]]の滝\nFile:Bos Krupa, Una.jpg|[[ウナ川]]と[[ボサンスカ・クルパ]]\nImage:Bihac2005.jpg|[[ビハチ]]\nImage:Bihacka-kula.jpg|ビハチ\nImage:Bosanska Dubica Mosque.png|[[ボサンスカ・ドゥビツァ]]の再建されたモスク。\nImage:Sarajevo Rathaus05.jpg|[[サラエヴォ]]国立図書館\nImage:Sarajevo ortodox church.JPG|[[サラエヴォ]]の[[生神女誕生大聖堂 (サラエヴォ)|生神女誕生大聖堂]]。[[セルビア正教会]]の大聖堂。\nImage:Sarajevo_princip_bruecke.jpg|[[サラエヴォ]]のラテン橋。[[サラエヴォ事件]]が起こった場所\nImage:Travnik mosque 01.jpg|[[トラヴニク]]のモスク\nImage:VisokoPanorama.jpg|[[ヴィソコ]]\nImage:Pocitelj.PNG|[[チャプリナ]][[オプシュティナ|自治体]]にある古いムスリムの町[[ポチテリ]]\nImage:Mostar Pielo Polje 01.jpg|[[ネレトヴァ川]]\nファイル:Trebinje River.jpg|南東部[[トレビニェ]]\n\n\n\n== 関連項目 ==\n* [[ボスニア・ヘルツェゴビナ関係記事の一覧]]\n\n== 参考文献 ==\n* {{Cite book\n|author=[[千田善]]\n|date=2002年11月21日\n|title=なぜ戦争は終わらないか ユーゴ問題で民族・紛争・国際政治を考える\n|publisher=みすず書房\n|location=日本\n|id=ISBN 4-622-07014-6\n}}\n\n* {{Cite book\n|author=[[久保慶一]]\n|date=2003年10月10日\n|title=引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題\n|publisher=有信堂高文社\n|location=日本、東京\n|id=ISBN 978-4-8420-5551-0\n}}\n\n* {{Cite book\n|author=[[佐原徹哉]]\n|date=2008年3月20日\n|title=ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化\n|publisher=有志舎\n|location=日本、東京\n|id=ISBN 978-4-903426-12-9\n}}\n\n* {{Cite book\n|author=[[岩田昌征]]\n|date=1999年8月20日\n|title=ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像―学者の冒険\n|publisher=御茶の水書房\n|location=日本\n|id=ISBN 978-4-275-01770-3\n}}\n\n== 注・出典 ==\n{{Reflist|2}}\n\n== 外部リンク ==\n{{Commons&cat|Bosnia and Herzegovina|Bosnia and Herzegovina}}\n; 政府\n* [http://www.fbihvlada.gov.ba/ ボスニア・ヘルツェゴビナ政府] {{bs icon}}{{hr icon}}{{sr icon}}{{en icon}}\n* [http://www.predsjednistvobih.ba/Home.aspx ボスニア・ヘルツェゴビナ大統領府] {{en icon}}\n\n; 日本政府\n* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bosnia_h/ 日本外務省 - ボスニア・ヘルツェゴビナ] {{ja icon}}\n* [http://www.bosnia.emb-japan.go.jp/index_j.html 在ボスニア・ヘルツェゴビナ日本国大使館] {{ja icon}}\n\n; 観光\n* [http://www.bhtourism.ba/loc/ ボスニア・ヘルツェゴビナ政府観光局] {{bs icon}}{{en icon}}\n\n{{ヨーロッパ}}\n{{CEFTA}}\n{{OIF}}\n{{Normdaten}}\n{{Good article}}\n{{coord|44|N|18|E|type:country_region:BA|display=title}}\n\n{{DEFAULTSORT:ほすにあへるつえこひな}}\n[[Category:ヨーロッパの国]]\n[[Category:ボスニア・ヘルツェゴビナ|*]]\n[[Category:共和国]]\n[[Category:連邦制国家]]\n[[Category:フランコフォニーのオブザーバー]]"}
+{"title": "ベラルーシ", "text": "{{redirect|白ロシア|「白ロシア」を公式名称としていたソ連時代の共和国|白ロシア・ソビエト社会主義共和国}}\n{{基礎情報 国\n| 略名 =ベラルーシ\n| 日本語国名 =ベラルーシ共和国\n| 公式国名 ='''{{lang|be|Рэспу́бліка Белару́сь}}'''(ベラルーシ語)
'''{{lang|ru|Республика Беларусь}}'''(ロシア語)\n| 国旗画像 =Flag_of_Belarus.svg\n| 国章画像 =[[ファイル:Official coat of arms of the Republic of Belarus (v).svg|100px|ベラルーシの国章]]\n| 国章リンク =([[ベラルーシの国章|国章]])\n| 標語 = なし\n| 位置画像 =Belarus on the globe (Europe centered).svg\n| 公用語 =[[ベラルーシ語]]、[[ロシア語]]\n| 首都 =[[ミンスク]]\n| 最大都市 =ミンスク\n| 元首等肩書 =[[ベラルーシの大統領|大統領]]\n| 元首等氏名 =[[アレクサンドル・ルカシェンコ]]\n| 首相等肩書 =[[ベラルーシの首相|首相]]\n| 首相等氏名 ={{ill2|セルゲイ・ルマス|en|Syarhey Rumas}}\n| 面積順位 =83\n| 面積大きさ =1 E11\n| 面積値 =207,560\n| 水面積率 =極僅か\n| 人口統計年 =2013\n| 人口順位 =78\n| 人口大きさ =1 E7\n| 人口値 =9,410,000\n| 人口密度値 =50\n| GDP統計年元 =2013\n| GDP値元 =636兆7,842億[{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=913&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=63&pr.y=5|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-10-18}}]\n| GDP統計年MER =2013\n| GDP順位MER =67\n| GDP値MER =717億\n| GDP統計年 =2013\n| GDP順位 =64\n| GDP値 =1,668億\n| GDP/人 =17,623\n| 建国形態 =[[独立]]
- 宣言
- 承認\n| 建国年月日 =[[ソビエト連邦]]より
[[1990年]][[7月27日]]
[[1991年]][[8月25日]]\n| 通貨 =[[ベラルーシ・ルーブル]]\n| 通貨コード =BYN\n| 時間帯 =+3\n| 夏時間 =なし\n| 国歌名 =我等、ベラルーシ人\n| ISO 3166-1 = BY / BLR\n| ccTLD =[[.by]]\n| 国際電話番号 =375\n| 注記 =\n|}}\n'''ベラルーシ共和国'''(ベラルーシきょうわこく、{{lang-be|Рэспу́бліка Белару́сь}}、{{lang-ru|Республика Беларусь}})、通称'''ベラルーシ'''は、[[東ヨーロッパ]]に位置する[[共和制]][[国家]]。日本語では'''白ロシア'''(はくロシア)とも呼ばれる。東に[[ロシア連邦]]、南に[[ウクライナ]]、西に[[ポーランド]]、北西に[[リトアニア]]、[[ラトビア]]と国境を接する、[[世界]]最北の[[内陸国]]である。首都は[[ミンスク]]。[[ソビエト連邦]]から独立した。[[ソ連崩壊]]で独立前のソ連時代、[[国際連合]]にはウクライナと共に、ソ連とは別枠で加盟していた。\n\n== 国名 ==\n正式名称は[[ベラルーシ語]]で、'''{{lang|be|Рэспубліка Беларусь}}'''([[ラテン文字化|ラテン文字表記]]は ''Respublika Belarus'')。\n\n公式の[[英語]]表記は、''Republic of Belarus''。通称、''Belarus''。\n\n[[日本語]]の表記は、'''ベラルーシ共和国'''。通称、'''ベラルーシ'''。\n\n[[17世紀]]に[[ロシア帝国]]の支配下に入ると'''ベロルシア'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Белоруссия}}''' ビラルースィヤ)と名付けられ、日本語でもこれを訳した'''白ロシア'''の名で長らく定着していた(この場合の「ロシア」は「[[ロシア]]」のことではなく「[[ルーシ#地名|ルーシ]]」の意味)。ソ連崩壊直後の[[1991年]][[9月15日]]に正式な国号をベラルーシ語を尊重した「ベラルーシ」に定め、各言語でもこの語を用いるように要請している。ロシア語でも'''{{lang|ru|Беларусь}}'''(ビラルースィ)の名称が使用されるようになっている。\n\n=== 国名の由来 ===\n「ベラルーシ」の国名の由来は明らかではないが、ルーシの人々は[[13世紀]]から[[16世紀]]にかけて[[モンゴル帝国|モンゴル]]の支配を受け([[タタールのくびき]])、ベラルーシの国名の由来である{{仮リンク|白ルーシ (歴史的地域)|en|White Ruthenia|label=白ルーシ}}の名前の由来をモンゴルに関連付ける説がいくつか挙げられている\n[{{Cite book |和書 |author=服部倫卓、越野剛編著 |year=2017 |title=ベラルーシを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ |publisher=明石書店 |pages=58-59|isbn=978-4-7503-4549-9|ref=herv}}]。その際、モンゴル人が中国から学んだ文化である「方角を色で呼ぶ方法([[五行思想]])」をルーシに持ち込んだため、「赤ルーシ」(南部ルーシすなわち現在の[[ウクライナ]]西部)、「白ルーシ」(西部ルーシすなわち現在のベラルーシ)、「[[黒ルーシ]]」(北部ルーシすなわち現在の[[モスクワ]]周辺)という名称が生まれ、そのうちの白ルーシ(ベラルーシ)が国名として残ったと言われている[伊東孝之、井内敏夫、中井和夫 編『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』([[山川出版社]]、1998年)p110]。モンゴル系の国家で用いられた[[テュルク語族|テュルク系の言語]]の影響を受けて生まれた、「自由な、支配から解放された」白ルーシと「隷属した」黒ルーシの呼称を起源とする説も存在する[。\n\n== 地理 ==\n[[ファイル:Belarus-map-ja.jpeg|right|250px|ベラルーシの地図]]\n{{main|ベラルーシの地理}}\n\nベラルーシは内陸国で、国土の大部分が[[低地]]であり、最高点の[[ジャルジンスカヤ丘陵]]でも海抜345mである。最低点は[[ネマン川]]の海抜90mである。国土の20%を占めるなど[[湿原]]が豊富で、南部に最大の湿原である[[ポレーシエ湿地]]がある。約1万1000もの湖があり、それを突き通すように、北部を通る[[ダウガバ川]]、西部を通る[[ネマン川]]、東部を通る[[ドニエプル川]]とその支流である[[プリピャチ川]]、[[ベレジナ川]]、[[ソジ川]]などの主要河川がある。気候はおおむね温暖で湿度が高いが、東部は冷涼で、[[大陸性気候]]の特徴が見られる。\n\nベラルーシの主な[[天然資源]]は森林で、国土の45.3%もの面積を占めている。その他に[[泥炭]]、[[花崗岩]]、[[泥灰岩]]、[[チョーク (岩石)|チョーク]]が採れる。少量の[[石油]]と[[天然ガス]]も産出されるが、国内需要を満たす規模ではなく、エネルギー資源の大半をロシアからの輸入に依存している。\n\n== 地方行政区分 ==\n[[File:Belarus provinces english.png|thumb|250px|[[ベラルーシの地方行政区画]]]]\n{{main|ベラルーシの地方行政区画|ベラルーシの都市の一覧}}\n\n=== 主要都市 ===\n*[[ミンスク]]\n*[[フロドナ]](グロドノ)\n*[[ナヴァフルダク|ノヴァフルデク]](ノヴォグルデク、ナウガルドゥカス)\n*[[スロニム]]\n*[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]](ブレスト・リトフスク)\n*[[ピンスク]]\n*[[ヴィツェプスク]](ヴィテプスク)\n*[[マヒリョウ]](モギリョフ)\n*[[ホメリ]](ホミェリ、ゴメリ)\n*[[マズィル]]\n*[[バラーナヴィチ]]\n\n== 国民 ==\n{{bar box\n|title=民族構成(ベラルーシ)2009年\n|titlebar=#ddd\n|float=right\n|bars=\n{{bar percent|[[ベラルーシ人]]|blue|83.7}}\n{{bar percent|[[ロシア人]]|lightblue|8.3}}\n{{bar percent|[[ポーランド人]]|lightblue|3.1}}\n{{bar percent|[[ウクライナ人]]|lightblue|1.7}}\n{{bar percent|その他|red|3.4}}\n}}\n=== 民族 ===\n住民は[[ベラルーシ人]]が83.7%、[[ロシア人]]が8.3%、[[ポーランド人]]が3.1%、[[ウクライナ人]]が1.7%、[[ユダヤ人]]が0.1%である(2009年)。かつては首都ミンスクの人口のうち、ユダヤ人やポーランド人が多数を占めていた時期もあるなど、多民族が共存してきた歴史がある。\n\n隣国ウクライナではウクライナ人民族主義が非常に強く、国内に民族対立を抱え、結果的に[[2014年ウクライナ内戦|2014年には深刻な内戦]]に陥った。これと比較して、ベラルーシでは民族主義的な意識は低く、ベラルーシ人とロシア人などとの民族間対立等は起きていない。いまなおミンスクには巨大な[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]像が残るなどソビエト時代を肯定的にとらえる国民性もある。\n\n=== 言語 ===\nベラルーシでは、[[ベラルーシ語]]と[[ロシア語]]の二つの言語が[[国家語]]として憲法に規定されている][{{Cite book |和書 |author=服部倫卓、越野剛編著 |year=2017 |title=ベラルーシを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ |publisher=明石書店 |pages=122-127|isbn=978-4-7503-4549-9|ref=herv}}]。ベラルーシで最も広く使われる言語はロシア語であり、家庭内では人口の70%に使用されており、ベラルーシ語が家庭内で使用される割合は23%となっている[。ベラルーシ語はロシア語ほど広く使用されないにもかかわらず、人口の53.2%が自身の母語を問われた際にベラルーシ語を選んでおり、ロシア語を母語とするのは41.5%にとどまっている。][{{cite web|url=http://belstat.gov.by/en/perepis-naseleniya/perepis-naseleniya-2009-goda/main-demographic-and-social-characteristics-of-population-of-the-republic-of-belarus/population-classified-by-knowledge-of-the-belarusian-and-russian-languages-by-region-and-minsk-city|title=Population classified by knowledge of the Belarusian and Russian languages by region and Minsk City|website=Belstat.gov.by|accessdate=3 August 2017}}]ベラルーシの教育ではベラルーシ語とロシア語いずれも原則必修とされており、ベラルーシ人はおおむね両方の言語を一定の水準で使用することができる[。会話の中でベラルーシ語とロシア語のどちらともとれない曖昧な話し方はしばしば見られ、こうした口語は[[トラシャンカ]](干草に藁を混ぜた飼料の意)と呼ばれている][。\n\nほか、[[ポーランド語]]、[[ウクライナ語]]、[[東イディッシュ語]]を話す少数派も存在する。][Gordon, Raymond G., Jr. (ed.), 2005. Ethnologue: Languages of the World, Fifteenth edition. Dallas, TX: SIL International. Online version: [http://www.ethnologue.com/ Ethnologue.com].]\n\n=== 宗教 ===\n宗教は[[正教会|東方正教会]]が80%である。その他[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]、[[プロテスタント]]などが信仰されている(1997年推計)。[[ロシア正教]]の[[古儀式派]]の[[ポモールツィ]]、[[ベロクリニツキー派]]、[[ベグロポポーフツィ]]などの信徒も存在する。\n\n== 歴史 ==\n{{ベラルーシの歴史}}\n{{main|ベラルーシの歴史}}\n=== ルーシの公国とモンゴル侵攻 ===\n{{main|モンゴルのルーシ侵攻}}\n\n6-8世紀に[[スラヴ民族]]が移住開始したと一般に言われていたが、近年では[[古代]]から既にスラヴ民族はこの地に定住し続けていたという説が有力である[*[[J. P. Mallory]], \"Zarubintsy Culture\", ''[[Encyclopedia of Indo-European Culture]]'', Fitzroy Dearborn, 1997.]。\n\n9世紀の[[キエフ・ルーシ]]の一部だった[[ポロツク公国]]がベラルーシの始まりとされる。[[バルト海]]と[[黒海]]を結ぶ通商路として繁栄した。\n\n10-11世紀にポロツク公国は版図を拡大し、 キエフ・ルーシや[[ノヴゴロド公国]]と争った。南部には10世紀末に[[トゥーロフ公国]]が成立。一時、[[モンゴルのルーシ侵攻|モンゴルに征服される]]。\n\n[[12世紀]]から[[13世紀]]前半には10前後の[[公国]]が存在し、ベラルーシ人の民族意識が高まり、団結して[[ドイツ騎士団]]や[[モンゴル帝国]]と戦った。[[13世紀]]までにベラルーシの地域([[ルーシ]]と呼ばれる地域の北半)の公国はすべて[[リトアニア大公国]]に併合される。リトアニア大公国における[[貴族]]の大多数は実は[[リトアニア人]]([[リトアニア語]]を[[母語]]とする人々)ではなく[[ベラルーシ人]](当時は[[ルーシ人]]、のち{{仮リンク|リトヴィン人|label=リトヴィン人|be|Літвіны}}と呼ばれた)で、リトアニア大公国の[[公用語|公用言語]]は[[リトアニア語]]ではなく[[ベラルーシ語]](当時は通常は[[ルーシ語]]と呼ばれ、さらに、リトアニア大公国の官庁で使用された公式言語であることから[[官庁スラヴ語]]とも呼ばれた)が使われる。\n\n=== ポーランド・リトアニア共和国 ===\n{{main|ポーランド・リトアニア共和国}}\n[[image:Lietuva ir Lenkija.Lithuania and Poland 1387.png|thumb|200px|right|1387年のポーランドおよびリトアニア]]\n[[1385年]]、[[クレヴォの合同]]により[[ポーランド・リトアニア合同]]が成立すると、ベラルーシを含むリトアニア大公国全域の貴族の間で[[文化_(代表的なトピック)|文化]]や[[母語]]の自発的な「[[:en:Polonization|ポーランド化]]」が始まる。クレヴォの合同後最初のリトアニア大公である[[ヴィータウタス]]が[[1430年]]に没すると、[[リトアニア]]大公国貴族によるポーランドの文化と言語の受容が加速した。[[1569年]]に[[ルブリン合同|ルブリンの合同]]により[[同君連合|物的同君連合]]としての単一国家である「[[ポーランド・リトアニア共和国]]」が成立するとこの地域の文化のポーランド化がさらに進み、リトアニア人とベラルーシ人を含むリトアニア大公国のほぼすべての貴族が[[ポーランド]]化した。この「ポーランドへの同化」現象は[[1795年]]までの三度にわたる[[ポーランド分割]]によりベラルーシ地域が[[ロシア帝国]]に併合されるまで続いた。この間、貴族層の[[家系]]の大半とその他ルーシ人の多くはこの時代までに[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に[[改宗]]を済ませ、母語も[[ポーランド語]]を使用するようになっていたが、相変わらず[[ルーシ語]]を母語とし[[東方正教会]]を信仰していた者も農民層を中心に多数いた。\n\n=== ロシア帝国支配下 ===\n{{main|ロシア帝国|ロシア帝国の歴史}}\n[[ファイル:Battles of January Uprising in Lithuania, Belarus and Ukraine.JPG|200px|thumb|1月蜂起中の[[リトアニア]]、[[ラトヴィア]]、'''ベラルーシ'''および[[ウクライナ]]における諸戦闘]]\nその後、ロシア帝国に支配されていた時代は、地方自治レベルでは旧ポーランド・リトアニア共和国の貴族(ほとんどがローマ・カトリック教徒)たちに一定の権限が許されていた。その間貴族たちはポーランド・リトアニア共和国の独立を目指す蜂起を2度起こした。[[1830年]]11月に行われた大蜂起([[十一月蜂起]])が失敗に終わると、貴族たちを中心にポーランド系の多くの人々がロシア帝国を脱出し、[[西ヨーロッパ]]や[[アメリカ大陸]]の各国へ亡命した(これは「[[大亡命]]」と呼ばれる)。それでも民主ポーランドを復活させようとする人々は[[1863年]]に2度目の大蜂起([[一月蜂起]])を起こす。これがロシア帝国によって再び鎮圧されると、ポーランド貴族や商工民や[[インテリ]]は[[キリスト教徒]]であるか[[ユダヤ教徒]]であるかを問わず徹底的な迫害に遭った。その結果、この地域の[[中産階級]]以上の人々(ほぼすべてがポーランド人 - ポーランド化した家系の人々 - であった)は亡命するか、あるいは財産を没収されてほとんど[[無産階級|無産者]]となり、中産階級そのものが滅亡した。その結果、ベラルーシに残った人々の大半は農民となり、ロシア帝国による直接支配が進んだ。ベラルーシの農民の大半はポーランド語を話すローマ・カトリック教会信者か、ルーシ語を話す東方正教会信者かのどちらかであった。前者(すなわちルーシ人からポーランド人となった者)はポーランドに近い西部に多く、後者(ルーシ人でい続けた者)はロシアに近い東部に多かった。\n\n{{未検証|date=2015年11月|section=1}}\n{{see also|北西地域 (ロシア帝国)}}\n一月蜂起以後はロシア帝国によるポーランド人(キリスト教徒とユダヤ教徒の間)分断政策が開始され、ロシア帝国から俗に「リトアニアのユダヤ人(リトヴァク)」と呼ばれるロシア系(東欧系)ユダヤ人たちが大量に送り込まれた。リトヴァクたちは14世紀の昔からずっとポーランドにいた西欧系ユダヤ人(ユダヤ教徒のポーランド人)とは文化も習慣も言語もかなり異なる人々で、ポーランドのキリスト教徒とユダヤ教徒の両方から嫌われる存在だったが、あまりに大量に移住してきたのでこの地域の[[人口動態]]を大きく変えてしまう事態になった。(この段落部分は、通常の理解とは異なる。通説的には次の通り。ベラルーシのユダヤ人は、ポーランドが呼び寄せた西欧ユダヤが、リトアニアとの合同により(リトアニア領内だった)ベラルーシに拡散したものが中心である([[:en:Lithuanian Jews|Lithuanian Jews]])。その頃ロシアはユダヤ人の移住を認めていなかったので、領内にはほとんどいなかった。その後、ロシアがポーランド分割によりベラルーシを含む旧ポーランド・リトアニアの一部を領有した結果、ロシアは国内にユダヤ人を抱え込むことになったが、その後も分割領有前のロシア領内にはユダヤ人の立ち入りを認めなかった。)このルーシ農民階層、リトヴァク、そして後にロシアから大量に移住してくる[[ロシア人]]の3者が、後の[[ソヴィエト連邦]](ソ連)ベラルーシ共和国の主要民族となり、特に最初の2者はソ連の[[無神論|無宗教]]政策によって完全に融合してしまうのである。\n\n=== ソビエト連邦 ===\n{{main|ソビエト連邦}}\n{{main|独ソ戦}}\n[[File:Caricature_for_Riga_Peace_1921.png|300px|thumb|リガ平和条約に基づいた、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]と[[ロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国|ソヴィエト・ロシア]]によるベラルーシ分割を批判するプロパガンダポスター。]]\n[[1917年]]に[[ロシア革命]]が起こり、そして[[第一次世界大戦]]の間占領していた[[ドイツ軍]]の占領が終わった後、[[1918年]]には史上初の独立国となる[[ベラルーシ人民共和国]]が樹立される。しかしこの[[政権]]は短命に終わり、[[1919年]]には[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]]が成立し、[[1922年]]には[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]に加盟する。この頃に起こった[[ポーランド・ソビエト戦争]]の結果成立した[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]により西半分が[[ポーランド]]に割譲された。\n\n[[1939年]]9月の[[第二次世界大戦]]の勃発により、[[ソ連軍]]は[[ナチス・ドイツ]]に続いて[[ソビエト連邦によるポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]。ポーランド東半分の占領と共に、リガ条約により割譲されていた領土を白ロシアに編入した。[[1941年]]からの[[独ソ戦]](大祖国戦争)では激戦地となり、[[ブレスト要塞]]や[[ミンスクの戦い]]を経て[[ドイツ国防軍]]に占領された後、[[1944年]]の[[バグラチオン作戦]]により奪回された。[[ハティニ虐殺]]など、ドイツは苛酷な統治を行った。対独反攻作戦において、ソ連軍は[[白ロシア戦線]]と呼ばれる方面軍を組織した。\n\n[[1945年]]に第二次世界大戦が終わると、[[ポツダム会談]]での取り決めによってソ連とポーランドの国境が西へ移動され、ベラルーシ全域がソ連領ベラルーシ共和国となり、この地域に住むポーランド系住民は西方へ追放された。この追放をソ連や現在のロシア共和国では「移住」と呼ぶ。これにより、ベラルーシ共和国は家系がポーランド化せずにルーシ人(ベラルーシ人)だった者か、あるいは19世紀にロシアから大量に移住してきた東欧ユダヤ系の家系の者、あるいはその混血ばかりの国家となったが、さらにロシア共和国などから多数のロシア人が移住してきた。\n\n[[1986年]][[4月26日]]、ベラルーシ共和国の南のウクライナ最北部にある[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]が発生し、おりからの南風に乗って放射性物質が国境を越え、南東部の[[ホミェリ]](ゴメリ)州を中心とする地域に大きな被害が及び、同州に限定すると、1991年以降は世界的平均の100倍以上にも達している。一方、非常に軽度の汚染州であるビテプスク州では1993年以降0件のままであることから、原発事故による汚染と甲状腺がんの相関性が認められる[Kazakov V.S., Demidchik E.P., Astakhova L.N. et.al., Thyroid Cancer after Chernobyl, Nature 359, 21-22, 1992]。([[チェルノブイリ原子力発電所]]を参照)。\n\n=== ソビエト連邦崩壊に伴う独立 ===\n[[1990年]][[7月27日]]に独立宣言(主権宣言)を行い、[[1991年]][[8月25日]]に独立が承認された。同年の[[12月8日]]にはベラルーシ最西部の[[ビャウォヴィエジャの森|ベロヴェーシの森]]で、ロシアの[[ボリス・エリツィン]]、ウクライナの[[レオニード・クラフチュク]]、ベラルーシの[[スタニスラフ・シュシケビッチ]]の三者の間で[[ソ連崩壊|ソビエト連邦の解体]]を宣言、[[独立国家共同体]] (CIS) 創設に関する協定が締結された。[[9月15日]]には国名が白ロシアから正式にベラルーシ共和国となった。\n\n[[ファイル:Flag_of_Belarus_(1918,_1991-1995).svg|thumb|right|1991-1995年の国旗
(ルカシェンコ政権によりソ連時代の旗を基本にしたデザインに変更)
([[ベラルーシの国旗]]も参照)]]\n\n=== ルカシェンコ政権 ===\n[[1994年]]に実施された大統領選挙では、[[ロシア|ロシア連邦]]との統合を目指すなどの選挙[[マニフェスト|公約]]を打ち出した[[アレクサンドル・ルカシェンコ]]が当選した。ルカシェンコ大統領は[[1999年]]12月8日、ロシア連邦の[[ボリス・エリツィン]]大統領(当時)と、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野においての統合を目指す[[ロシア・ベラルーシ連邦国家創設条約]]に調印した。しかし、その後、[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]がロシア連邦の新大統領として就任し、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになると、自らは初代「最高国家評議会議長(国家元首)」に就いて、ロシアには連合国家の閣僚会議議長(首相に相当)のポストを与えることでロシアの事実上の最高指導者になる野望を持っていたルカシェンコ大統領は反発するようになり、両国の統合は停滞した。その後も、ロシアが[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ大統領]]になっても、ロシアとベラルーシの関係悪化は続いた。\n\nメドヴェージェフから引き継いで再び大統領となったプーチンは、2018年においてもベラルーシに対して、エネルギー輸出などで圧力をかけながら国家統合を迫っている。ルカシェンコは協議には応じている一方で、「ロシアが西にある唯一の同盟国を失うのなら、彼らの責任だ」「両国の連合は平等な立場でのみ発展できる」[[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201901/CK2019011302000126.html 「統合迫るロシア ベラルーシ反発/プーチン氏 資源輸出で揺さぶり/両首脳、作業部会設置は合意」]『[[東京新聞]]』朝刊2019年1月13日(国際面)2019年1月28日閲覧。]と牽制。2019年11月17日にも「[[国家主権]]や[[独立]]を脅かすような書類には署名しない」と発言した[「ベラルーシ下院選、大統領系が全議席 ルカシェンコ氏、6選出馬へ」『[[読売新聞]]』朝刊2019年11月20日(国際面)。]。\n\n2010年12月の[[2010年ベラルーシ大統領選挙|大統領選挙]]では4選を果たしたものの、選挙後に[[野党]]の候補者が[[政権]]により拘束される[2011年2月3日の『[[朝日新聞]]』朝刊9面]など、野党勢力への[[弾圧]]は続いたことで、[[アメリカ合衆国]]や[[欧州連合]](EU)を中心とした[[西側諸国]]からの圧力を受け、国際的にも孤立を深めた。財政問題や経済不況が続く中、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]などでの呼びかけで、政権に抗議する一部の[[市民]]たちは無言で[[拍手]]をしながら街を練り歩くなど、ルカシェンコ政権への抗議運動が発生し始めているが、反政府運動は徹底的に厳しく取りしまられている[{{Cite news|url=http://www.rferl.org/content/belarus_marks_independence_amid_crackdown_on_dissent/24254152.html|title=Belarus Police Stifle Protests On Independence Day |publisher=Radio Free Europe Radio Liberty|date=2011年7月3日|accessdate=2011年7月9日}}]。\n\nしかしながら、経済不況ながらもソ連時代から続く富の分配政策や物価の低価格設定などにより、[[国民]]の生活は一応の安定を保っていることと、実質的にはルカシェンコ派以外が政権を担う力は皆無であるため、アメリカ合衆国やEUが期待するのとは裏腹に反政府運動も一向に盛り上がらないのが現状である。また、2014年にはロシアと[[カザフスタン]]の提唱した[[ユーラシア連合]]構想に加わって[[ユーラシア経済連合]]創設条約に調印[{{Cite news|url=http://www.jetro.go.jp/biznews/538be118a7f80?ref=rss|title=ロシアなど3ヵ国がユーラシア経済連合条約に署名−2015年1月1日に発効、域内の経済統合が加速− (ロシア、ベラルーシ、カザフスタン) |publisher=[[日本貿易振興機構|JETRO]]|date=2014年6月2日|accessdate=2014年8月1日}}]。ルカシェンコ大統領はロシアとある面では敵対しつつも連携し、[[中華人民共和国|中国]]や[[反米]]の[[イラン]]、[[ベネズエラ]]などの[[ラテンアメリカ|中南米]]諸国などといった非[[欧米]]諸国を中心とした国と巧みな外交手腕で経済援助を獲得することで、自身の[[独裁政治|独裁体制]]を維持している。\n\n== 政治 ==\n[[File:CSTO Collective Security Council meeting Kremlin, Moscow 2012-12-19 01.jpeg|thumb|200px|ロシアの[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]大統領と会談する[[アレクサンドル・ルカシェンコ|ルカシェンコ]]大統領(2012年)]]\nベラルーシは[[三権分立]]の[[共和制]]の国であるが、[[1996年]]に[[ベラルーシ共和国憲法]]が改正され、[[行政]]の中心である[[大統領]](任期5年)に非常に強い権限が与えられている。[[2004年]]に行われた国民投票により、憲法の大統領職の三選禁止規定が削除された。\n\n'''[[国民議会 (ベラルーシ)|ベラルーシの議会]]'''は[[二院制]]で、[[上院]]に相当する'''共和国院'''({{lang|be|Совет Республики}}, Sovet Respublik 定員64名)と、[[下院]]に相当する'''代表者院'''({{lang|be|Палата представителей}}, Palata Predstavitelei 定員110名)からなる。議員は、共和国院は国内の6つの州と[[ミンスク]]市の議会から8名ずつ選出、残り8名を大統領が指名する。代表者院は[[小選挙区制]]により選出され、任期は4年である。\n\n[[1994年]]以降、ルカシェンコが大統領の座に就いており、'''[[ヨーロッパ]]最後の[[独裁政治|独裁国家]]'''との批判を[[欧米]]諸国から受けている。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などの[[自由主義]]諸国との関係は良好ではなく(アメリカがベラルーシに[[経済制裁]]を科したため、[[2008年]]5月に[[国交]]を事実上断絶した、[[ジョージ・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が定義した「[[悪の枢軸]]」の中の一国である(当初は[[イラク]]、[[イラン]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]だったが、その後拡大している)。また、[[コンドリーザ・ライス]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]が定義した「専制の前線基地」の中の一国でもある)。\n\n2012年9月には、代表者院選挙が行われたが[[野党]]は[[ボイコット]]。全議席が親ルカシェンコ[[政党]]に配分され、自身の強固な[[独裁政治|独裁体制]]の維持に成功した。\n\nベラルーシは現在、ヨーロッパで唯一[[死刑]]制度が存在する[[国家]]である。\n\n=== 人権 ===\n非常に抑圧された国家の一つである。高齢者、未成年、障害者以外が職に就かず半年以上未納税の場合、平均月収程の罰金が課せられる、また失業者は社会奉仕が義務付けられている[[https://www.bengo4.com/other/1146/1304/n_3085/ 半年無職だと「罰金3万円」を科せられる「ニート罰金法」 もし日本で制定されたら?]][[http://jp.reuters.com/article/parasites-idJPKBN16L0H4 ベラルーシで「社会的寄生虫税」撤回求め抗議、大統領辞任要求も]][[http://www.sankei.com/west/news/150526/wst1505260007-n1.html 「社会寄生虫駆除法」成立 働かない者は罰金、拘束も]]。公の場でのデモ、集会は厳しく規制されており、政治的な意見の表明や政権批判、大統領批判をすれば、逮捕・拘束される[[http://jp.reuters.com/article/tk0739752-belarus-protest-toys-idJPTYE81M02K20120223 ベラルーシ大統領に「おもちゃ」で抗議、男性に有罪判決]]。\n\n厳しい規制を逃れるために、ただ[[拍手]]をするだけの[[デモ活動]]を「拍手によって政治的な意見を表明した」と弾圧し[[http://www.afpbb.com/articles/-/2810243 ベラルーシの「拍手デモ」を警官隊が鎮圧、「蜂起を夢想するな」と大統領]]、片手の参加者も拍手をしたと逮捕された。過去には聾唖者が「政治スローガンを叫んだ」として逮捕される事態が起きている。この片手による拍手逮捕は、2013年にルカシェンコ大統領とベラルーシ警察に対し、[[イグノーベル賞]]平和賞を受賞する事になった[http://www.huffingtonpost.jp/2013/09/13/ig-nobel-prize_n_3919177.html]。\n\n== 経済 ==\n[[File:View of Minsk 2002.jpg|thumb|left|首都[[ミンスク]]]]\n\n[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]のベラルーシの[[GDP]]は717億ドルである。一人あたりの[[国の国内総生産順リスト (一人当り為替レート)|GDP(為替レート)]]は7,577ドルで、[[バルト三国]]を除く旧ソ連構成国の中では、ロシア (14,818ドル)、[[カザフスタン]] (12,843ドル) についで3番目であり、隣国ウクライナ (3,919ドル) の2倍である。\n\n[[1991年]]の独立後、他のCIS諸国と同様に市場経済化を推進していた。しかし、[[1995年]]に大統領に就任したルカシェンコは、「[[社会主義市場経済]]」を導入し社会主義政策を開始した。これに基づき、統制価格の導入や、政府による民間企業への介入により自国の[[製造業]]の保護に努める傍ら、[[ロシア]]と[[関税同盟]]を結ぶなどの経済統合政策により、経済成長を実現させた。しかし、[[1998年]]8月に発生した[[ロシア財政危機]]に伴い、[[1998年]]から[[1999年]]の2年連続で悪化し、激しい[[インフレーション]]や生産の低下に見舞われた。[[2000年]]1月1日には[[デノミネーション]]が実施された。以降はロシア経済の急速な回復に支えられ順調な経済成長を続けているが、2016年7月には再びデノミネーションを実施している。\n\n対露経済統合はロシア側に政治、経済的に大きく左右される事、ベラルーシ側に大幅な貿易赤字をもたらすなど問題があり、近年はロシアに自国の産業が脅かされるとの警戒感から、経済統合政策は事実上停滞している。ただ、当分の間ベラルーシは西欧型の市場経済からは離れ続けると見られているが、[[2011年]]に入り、国内の経済状況が極度に悪化しており、ロシアがベラルーシの吸収合併へ向けた動きを加速させている。\n\n[[2009年]][[5月29日]]、ロシアの[[アレクセイ・クドリン]]財務相は、ベラルーシが近い将来支払不能(すなわち[[破産]])に陥るとの見方を示した。これは、ベラルーシが市場改革を行わず、ソ連型社会主義体制のままであることによる。天然資源にも乏しく、国家財政の基盤となるものが脆弱なのにも関わらず、ルカシェンコ個人の趣味である[[アイスホッケー]]場を多数建設させたり、食品や生活用品の価格に税金をかけず、逆に国の補助金で安く抑えたりするなどの放漫財政を行っている。ただ、こうした政策を行っているからこそ、ルカシェンコによる独裁体制が支持されているという側面もあった。ルカシェンコ大統領は体制維持のためロシアと[[欧州連合]](EU)を天秤にかけ、双方から経済支援を引き出すしたたかな外交を展開していた。しかし、この手法も[[2010年代]]に入ると、もはや通用しなくなった。\n\nまず、2010年6月21日より、ロシアの[[ガスプロム]]が[[天然ガス]]の代金未払いを理由にベラルーシへのガス供給の削減を開始した。しかし今度はベラルーシがガスプロムに対して「欧州向け天然ガスにおける[[パイプライン]]の通過料が未払いであり、翌日(24日)の朝までに支払われなければ、欧州向け天然ガスの供給を全面的に停止する」と警告をした。これにより、『欧州を含めた、新たな天然ガス供給に関する紛争』が生じ、ルカシェンコ大統領は「ロシアとの間でガス戦争が始まった」と発言したが、6月24日にベラルーシ側が未払い代金を支払い、ガス戦争は早々と終結した。しかし、ベラルーシとロシア間で強いわだかまりが残る結果となった。\n\nそして、2010年12月にルカシェンコが四選を果たした直後から、2009年のロシアのクドリン財務相の予言通り、ベラルーシが経済危機に陥った。ロシア産[[石油]]・天然ガスの価格引き上げと、先述したバラマキ放漫財政に耐えられず、[[外貨準備]]が底をついた状況になっている。ベラルーシ各地の[[両替]]所では[[外貨]]を求める人々の長蛇の列ができ、物価高騰を恐れる庶民は商品買い占めに走っている状況となった。ロシア側はベラルーシの国営企業売却などを求めており、これによりベラルーシのインフラを掌握し、また、通貨を[[ロシアルーブル]]にすべきだという意見も出ており、ベラルーシをロシアに事実上吸収合併しようとする動きを強めている。過去に「ロシアに泣きついて頭など下げない」(ロシアの経済支援棚上げについて)などといった強気の発言を繰り返してきた、「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれているルカシェンコ大統領は崖っぷちの状況に陥っている。この状態を打破するには、ルカシェンコが採用していたソ連型社会主義経済から、完全な市場経済社会へ向けた痛みを伴う大掛かりな改革が必要であるとされる[{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110531/erp11053100570002-n1.htm|title=「欧州最後の独裁者」ルカシェンコ大統領窮地 ベラルーシ経済危機 露、統合路線を加速|publisher=『[[産経新聞]]』|date=2011-5-31|accessdate=2011-5-31}}]。\n\n紆余曲折の末、ルカシェンコ大統領がロシア主導の「[[ユーラシア連合]]」への参加を表明し、その見返りにロシアは天然ガスを特別割引価格で提供、また、ガスパイプラインをロシアが買い取る協定が結ばれ、ベラルーシ経済がロシアに掌握された格好となった。\n\nだが、国営企業で働く従業員の賃金未払いや工場の操業停止など、深刻な経済状況は依然として続き、更に、ロシアは国営企業の民営化の遅れなどを理由にベラルーシへの資金援助を2013年に打ち切った。崖っぷちに追い込まれたルカシェンコ大統領は今度は[[中華人民共和国]]へ急接近、中国との間で15億ドルの経済投資協定を締結、中国は欧州進出の足掛かりを得ることができ、ベラルーシは財政破綻を回避できた[{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130730/erp13073023220007-n1.htm|title=中国に急接近の独裁国家ベラルーシ 「スラブの兄弟」露はいらだち|publisher=『産経新聞』|date=2013年7月3日|accessdate=2013年8月3日}}]。同時期には[[蘇州工業園区]]に倣った{{仮リンク|中国-ベラルーシ工業園区|en|China-Belarus Industrial Park}}も開設され、これによりベラルーシの軍事パレードでは中国の[[紅旗 (自動車)|紅旗]]がパレードカーになって[[中国人民解放軍]]もベラルーシ軍とともに行進し[{{cite web|url=http://eng.belta.by/fotoreportage/view/independence-day-parade-in-minsk-113091-2018/|title=Independence Day parade in Minsk|webcite=BelTA|date=2018-07-03|accessdate=2018-07-04}}][{{cite web|url=http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2015-05/07/content_35510707.htm|title=中国のパレードカー、ベラルーシの閲兵式に登場|webcite=[[人民網]]|date=2015-07-05|accessdate=2016-08-21}}]、中国製武器の購入[{{cite web|url=http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2016-07/01/content_38790802.htm|title=ベラルーシ、中国製ロケット砲を公開|webcite=udf.by|date=2016-07-01|accessdate=2018-05-07}}][{{cite web|url=https://21stcenturyasianarmsrace.com/2017/07/09/the-belarusian-army-is-using-a-lot-of-chinese-hardware/|title=The Belarusian Army Is Using A Lot Of Chinese Hardware|webcite=udf.by|date=2017-07-09|accessdate=2018-05-07}}]や[[弾道ミサイル]]を共同開発[{{cite web|url=https://sputniknews.com/europe/201506161023442003/|title=Belarus Tests Secretive Rocket Launcher System in China|webcite=[[スプートニク (通信社)|スプートニク]]|date=2015-06-16|accessdate=2017-06-22}}][{{cite web|url=https://udf.by/english/main-story/157376-belarusian-defence-industries-doubling-exports-and-launching-ballistic-missile-production.html|title=Belarusian defence industries: doubling exports and launching ballistic missile production|webcite=udf.by|date=2018-04-30|accessdate=2018-05-07}}]するなど経済的にも軍事的にも密接な関係が続いている。\n\n[[File:Tree map export 2009 Belarus.jpeg|thumb|色と面積で示したベラルーシの輸出品目(2009年)]]\n\nベラルーシの鉱業は、原油、天然ガス、ソリゴルスクで採掘される[[岩塩]](カリ塩 KCl)に限定されている。原油だけは自国内の消費量の数割を賄うことが可能である。農業では、[[麦]]類の生産に向く気象条件から世界第4位(150万トン、2002年)の[[ライムギ|ライ麦]]を筆頭に、[[大麦]]、[[エンバク|燕麦]]の生産が盛ん。春[[小麦]]の栽培も見られる。工芸作物としては世界第5位(3万2000トン)である[[亜麻]]の生産が際立つ。工業は繊維業、化学工業(肥料)が盛ん。[[羊]][[皮革|皮]]の生産量は世界第4位(8万トン)であり、カリ塩の採掘に支えられたカリ[[肥料]]の生産は世界第3位(369万トン)となっている。[[硝酸]]の生産量は世界第8位(88万トン)。\n\n[[第三次産業]]では、理工系教育を重視していた旧ソ連時代からの伝統で、[[情報技術]](IT)分野の人材が豊富である。『[[World of Tanks]]』(WOT)を開発した[[ウォーゲーミング]]社は1998年にベラルーシで創業した(法人[[登記]]を2011年に[[キプロス]]へ移した後も本社機能はミンスクにある)。ベラルーシ政府は2005年にIT企業への税制優遇プログラムを導入し、[[Viber]]などを生み出した。ルカシェンコ大統領は2017年にデジタル産業育成令を発布した[[https://mainichi.jp/articles/20191120/ddm/007/030/061000c 「欧州最後の独裁国家ベラルーシ/下院選 110議席全勝」「IT開花 経済変革」]『[[毎日新聞]]』朝刊2019年11月20日(国際面)同日閲覧。]。\n\nルカシェンコ独裁体制下で[[司法の独立]]が欠如していることから、企業が政府から不当な圧力を受け、特に破綻を追い込まれる問題が存在している[。 \n\n=== 貿易 ===\n2002年時点では輸入90億ドルに対し、輸出は81億ドルであり、わずかに入超である。主な輸入品は原油、機械類、鉄鉱。輸入相手国は、ロシア、ドイツ、ウクライナである。ロシアとの取引が65%を占める。主な輸出品は、石油製品、自動車、機械類であり、輸出相手国はロシア、[[ラトビア]]、[[イギリス]]である。輸出ではロシアの占める割合は50%に留まる。[[日本]]との貿易では、[[乳製品]]を輸出(全体の44%)し、無線通信機器を輸入(全体の35%)している。\n\n== 軍事 ==\n[[File:RIAN archive 1047080 Work of \"Kamenyuki\" frontier post on Belarus border with Poland.jpg|thumb|国境をパトロールする兵士]]\n{{main|ベラルーシ共和国軍}}\n陸軍及び空軍・[[防空軍]]の二軍からなる国軍を有する。[[ベラルーシ国防省]]の管轄下にあり、大統領が最高指揮官となる。この他に準軍事組織として、内務省の[[ベラルーシ国内軍]]と[[ベラルーシ国家国境軍委員会]]がある。ロシアを中心とした[[集団安全保障条約]]に加盟しており、[[北大西洋条約機構]](NATO)には加盟していないが、[[アフガニスタン]]への[[国際治安支援部隊]](ISAF)展開を支援するなど、部分的には協力を行っている。\n\n国軍は1991年の独立に伴い、旧ソ連軍を改編して創設された。\n\n== 文化 ==\n=== 衣服 ===\nベラルーシの伝統的な衣服は[[キエフ大公国]]の時代に起源がある。寒冷な気候のために服は体温を保つように設計され、通常は[[アマ (植物)|亜麻]]や[[ウール|羊毛]]を素材としていた。ポーランド、リトアニア、ラトビア、ロシアや他のヨーロッパ諸国など、近隣の地域の文化の影響を受けた華麗な模様が衣服にあしらわれている。また、ベラルーシ内の地域ごとに特別なデザインの模様が発達している。][{{cite web|url=http://www.belarusguide.com/culture1/clothing/index.html|title=Belarusian traditional clothing|publisher=Belarusguide.com|accessdate=29 April 2013}}]ベラルーシの国旗の左側にある赤・白の模様は、伝統的な衣装で広く使われる装飾模様の一つである。[{{cite web|url=http://fotw.fivestarflags.com/by.html#orn|title=Belarus – Ornament, Flags of the World|publisher=Fotw.fivestarflags.com|accessdate=29 April 2013}}]\n\n=== 食文化 ===\n{{main|ベラルーシ料理}}\n[[File:Potato pancakes.jpg|thumb|right|国民的な料理の[[ドラニキ]]]]\nベラルーシ料理は主に野菜、豚肉をはじめとする肉類に、パンから構成される。料理は通常時間をかけて作られるか、あるいは[[シチュー]]として調理される。通常ベラルーシ人は軽めの朝食とボリュームのある二度の食事を取り、夕食の量は一日の食事で最も多い。[[コムギ|小麦]]と[[ライムギ|ライ麦]]のパンが食べられているが、小麦の栽培に不適な環境のため、ライ麦のパンが多く消費されている。来賓や訪問客を迎えた家の主人は[[パンと塩]]を提供するのが、歓迎の意思を示す伝統的なしきたりである。[Canadian Citizenship and Immigration – [http://www.cp-pc.ca/english/belarus/eating.html Cultures Profile Project – Eating the Belarusian Way] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20070320041709/http://www.cp-pc.ca/english/belarus/eating.html |date=20 March 2007 }} (1998); retrieved 21 March 2007.]\n\n=== 世界遺産 ===\n{{Main|ベラルーシの世界遺産}}\nベラルーシ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。\n\n=== 祝祭日 ===\n{|class=\"wikitable\"\n! 日付 !! 日本語表記 !! 現地語表記 !! 備考\n|-\n||[[1月1日]]||[[元日]]||||\n|-\n||[[1月7日]]||正教会の[[クリスマス]]||||[[ユリウス暦]]の12月25日。\n|-\n||[[3月8日]]||[[国際女性デー]]||||\n|-\n||移動祝日||カトリックの[[復活祭]]||||日付は[[復活祭]]参照。\n|-\n||[[5月1日]]||[[メーデー]]||||\n|-\n||移動祝日||正教会の[[復活大祭]]||||日付は[[復活祭]]参照。\n|-\n||[[5月9日]]||勝利の日||||\n|-\n||[[7月3日]]||[[独立記念日 (ベラルーシ)|独立記念日]]||||\n|-\n||[[11月7日]]||[[十月革命]]の日||||\n|-\n||[[12月25日]]||[[カトリック教会|カトリック]]の[[クリスマス]]||||\n|}\n\n== スポーツ ==\n{{Main|ベラルーシのスポーツ}}\nルカシェンコ大統領も自らプレイヤーとして嗜む[[アイスホッケー]]が非常に盛んで、[[2002年ソルトレークシティオリンピックのアイスホッケー競技|ソルトレイクシティオリンピック]]では男子チームが、[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]]プレイヤーを数多く揃える[[アイスホッケースウェーデン代表|スウェーデン]]を破り4位に入るなど、国際舞台でも活躍を見せている。NHLと並ぶ世界最高峰のアイスホッケーリーグであるKHLには、ベラルーシのクラブとしてディナモ・ミンスクが唯一参加しており、[[2010年バンクーバーオリンピックのアイスホッケー競技|バンクーバーオリンピック]]にもこのチームから代表へ、主力選手が多数選出されている。2014年には[[ミンスク・アリーナ]]を主会場に、[[アイスホッケー世界選手権|世界選手権]]も開催される予定である。\n\n=== ベラルーシ出身のスポーツ選手 ===\n*[[アレクサンドル・フレブ]] - [[サッカー選手]]\n*[[ユリア・ラスキナ]] - [[新体操]]選手\n*[[スベトラーナ・ボギンスカヤ|スベトラーナ・レオニドヴナ・ボギンスカヤ]] (Svetlana Leonidovna Boguinskaia) - 体操選手\n*[[ビクトリア・アザレンカ]] (Victoria Azarenka) - 女子プロ[[テニス選手]]\n*[[ヴァシル・キリエンカ]] (Vasil Kiryienka) - [[自転車競技]]選手\n*[[アレクセイ・ゼハーナセク]](Aliaksei Zharnasek) - プロ水上スキー選手\n*[[ブラディミル・サムソノフ]](Vladimir Samsonov) - [[卓球]]選手\n*[[アレクセイ・イグナショフ]](Alexey Ignashov)- [[K-1]]等でも活躍した[[キックボクサー]]\n\n== 参考文献 ==\n{{節スタブ}}\n\n== 脚注 ==\n{{脚注ヘルプ}}\n{{Reflist|2}}\n\n== 関連項目 ==\n*[[ベラルーシ人]]\n*[[ベラルーシ人民共和国]]\n*[[ベラルーシ関係記事の一覧]]\n*[[ベラルーシ国立ストライク委員会]]\n\n\n== 外部リンク ==\n{{Commons&cat|Belarus|Belarus}}\n; 政府\n* [http://www.e-belarus.org/index.html ベラルーシ共和国政府] {{en icon}}\n* [http://www.president.gov.by/ ベラルーシ大統領府] {{be icon}}{{ru icon}}{{en icon}}\n* [http://japan.mfa.gov.by/ja/ 在日ベラルーシ大使館] {{ja icon}}\n** [http://www.belarus.jp/ ベラルーシ共和国情報サイト ベラルーシの風] {{ja icon}}\n\n; 日本政府\n* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/belarus/ 日本外務省 - ベラルーシ] {{ja icon}}\n* [https://www.by.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html/ 在ベラルーシ日本国大使館]{{ja icon}}\n\n; 観光\n* [http://belarustourism.by/ ベラルーシ政府観光局] {{ru icon}}{{en icon}}\n\n{{ヨーロッパ}}\n{{独立国家共同体}}\n{{Normdaten}}\n\n{{デフォルトソート:へらるうし}}\n[[Category:ベラルーシ|*]]\n[[Category:独立国家共同体]]\n[[Category:内陸国]]\n[[Category:共和国]]\n[[Category:ロシア語圏]]"}
+{"title": "タンザニア", "text": "{{基礎情報 国\n| 略名 = タンザニア\n| 日本語国名 = タンザニア連合共和国\n| 公式国名 = '''{{Lang|sw|Jamhuri ya Muungano wa Tanzania}}''' (スワヒリ語)
'''{{Lang|en|United Republic of Tanzania }}''' (英語)\n| 国旗画像 = Flag of Tanzania.svg\n| 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of tanzania.svg|100px|タンザニアの国章]]\n| 国章リンク = ([[タンザニアの国章|国章]])\n| 標語 = ''{{Lang|sw|Uhuru na Umoja}}''
([[スワヒリ語]]: \"自由と統一\")\n| 位置画像 = Tanzania (orthographic projection).svg\n| 公用語 = [[スワヒリ語]](国語、公用語)、[[英語]](公用語)[ [https://www.tanzania.go.tz/home/pages/223 Tanzania Goverment Portal :languages] タンザニア連合共和国政府 2019年1月1日閲覧 ] [[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tanzania/data.html 各国・地域情勢 国名:タンザニア連合共和国(United Republic of Tanzania)] 外務省 2019年1月1日閲覧]\n| 首都 = [[ドドマ]] 1\n| 最大都市 = [[ダルエスサラーム]]\n| 元首等肩書 = [[タンザニアの大統領一覧|大統領]]\n| 元首等氏名 = [[ジョン・マグフリ]]\n| 首相等肩書 = {{仮リンク|タンザニアの副大統領|en|Vice President of Tanzania|label=副大統領}}\n| 首相等氏名 = {{仮リンク|サミア・スルフ|en|Samia Suluhu}}\n| 他元首等肩書1 = {{仮リンク|タンザニアの首相一覧|en|List of Prime Ministers of Tanzania|label=首相}}\n| 他元首等氏名1 = {{仮リンク|カシム・マジャリワ|en|Kassim Majaliwa}}\n| 面積順位 = 30\n| 面積大きさ = 1 E11\n| 面積値 = 945,087\n| 水面積率 = 6.2%\n| 人口統計年 = 2012\n| 人口順位 =\n| 人口大きさ = 1 E7\n| 人口値 = 46,220,000\n| 人口密度値 = 39\n| GDP統計年元 = 2011\n| GDP値元 = 24兆8,174億[IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=71&pr.y=10&sy=2008&ey=2008&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=738&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=])]\n| GDP統計年MER = 2008\n| GDP順位MER = 95\n| GDP値MER = 207億\n| GDP統計年 = 2008\n| GDP順位 = 100\n| GDP値 = 537億\n| GDP/人 = 1,351\n| 建国形態 = [[独立]]
- タンガニーカ
- ザンジバル
- 合併\n| 建国年月日 = [[イギリス]]より
[[1961年]][[12月9日]]
[[1963年]][[12月19日]]
[[1964年]][[4月26日]]\n| 通貨 = [[タンザニア・シリング]]\n| 通貨コード = TZS\n| 時間帯 = (+3)\n| 夏時間 = なし\n| 国歌名 = 神よ、アフリカに祝福を\n| ISO 3166-1 = TZ / TZA\n| ccTLD = [[.tz]]\n| 国際電話番号 = 255 3\n| 注記 =
註1: データは本土のみ
註2: 立法府の議事堂は[[ドドマ]]、その他の政府官庁は[[ダルエスサラーム]]
註3: ケニアとウガンダから掛ける場合は 007\n}}\n'''タンザニア連合共和国'''(タンザニアれんごうきょうわこく)、通称'''タンザニア'''は、[[東アフリカ]]に位置する[[共和制]][[国家]]で、[[イギリス連邦]]加盟国である。[[ケニア]]、[[ウガンダ]]、[[ルワンダ]]、[[ブルンジ]]、[[ザンビア]]、[[マラウイ]]、[[モザンビーク]]と国境を接し、[[タンガニーカ湖]]対岸には[[コンゴ民主共和国]]があり、また[[インド洋]]に面する。[[1996年]]に立法府の議事堂が法律上の新首都[[ドドマ]]に移転されたが、その他の政府官庁は旧首都[[ダルエスサラーム]]にある。\n\n東アフリカ大陸部の[[タンガニーカ]]とインド洋島嶼部の[[ザンジバル]]から構成され、ザンジバルは中央政府から強い自治権を確保した[[ザンジバル革命政府]]によって統治されている。また、アフリカでも有数の大自然に恵まれ、文化的にも[[スワヒリ語]]を国語とし、アフリカ在来の言語が大きな役割を果たしている数少ない国家である。\n\n== 国名 ==\n正式名称は、スワヒリ語で '''Jamhuri ya Muungano wa Tanzania'''(ジャムフリ・ヤ・ムウンガーノ・ワ・タンザニア)。英語で ''United Republic of Tanzania''(ユナイテッド・リパブリック・オブ・タンザニア)。通称、''Tanzania''(タンザニア)。\n\n日本語の表記は、'''タンザニア連合共和国'''。通称、'''タンザニア'''。[[国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は、'''坦桑尼亜'''。\n\n国名はタンザニアを構成するために併合した[[タンガニーカ]](Tanganyika)と[[ザンジバル]](Zanzibar)の名前に、かつて[[アフリカ南部]]で栄えた{{仮リンク|アザニア|en|Azania|label=アザニア文化}}(Azania)の名前を複合して1964年に命名された。\n\n== 歴史 ==\n{{main|タンガニーカ|en:History of Tanzania|ザンジバルの歴史}}\n\n[[ファイル:GreatMosque.jpg|thumb|220px|right|[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群|キルワ・キシワニの大モスクの遺跡]]]]\n[[ファイル:Empire of Oman.svg|220px|right|thumb|19世紀半ば[[オマーン帝国]]の版図。19世紀のインド洋の覇権をイギリスと争ったオマーン帝国は、[[1830年代]]より東アフリカの[[ザンジバル]]に本拠地を置いていた。]]\n=== 有史以前 ===\n{{main|en:Political history of East Africa}}\n250万 - 200万年前に[[ホモ・ハビリス]]が現在のタンザニアに相当する地域(北部の[[オルドヴァイ峡谷]])に存在していたことが、[[ルイス・リーキー]]博士によって確認されている。\n\n=== バンツー系の民族移動 ===\n紀元前10世紀ごろ、現在の[[カメルーン]]に相当する地域から[[バントゥー系民族]]がタンザニアの森林部に移住した([[:en:Bantu expansion]])。\n\n=== イスラームの到来 ===\n7世紀に[[アラビア半島]]で[[イスラーム教]]が成立したあと、[[アラブ人]]や[[ペルシア人]]が東アフリカの[[インド洋]]沿岸部に渡来し、[[スワヒリ文明]]を築きあげた。10世紀頃から16世紀初頭にかけて、タンザニアには[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群|キルワ島]]や[[マフィア島]]、[[バガモヨ]]などのスワヒリ都市が栄えた。\n\n=== ポルトガル領時代 ===\n[[1498年]]に[[ポルトガル王国]]の航海者[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]がインド航路を開拓し、[[インド洋]]における[[ポルトガル]]の覇権が始まった。[[ポルトガル]]は1505年に[[キルワ・スルタン国|キルワ王国]]を滅ぼしたあと、東アフリカの各地を制圧した。\n\n=== オマーン帝国時代 ===\nアラブ勢力の拡大にともない、ポルトガル勢力は[[オマーン]]によって[[1698年]]に現在のタンザニア領から駆逐され、南方の[[モザンビーク島]]にまで撤退した。その後、19世紀に入ると{{仮リンク|マスカット・オマーン|en|Muscat and Oman|label=オマーン帝国}}({{lang-ar|مسقط وعمان}})の[[サイイド・サイード]]王が在地の[[マズルイ家]]から島嶼部と沿岸地方を自らの勢力圏に置き、1830年代にザンジバルに王宮[[ザンジバル島のストーン・タウン|ストーンタウン]]を建設し、帝国の本拠地を移した。[[1856年]]にサイイド・サイード王が死亡したあと、本国の[[オマーン・スルタン国]]とは別に[[サイイド・マージド]]がザンジバルの[[スルターン]]に即位すると[[ザンジバル・スルタン国]]([[:en:Sultanate of Zanzibar|Sultanate of Zanzibar]]、[[1856年]] - [[1964年]])が成立し、引き続き[[クローヴ]]などの[[香辛料]]の交易や[[奴隷貿易]]で栄え、この時代にザンジバルは東アフリカ最大の[[奴隷市場]]となった。19世紀後半には、ザンジバル出身のスワヒリ商人[[ティップー・ティプ]]が現在の[[コンゴ|コンゴ民主共和国]]東部に相当する[[タンガニーカ湖]]にまで勢力を伸ばし、内陸地域のスワヒリ語の普及の一因となった。彼は[[デイヴィッド・リヴィングストン]]や[[ヘンリー・モートン・スタンリー]]の探険も助けた。\n\n=== イギリス・ドイツ植民地時代 ===\n{{See also|ドイツ領東アフリカ}}\n[[ファイル:Meyers b14 s0300a.jpg|thumb|left|180px|[[ドイツ領東アフリカ]]]]\n[[1880年代]]に[[アフリカ分割]]が始まると、[[カール・ペータース]]の活動によって1885年に大陸部に[[ドイツ東アフリカ会社]]の植民地が認可された([[ドイツ領東アフリカ]])。19世紀後半からインド洋に進出していたイギリスは、[[1890年]][[7月1日]]にドイツと[[ヘルゴランド=ザンジバル条約]]を締結し、ザンジバル領のうち、沿岸地方はドイツが獲得し、島嶼部のザンジバルをイギリスの[[保護国]]とした。1890年に保護国となったザンジバル・スルタン国は、政変にともなう[[1896年]]の[[イギリス・ザンジバル戦争|イギリスとの戦争]]でイギリスに一方的に敗北し、保護国化当初のザンジバルへの内政不干渉の原則は反故にされ、以後ザンジバルではイギリスによる行政が進んだ。\n\n一方、大陸部のタンガニーカでは、ペータースの植民地会社は沿岸地方で発生した[[アブシリの反乱]]の鎮圧に手こずり、会社による統治は不可能と判断され、本国[[ドイツ]]から総督の派遣を受ける統治形態へと変わった。19世紀末、領域内部には部族国家が複数存在しており、中でも[[ルヴマ州]]の[[ソンゲア・ルワフ・ムバノ]]率いる[[ンゴニ族]]と[[イリンガ州]]の[[ムクワワ]]率いる{{仮リンク|ヘヘ人|en|Hehe people|label=ヘヘ族}}が二大勢力であったが、相争っていたため、数年がかりで各個制圧されていった。しかしながら、指導者[[ムクワワ]]が率いる{{仮リンク|ヘヘ人|en|Hehe people|label=ヘヘ族}}との[[ゲリラ]]戦([[1891年]] - [[1898年]])は長期化した。1905年の霊媒師{{仮リンク|キンジキティレ・ングワレ|en|Kinjikitile Ngwale}}(Kinjikitile Ngwale)が主導する[[マジ・マジ反乱]]は[[ンゴニ族]]も呼応して最大の反乱となったが、ヘヘ族がドイツ側について部族の垣根を越えることはできず、徹底的に鎮圧された。この反乱を受けて、ドイツは統治政策の見直しを行うこととなった。沿岸部から[[タンガニーカ湖]]までを結ぶ鉄道({{lang-de|Tanganjikabahn}}現在の{{仮リンク|中央線 (タンザニア)|en|Central Line (Tanzania)|label=タンザニア中央鉄道}})は、1905年に[[ダルエスサラーム]]を起点に着工し、1914年には終点[[キゴマ]]に到達して完成した。\n\n1914年に[[第一次世界大戦]]が勃発すると、[[アフリカ戦線 (第一次世界大戦)#東アフリカ|東アフリカ戦線]]では[[パウル・フォン・レットウ=フォルベック]]将軍率いる現地人兵士([[アスカリ (兵士)|アスカリ]])を中心とした[[ゲリラ]]部隊が[[イギリス軍]]などを相手に本国の降伏時まで交戦を行った。\n{{Clearleft}}\n\n=== イギリス・ベルギー植民地時代 ===\n[[第一次世界大戦]]がドイツの敗北で終結したことにより[[ドイツ領東アフリカ]]は解体され、大半は[[イギリス]]の[[委任統治]]領[[タンガニーカ]]となり、東北部の[[ルアンダ=ウルンディ]]は[[ベルギー]]の委任統治領となった。イギリスは東アフリカで4地域([[ウガンダ]]、[[ケニア]]、[[タンガニーカ]]、[[ザンジバル]])を支配することとなり、これらには関税同盟が敷かれ、{{仮リンク|ドイツ領東アフリカルピー|en|German East African rupie}}に代えて共通通貨{{仮リンク|東アフリカ・シリング|en|East African shilling}}が導入された。中央鉄道には複数の支線が敷設され、そのひとつは[[ヴィクトリア湖]]の[[ムワンザ]]にまで延長された。\n\n1939年に[[第二次世界大戦]]が勃発するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、タンガニーカからは8万7,000人が出征した[吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.153]。東アフリカ部隊は{{仮リンク|東アフリカ戦線 (第二次世界大戦)|en|East African Campaign (World War II)|label=東アフリカ戦線}}で[[イタリア軍]]と、[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]で[[日本軍]]との戦いを繰り広げ、[[インパール作戦]]で日本軍が対峙した[[イギリス軍]]には多くのアフリカ人の[[アスカリ (兵士)|アスカリ]]が存在した。\n\n=== 独立と連合 ===\n[[ファイル:Julius Nyerere cropped.jpg|thumb|220px|right|タンザニア連合共和国初代大統領[[ジュリウス・ニエレレ]]。「ムワリム」([[スワヒリ語]]で「先生」の意)と呼ばれ、タンザニア人の尊敬を集めている。]]\n\n第二次世界大戦後、世界的な[[脱植民地化]]の潮流の中で{{仮リンク|タンガニーカ=アフリカ人民族同盟|en|Tanganyika African National Union}}(TANU)が次第に支持を集め、[[1961年]][[12月9日]]に大陸側のタンガニーカがイギリスの合意のもと平和的に独立した。[[1963年]]には[[ザンジバル王国]]も主権を獲得して独立した。しかし、翌[[1964年]]1月に[[ザンジバル革命|ザンジバルで革命が勃発]]すると国王は亡命し、アラブ人排斥の流血の事態の中で[[ザンジバル人民共和国]]が成立した。その後、ザンジバルでの政変を経て、ニエレレの[[汎アフリカ主義]]の精神の下で両国は連合し、1964年4月26日に'''タンガニーカ・ザンジバル連合共和国'''が成立した。同年10月29日、この国家連合は両国の名称とかつてこの地域で栄えた'''{{仮リンク|アザニア|en|Azania|label=アザニア文化}}'''の名称を複合し、'''タンザニア連合共和国'''と改称した。\n\n独立後、連合共和国の初代大統領となった[[ジュリウス・ニエレレ]]は、内政面では[[スワヒリ語]]を国語とし、1967年の{{仮リンク|アルーシャ宣言|en|Arusha Declaration}}発令以後は[[社会主義]]の建設を目指し、{{仮リンク|ウジャマー|en|Ujamaa}}と呼ばれるコンセプトに基づいた[[アフリカ社会主義]]を採用した([[ウジャマー社会主義]])。対外的には東アフリカ諸国を{{仮リンク|東アフリカ連邦|en|East African Federation}}に統合する構想を掲げ[Arnold, Guy (1974). Kenyatta and the Politics of Kenya. London: Dent. ISBN 0-460-07878-X. p. 173][Assensoh, A. B. (1998). African Political Leadership: Jomo Kenyatta, Kwame Nkrumah, and Julius K. Nyerere. Malabar, Florida: Krieger Publishing Company. ISBN 9780894649110. p. 55][Kyle, Keith (1997). \"The Politics of the Independence of Kenya\". Contemporary British History. 11 (4): 42–65. doi:10.1080/13619469708581458. p. 58.]、アルーシャを本部とする[[東アフリカ共同体]](第一次)を作り[{{Cite press release |title=TIlE TREATY FOR EAST AFRICANCO·OPERATION ACT 1967 |publisher=Kenya Law|url=http://kenyalaw.org/lex/rest//db/kenyalex/Kenya/Legislation/English/Amendment%20Acts/No.%2031%20of%201967.pdf|format=PDF |accessdate= 2018-06-030}}]、[[南アフリカ共和国]]の[[アパルトヘイト]]政権や[[ローデシア]]の対白人少数派支配に対抗する「最前線」として[[ザンビア]]や[[ボツワナ]]と{{仮リンク|フロントライン諸国|en|Frontline States}}(FLS)を結成して、ニエレレは初代議長を務めた[Arnold, Guy (6 April 2010). The A to Z of the Non-Aligned Movement and Third World. Scarecrow Press. pp. 126–127. ISBN 9781461672319. ]。また、ローデシアや南アフリカ共和国からの経済的な自立を図る[[タンザン鉄道]]の建設などを通じて[[中華人民共和国]]との関係を深め、[[ポルトガル]]とも敵対し、1964年に[[モザンビーク独立戦争]]が始まると、[[エドゥアルド・モンドラーネ]]議長の指導する[[モザンビーク解放戦線]](FRELIMO)を支援し、解放区を提供した。この時期にタンザニアはFRELIMOのみならず、[[ナミビア]]の[[南西アフリカ人民機構]](SWAPO)やジンバブエの{{仮リンク|ジンバブエ=アフリカ人民族同盟|en|Zimbabwe African National Union}}(ZANU)を支援している。\n\n1971年に[[ミルトン・オボテ]]が[[イディ・アミン]]のクーデターによって追放されて以来、オボテをかくまったタンザニアは隣国[[ウガンダ]]とは対立が続いた。\n\n=== タンザニア革命党 ===\n1977年にそれまで別組織だったTANUと{{仮リンク|アフロ・シラジ党|en|Afro-Shirazi Party}}(ASP)が統合し、[[タンザニア革命党]]が成立し、国内でも[[一党制]]に移行した。\n\n1978年にそれまで対立していたウガンダのアミン大統領がタンザニアに侵攻するとこれを撃退し、[[タンザニア軍]]はウガンダの首都[[カンパラ]]を攻略してアミン失脚の一因となった([[ウガンダ・タンザニア戦争]])。こうした政策によってタンザニアはアフリカ内外で[[第三世界]]を指導する国家の一角としての信望を集めたが、その一方で1970年代に入ると親[[西側諸国|西側]]的なケニアの[[ジョモ・ケニヤッタ]]との対立で自らの理想を体現した東アフリカ共同体は消滅し、[[旱魃]]による農業の衰退や、[[ウジャマー村]]の建設の失敗が各地で報告され、経済面でウジャマー社会主義の失敗が明らかになった。\n\n[[1980年代]]に入ると[[第二次石油危機]]の影響もあって経済の衰退は深刻化し、日用品や飲料水の不足に起因する国民の不満が高まる中、1985年11月にニエレレは引退を発表した。\n\n=== 経済の自由化 ===\n後任には与党タンザニア革命党から[[ザンジバル]]出身の[[アリ・ハッサン・ムウィニ]]が就任し、ムウィニの下で[[国際通貨基金|IMF]]の勧告を受け入れるなど経済の自由化が進められ、また[[複数政党制]]が認められて民主化が行われた。[[1995年]]に就任した[[ベンジャミン・ウィリアム・ムカパ]]大統領の時代には、1994年に民主化した南アフリカ共和国からの投資が盛んに行われ、経済は復興を遂げた。\n\n[[1998年]][[8月7日]]には[[アルカイーダ]]によって首都[[ダルエスサラーム]]の[[駐タンザニアアメリカ合衆国大使館]]が攻撃される、[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館爆破事件]]が発生した。\n\n[[2005年]]には[[ジャカヤ・キクウェテ]]が大統領に就任し、[[2015年]]には[[ジョン・マグフリ]]が大統領に就任した。\n\n== 政治 ==\n[[ファイル:Rais wa Tanzania na Manaibu Makatibu.jpg|thumb|第4代大統領[[ジャカヤ・キクウェテ]]と閣僚]]\n[[ファイル:John Magufuli 2015.png|thumb|right|100px|[[ジョン・マグフリ|マグフリ現大統領]]]]\nタンザニアは[[共和制]]、[[大統領制]]を[[国家体制]]とする立憲[[国家]]である。現行[[憲法]]は[[1977年]][[4月25日]]に制定([[1984年]][[10月]]に大幅改正)されたもの。\n\nタンザニア政治の特徴として、他のアフリカ諸国に多く見られる、特定[[部族]]による政権の独占や民族による投票行動が見られないことがあげられる。これは、国内に特別大きな民族グループが存在しないこと、スワヒリ語による初等教育と、教育プログラムに盛り込まれた汎タンザニア史などを通じてタンザニア人としてのアイデンティティ創出に成功したこと、初代大統領ニエレレがウジャマー社会主義建設の過程で旧来の地方組織を解体したこと、複数政党制導入時に民族を基盤とした政党結成が禁じられたことなどが理由となっている[『民主主義がアフリカ経済を殺す: 最底辺の10億人の国で起きている真実』p92-93、甘糟智子訳、日経BP社、2010年1月18日]。\n\n=== 元首 ===\n{{See also|タンザニアの大統領一覧|タンザニアの首相一覧}}\n[[元首|国家元首]]である[[大統領]]は、[[国民]]の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。[[首相]]および[[閣僚]]は大統領により任命されるが、閣僚は国民議会議員でなければならない。現在は2015年10月に与党信任で選出された[[ジョン・マグフリ|ジョン・マグフリ大統領]]。\n\n=== 立法 ===\n{{See also|タンザニアの政党}}\n[[立法府]]は[[一院制]]で、正式名称は'''[[国民議会 (タンザニア)|国民議会]]'''。定数は393議席で、うち264議席は国民の直接選挙枠(うち50議席は、ザンジバル5州内の選挙区より選出)、113議席は大統領が任命する女性議員枠、5議席は[[ザンジバル]]革命議会議員の枠である。議員の任期は5年である。\n\n[[1992年]]以来、タンザニアでは[[複数政党制]]が認められているが、[[タンザニア革命党]](CCM)による政権が独立以来続いている。その他の政党の勢力は脆弱だが、[[市民統一戦線]](CUF)と[[民主進歩党_(タンザニア)|民主進歩党]](CHADEMA)が比較的有力である。\n\n=== ザンジバル ===\n連合共和国政府とは別に、[[ザンジバル]]には独自の自治政府である'''[[ザンジバル革命政府]]'''および議会が存在し、ザンジバルの内政を担っている。統治権が及ぶのはザンジバル島の3州、および[[ペンバ島]]の2州である。ザンジバル大統領はザンジバル住民の直接選挙で選出され、任期は5年である。ザンジバル議会は一院制で定数81議席。議員の任期は5年で、81議席中50議席はザンジバル住民の直接選挙により選出される。2015年現在のザンジバル大統領は[[タンザニア革命党]](CCM)のAli Mohamed Shein。強力な自治政府であり、大陸からザンジバル島に渡る場合でも、[[入国管理]]手続きが存在する。[[タンガニーカ]]の独自政府は存在しない。\n\n一方で、ザンジバルにおいては首都のあるウングジャ島とペンバ島の間に対立がある。ペンバ島はザンジバル革命の時に旧政権側を支持したため、革命政権によって冷遇を受けた。この対立は民主化後でも続いており、ウングジャ島で[[タンザニア革命党]]が強い一方、ペンバ島はタンザニア最大野党・[[市民統一戦線]]の地盤となっている。ザンジバル経済はペンバ島でおもに栽培されるクローブの輸出を柱としているため、経済面での貢献に比してペンバ島が政治面で冷遇を受けていることがさらにこの対立を増幅している。\n\n2019年、日本国領土「竹島」を韓国領土を意味する通貨を発行すると[[韓国]]発のフェイクニュースが流れたが、捏造だった。\n\n== 軍事 ==\n[[ファイル:Zanzibar, 12 Jan. 2004, celebration of 40 years' Revolution.JPG|thumb|[[タンザニア軍|タンザニア人民防衛軍]]]]\n{{Main|タンザニア軍}}\nタンザニア人民防衛軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約2万7,000人である。兵制は[[志願制]]を採用している。2005年にはGDPの0.2%が軍事に支出された[。\n\n== 国際関係 ==\n独立以来、ニエレレ大統領の下で[[第三世界]]外交が実践され、特に[[ソビエト連邦]]よりも[[中華人民共和国]]との友好関係が築かれた。ザンビアからタンザニアに至る[[タンザン鉄道]]やタンザニア海軍基地なども中国の援助によって建設され、中国の支援でできた{{仮リンク|アマーン・スタジアム|en|Amaan Stadium}}でタンザニア革命党も設立された][Ogunsanwo, Alaba (1974). China's Policy in Africa, 1958-71. Cambridge: Cambridge University Press. p. 251.]。もともと英領東アフリカ植民地として同一の政府機構の下にあったウガンダやケニアとは独立時から東アフリカ共同役務機構を設立しており、アルーシャに事務局を置く[[東アフリカ共同体]](第一次)の盟主でもあったが、[[1977年]]にケニアと決裂して東アフリカ共同体は解体、1978年には[[ウガンダ・タンザニア戦争]]も起きた。その後、[[2001年]]に東アフリカ共同体はアルーシャで再結成され、再び協力体制が構築された。また、{{仮リンク|南部アフリカ開発調整会議|en|Southern African Development Coordination Conference}}(SADCC)の設立経緯から、他の東アフリカ諸国は加盟していない[[南部アフリカ開発共同体]](SADC)の一員でもある。\n\n=== 日本との関係 ===\n*在留日本人数 - 306名(2017年10月,外務省海外在留邦人数調査統計)[[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tanzania/data.html#section6 外務省 タンザニア基礎データ]]\n*在日タンザニア人数 - 437人(2016年12月,法務省在留外国人統計)[[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tanzania/data.html#section6 外務省 タンザニア基礎データ]]\n\n== 地理 ==\n[[ファイル:Tz-map.png|thumb|260px|タンザニアの地図]]\n[[ファイル:NgareSero.jpg|thumb|left|[[アフリカ大地溝帯]]]]\nタンザニアの面積94万5,087km²は世界31位の広さで[[エジプト]]に続き、[[ナイジェリア]]とほぼ等しい。北東部に'''アフリカ最高峰'''の[[キリマンジャロ山]](5,895メートル)があり、北部に'''アフリカ最大の面積'''を誇る[[ビクトリア湖]]、西部に'''アフリカでもっとも深い'''[[タンガニーカ湖]]がある。この南の[[ニアサ湖]]を含め'''アフリカ三大湖'''が存在する。これらは[[アフリカ大地溝帯]]が形成したものである。中部には高原が広がる。東部海岸は蒸し暑い気候で、ザンジバル島(ウングジャ島)がすぐ沖合にある。\n\n気候は国土の大半が[[サバナ気候]]に属し、中央部が[[ステップ気候]]、南部と北部の高原部が[[温暖冬季少雨気候]]である。降水量は海岸部やビクトリア湖岸、キリマンジャロ周辺では1,000ミリを超えるが、内陸部では500ミリ程度のところが多い。植生は、海岸部に熱帯半落葉降雨林が、内陸部に[[ミオンボ]](またはミヨンボ)と呼ばれる熱帯広葉雨緑乾燥林が広がっている。\n\n生態学上貴重な野生公園が数多くある。北の有名な[[ンゴロンゴロ保全地域]]と[[セレンゲティ国立公園]]、そして南に[[セルース猟獣保護区]]と[[ミクミ国立公園]]、西の[[ゴンベ国立公園]]は[[ジェーン・グドール]]博士が[[チンパンジー]]を研究したところである。タンザニア政府観光省が南西部ルクワ地域にある[[カランボ滝]]を観光拠点にしようと努めている。この滝はタンガニーカ湖南端にあり、アフリカ第2の規模である。\n\n== 地方行政区分 ==\n[[ファイル:Regions of Tanzania 2016.png|thumb|260px|タンザニアの州]]\n{{Main|タンザニアの地方行政区分}}\nタンザニア連合共和国は、タンガニーカの26州、ザンジバルの5州(ウングジャ島3州、ペンバ島2州)からなる。\n\n; タンガニーカ:\n: 首相府、地方自治国務相(Minister of State, Regional Administration and Local Government)の下、政令行政区上位から州(Region)、県(District)、郡(Division)、区(Ward)、村(Village/Street)と定められている。その他、県と郡の間に選挙区(Constituency)、村の下に隣組(Sub-Vilage)が存在する。また、行政系統が Regional Administration と Local Government に分かれており、連合共和国政府レベルの行政系統としてRegional Administration(州、県、郡)、地方政府の行政系統としてLocal Government(県、区、村)となっている。\n; ザンジバル:\n\n=== 主要都市 ===\n{{Main|タンザニアの都市の一覧}}\n* [[ダルエスサラーム]]\n* [[ドドマ]]\n* [[アルーシャ]]\n* [[ザンジバルシティ]]\n* [[タンガ (タンザニア)|タンガ]]\n* [[ムワンザ]]\n* [[タボラ]]\n* [[ムベヤ]]\n\n== 経済 ==\n[[ファイル:Dar es Salaam at a bird's view.jpg|thumb|300px|最大の都市[[ダルエスサラーム]]]]\n1980年代中盤まで、タンザニアはジュリウス・ニエレレ大統領の下ウジャマー社会主義を標榜し、ウジャマー村と呼ばれる集団農場を中心とした社会主義経済を目指していた。しかし旧来の社会制度をまったく無視したこの方式は失敗に終わり、生活必需品の供給すら滞る状態となった。1985年にニエレレの後を継いだアリ・ハッサン・ムウィニ大統領は、IMFの勧告を受け入れ、貿易制限の緩和などを行い[[自由経済]]へと舵を切った。以後タンザニア経済は緩やかに回復へと向かい、1995年に就任したベンジャミン・ムカパ大統領の行った国営企業の民営化など政府セクターの民間への移動と、南アフリカ共和国などからの投資の拡大により、1995年から2005年までの経済成長率は平均5%を記録した。\n\n=== 農業 ===\nタンザニア経済は農業に立脚しており、[[GDP]]の半分以上、輸出の80%、雇用の85%は農業によってもたらされている。[[キリマンジャロ (コーヒー)]]は上質のコーヒーとして世界中で愛好される主要輸出品である。ほかに[[茶]]が栽培される。ビクトリア湖周辺では、[[漁業]]と[[木綿|綿花]]栽培を中心とした[[農業]]が盛んに行われている。ビクトリア湖で捕獲される[[ナイルパーチ]]([[スズキ (魚)|スズキ]]に食感が似た[[淡水魚]])は加工され、世界各地に輸出されている。他に、[[カシューナッツ]]なども主要輸出品となっている。一方、ザンジバル経済の根幹を成しているのが[[クローブ]]の栽培である。[[19世紀]]半ばに[[オマーン]]の[[サイイド・サイード]]によって始められたクローブ栽培は、2015年現在ではザンジバルの主要な輸出品となっている。ザンジバルのクローブの90%はペンバ島で栽培されている。\n\n=== 鉱工業 ===\n鉱業では、[[宝石]]の[[タンザナイト]]を産出することで有名である。[[金]]はアフリカでは南ア、ガーナに次ぐ産出がある。また、ブルンジと同様、超塩基性岩にともなうNi-PGE鉱床が存在し、[[ニッケル]]・[[コバルト]]・[[銅]]が採掘されている。また、南部海域のガス田から天然ガスが生産されダルエスサラームと地方での発電に使われている。しかしタンザニアの電力の多くは[[水力発電]]によってまかなわれているため、[[旱魃]]の影響を受けやすく、[[水不足]]が電力不足に直結する。\n\n=== 観光 ===\n[[ファイル:Kilimanjaro 2006-08-13.JPG|thumb|220px|アフリカ大陸最高峰の[[キリマンジャロ山]]]]\nタンザニアの観光業は成長を続けている。タンザニアにおける観光業はGDPの17.5%を占め、外貨収入の25%を占めており、金の輸出に次いで第2位の外貨獲得産業となっている。[[http://www.tanzaniainvest.com/tourism/tourist-arrivals-reach-2016 Tanzania Tourist Arrivals Increase by 12.9% in 2016 to Reach 1,28 M - TanzaniaInvest\"]][[2004年]]にタンザニアに入国した観光客数は58万3,000人であり、1995年の2倍に達した[ 「タンザニアを知るための50章」p129 栗田和明・根本利通編著 明石書店 2006年7月10日初版第1刷 ]。さらに2016年には観光客数は128万4,279人となっており、増加の一途を辿っている。観光客の目的は[[ンゴロンゴロ保全地域]]や[[セレンゲティ国立公園]]などでの[[サファリ (旅行)|サファリ]]、[[キリマンジャロ]]への登山、[[ザンジバル島のストーン・タウン]]など歴史遺産やザンジバルでのビーチリゾートなど多岐に渡っている。\n\n== 交通 ==\n[[ファイル:Railways in Tanzania.svg|thumb|left|200px|[[タンザニアの鉄道|タンザニアの鉄道網]]]]\n交通網はあまり発達しておらず、輸送インフラも貧弱である。国内道路のうち、旧首都ダルエスサラームからキリマンジャロ山麓のアルーシャまでは舗装道路が通じているものの、他は未舗装の悪路である部分も多い。\n\n鉄道は、タンザニア中央鉄道と[[タンザン鉄道]]の2社があり、前者はダルエスサラームから北へ向かい[[タンガ]]や[[アルーシャ]]を結ぶ路線と、西へ向かい首都[[ドドマ]]、[[タボラ]]を通ってタンガニーカ湖畔の[[キゴマ]]へ向かう路線、タボラから北へ向かいビクトリア湖畔の[[ムワンザ]]へと向かう3路線を運行している。後者は[[1976年]]に建設され、ダルエスサラームから南西へ向かい、マラウイ国境近くの[[ムベヤ]]を通ってザンビア領の[[カピリムポシ]]までを結んでいる。\n\n水運は、タンガニーカとザンジバル間で活発であるほか、ビクトリア湖やタンガニーカ湖に国際[[フェリー]]が就航しており、ケニアやウガンダ、コンゴ民主共和国とを結んでいる。沿岸ではいまだに[[ダウ船]]での輸送も行われている。\n\n空運はかつて国営の[[タンザニア航空]]の独占であったが、自由化により中小の航空会社が多く設立されるようになった。\n{{Clearleft}}\n\n== 国民 ==\n{{main|タンザニアの国民|[[:en:Demographics of Tanzania]]}}\n[[ファイル:Tanzania-demography.png|thumb|250px|タンザニアの人口推移([[1961年]] - [[2003年]])]]\n\n=== 民族 ===\n[[バントゥー系民族|バントゥー系]]黒人が国民の95%を占め、タンガニーカでは99%がアフリカ系黒人であり、1%ほどのヨーロッパ系、アラブ系、インド系の市民が存在する[。ザンジバルでは[[アラブ人]]、アフリカ系黒人の他に、両者の[[混血]]が存在する][。また、アフリカ系黒人はザンジバル原住民と大陸からの移住民に別れ、ザンジバル原住民は[[イラン]]の[[シーラーズ]]からの移民の子孫であるとしてシラジと名乗り、混血民も含めてひとつの民族としてのアイデンティティを持つ。おもな民族は{{仮リンク|スクマ人|en|Sukuma people}}、{{仮リンク|ハヤ人|en|Haya people}}、{{仮リンク|ニャキュサ人|en|Nyakyusa people}}、[[ニャムウェジ人]]、[[チャガ族|チャガ人]]、[[マコンデ族]]などである。それ以外には[[トングェ族]]、{{仮リンク|ハッザ族|en|Hadza people}}などが存在する。また、北部から[[ケニア]]南部にかけて、先住民であり[[遊牧民]]の[[マサイ族]]も存在する。\n\n=== 言語 ===\n言語は、[[スワヒリ語]]が[[国語]]であり、[[スワヒリ語]]と[[英語]]が[[公用語]]である]